夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『土用の丑』、齢ばかり重ねた私は、何年間ぶりに『うなぎ』を頂きながら、微苦笑して・・。

2011-07-21 15:01:41 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は定年後、日常は自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりしている。

今朝も朝食を頂いた後、まもなく家内はスーパーのチラシに赤のサインペンで○印を付けて、
私に手渡した。
赤の○印は買い物の必須品であり、後は店内の品を見て、私が気に入った品を購入するのが、
我が家のいつもの習慣となっている。

そして家内は、
『あらぁ・・今日、『土用の丑』の日だわ・・
あなた・・久しぶりに『うな重』でも・・買われたら・・』
と私に微笑みながら言ったりした。


家内は連日の暑さの後、19日から台風の影響で、急激に気温が低下したので、
風邪気味で元気がなく、
お昼はスーパーのお惣菜コーナーの売り場で、お弁当をお願い、と私は言われたりした。

私は台風の定まらない天気で小雨が降ったり、ときおり風が吹いたりする中、
傘を差しながら、スーパーに向かい、大通りの歩道を歩いたりした・・。

そして、『うな重』かょ、と思いながら、ここ何年かは『うなぎ』を食べていない、
と思ったりした。


確か2006〈平成18〉年の2月下旬の頃、私たち夫婦は家内の母を誘い、
浜名湖の湖畔にある三ヶ日温泉の観光ホテルに5泊6日で温泉滞在した時、
この間のある日、家内たちは動物園に行き、私は植物園に行った日だった。

霧雨が降る中、冬枯れの樹木、草花の情景に私は魅せられた後、
家内たちと観光船の乗り場に待ち合わせをしていたが、
一時間半ばかり時間があり、
私は近くの『うなぎ』の小旗がたなびく食事処が3軒ばかり見えたので、
この中の一店に入った。

ご主人と奥方だけのこじんまりとした店内で、客は私だけだった・・。
私は程ほどの『うな重』を注文して、地酒を一合も注文した後、
ゆっくりと地酒を呑みだした。
もとより『うなぎ』は、時間を要するが、30数分過ぎても、
『うな重』はこなく、やむなく地酒を追加した。

結果としては、45分過ぎに『うな重』は、テーブルに置かれて、
私は頂いたが、一流店並みに時間を要したが、美味しくなく、街の『うなぎ料理店』以下であった。
そして落胆し、確かこれ以来、私は『うな重』は食べていなく、
うなぎより江戸前寿司の方が食欲を増すので、
この時節でも、何かと江戸前寿司の回転寿司店で頂いたりしている。


江戸時代の頃から、『土用の丑』と称せられ、
栄養価の高い『うなぎ』などを食べて、何とか暑い日々を乗り切ろう、
と心情は痛いほど理解できる。

私の現役時代は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な身であったので、
帰宅後、疲れ果てながら、ビールを呑みながら、『蒲焼き』のうなぎを盛んに頂いたり、
昼食の時は、同僚たちと10日に一度ぐらいは『うなぎ料理店』を利用していた。


スーパーの店内の特別コーナーは、
『霧島湧水うなぎ』の長焼〈一尾1680円〉、白焼〈一尾1580円〉、蒲焼〈1串1380円〉、
そして『中国産』〈一尾8800円〉も置かれて、
専任の方が焼いたりし、特有の香ばしい匂いの前を通り過ぎたりした。

その後、お惣菜コーナーの売り場で、『愛知三河産深蒸し うな重』1280円、
と明記された品に、年金生活の私にふさわしい、と確信しながら買い求めたりした。

そして家内には、可愛らしいおにぎりの3種類、おかずの5種類ばかり付いた『おにぎりセット』380円、
婦女子向けかしら、と思いながら、購入することにした。

しかし、これだったら夫婦の和が取れないので、家内用にロール・ケーキと桃を一個ばかり、
私は追加したりした。


このように風変わりな『土用の丑』の日となったが、
私たち夫婦には、このような日もよいかしら、と私は微苦笑したりした。


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たかが雑誌、されど雑誌、つたない我が人生の購読した雑誌の変貌は・・。

2011-07-20 00:09:58 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活66歳の身であるが、
何かと読書に魅了され、高校生の時代から、
本屋、ときおり古本屋に立ち寄り、買い求めたりしている。
そして小説、随筆、歴史書、ノンフィクションなどの単行本、文庫本で、
ここ5年前の頃からは文庫本より少し大きめの新書本も加わったりしている。

こうした中でも、あれこれの雑誌も購読してきたので、
つたない私でも、どのような雑誌の購読してきた変貌があったのか、
と先程ぼんやりと思い馳せたりした・・。


1944〈昭和19〉年に東京の郊外の農家の三男坊として生を受けた。

祖父、叔母、両親、兄2人などの7人の家族であり、
小作人の方たちの協力を受けて、程ほど広い田畑を耕していた。
そして多忙期の折などは、農業大学の実習生なども受け入れていた。
このような家庭環境であったが、
雑誌に関しては、農協の発刊する『家の光』しか記憶がなかった。

私が小学4年生を過ぎた頃、
都会から引越しされた同級生のサラリーマンの家に遊びに行った時、
居間にある書物を見て、余り多くあるので驚いて、子供心に衝撃を受けたりした。

この頃の私は、月刊誌の漫画の『少年画報』などを下校の時、
本屋で買い求め、読みながらとぼとぼ帰宅したりした。


私が読書に目覚めたのは、恥ずかしながら高校生になってからである。
人並みに文学の文庫本、単行本を買い求めたりしていたが、
授業の時事に魅了されたので、週刊誌の『朝日ジャーナル』を買い求め、
海の彼方のケネディなどの政治家に心酔していた。

大学に入学する前後から、映画専門雑誌の『キネマ旬報』に熱中し、
小学4年生の頃から独りでたびたび映画館に通ったりしてきた体験も加わり、
これが原因で大学を中退し、シナリオライターをめざして養成所に入所し、
アルバイトなどをしながら、映画青年の真似事の期間を過ごしたりしていた。

その後、講師の知人のアドバイスを頂き、小説の習作に移り、
契約社員の警備員などをし生活費の確保と空き時間を活用して、文学青年のような真似事をして、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を精読したり、
総合月刊雑誌の『文藝春秋』を不定期に購読していた。

この間、純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。


やむなく民間会社に中途入社をする為に、
技術を習得しょうとコンピュータの専門学校に一年ばかり学んだ後、
この当時は映像・音響メーカーの大企業だった会社に、何とか中途入社をしたのは、
25歳の時であり、遅ればせながら、社会人のひとりとなった。

この時から社会人に相応しいように、総合月刊雑誌の『世界』、『中央公論』、『文藝春秋』を毎月読んで、
まもなく転籍させられた会社がレコード会社であり、音楽に何の素養のない私であったので、
音楽専門月刊誌の『レコード芸術』を必死に読んだりしていた。

この頃は私は独身青年であったので、娯楽週刊誌の『平凡パンチ』まで読んでいたので、
一時期は『世界』から『平凡パンチ』まで雑誌を読んでいるのは、
日本広しといえども私ぐらい、と自惚(うぬぼ)れしてもいた時期であった。


50代の初めの頃に、教養娯楽雑誌の『サライ』を知り、
その後、パソコン初心者向けの『暮らしとパソコン』、ビジネス週刊誌の『日経ビジネス』、
音楽専門の週刊誌の『オリコン』なども買い求めたりしていた。

そして定年退職の4年前頃は、
大人の生き方誌と称された『ほんとうの時代』を精読し、私の退職後の生活を明確に思考していた。

定年退職後まもなくして、めぐり逢えたのは季刊誌の『文藝春秋SPECIAL』であり、
私の心身の波長に合うのである。


ここ数年の状況は、定期に購読しているのは月刊誌の『文藝春秋』であり、
25歳からの総合雑誌として持続しているので、毎月逢える私の心の友としている。
そして季節をめぐる毎には『文藝春秋SPECIAL』を秘かな恋人のように愛読している。

こうした中で、本屋の書棚で『中央公論』、『サライ』など特集に魅せられた場合は、
買い求めたりしている。


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松本清張の『講演会』のひとつ、作家の人生経験派、書斎派の文学論を発露、私は学び・・。

2011-07-19 14:00:02 | 真摯に『文学』を思考する時
私は総合月刊雑誌の『文藝春秋』を少なくとも1970〈昭和45〉年の春から購読しているひとりであり、
過ぎし10日に発売された8月特別号を、読みかけていた本を中断して、その日から読んだりした。
もとより月刊誌なので、旬の記事が多いので、優先的に読んだのである。

今回の本誌の中に、特集のひとつとして、『心に灯がつく人生の話』と題され、
今こそ聞くべき名講演10、と副題が付き、作家を中核に10人の方が、
数多く『文藝春秋の講演会』が行われてきた中から、厳選された講演の内容が掲載されていた。

私はこの10名の方が講演で述べられたことを教示されたが、
特に10日近く過ぎた今でも、思考させられているのが、
作家・松本清張〈まつもと・せいちょう〉氏が1987〈昭和62〉年10月31に、
高松市・四国新聞社ホールで語らえた講演の内容である。

氏は菊池寛〈きくち・かん〉氏を信愛していることは周知のことであり、
私なりに少しは理解できていたが、

《・・
〈菊池寛〉・・ともかく人生の裏、人間の裏、あるいは悲喜、哀楽こもごも、
そういったものを全部彼は体験して、そして小説家になっております。

〈略〉

・・菊池寛の小説の作り方、これも大きな教訓であります。
もし私がもう少し早く生まれ、あるいはもう少し早く菊池寛と機縁をもつということがあったならば、
私は菊池先生の門下生になっていただろうと思う。

しかも門下生の中で、もっとも俊英をもって鳴る地位を得たと思う。
というのは、菊池寛の境涯と私の境涯はよく似ている。
したがって、感情がよく似ているからであります。
・・》
注〉本誌の276、278ページ引用。
 記事の原文にあえて改行を多くした。

ここまで松本清張氏が菊池寛氏に深く親愛していたことには、驚かされたのである。


そして松本清張氏は、夏目漱石、芥川龍之介の両氏の文学を語られているのに、
私は幾度も読み返したりした。

《・・
漱石は英文学の大家であります。
その英文学の知識から、小説を作っておる。

〈略〉

菊池寛は痛烈に批判をしております。
〈略〉・・要するに頭で考えたものだ。
非常に気の利いた逆説といいますかパラドックスというんですか、
普通の言葉でなくて、喩〈たと〉えが気が利いている、ということ。

身振りで読者の人気を集めようと試みているにすぎない、と菊池寛は書いている。


芥川・・〈略〉・・みんな書物の書物の上の知識で小説を作っている。
・・
芥川の小説は、絢爛たる文章がちりばめてあるために、
非常に文章の巧緻、機知、そういうものが主体となっている。
芥川の人気は、そういうとこにあると思う。

〈略〉

〈芥川は〉しまいに、自分の将来に不安を持つようになる。
「ぼんやりとした不安」であります。

・・〈略〉・・私は、もう種が尽きたんだと。
まだ年が若うございますから、これ以上生き延びていくのには、
相当な努力をしなければならないのに、すでに才能が枯渇していた。

枯渇の理由は、頭で考えたからであります。
生活から出た経験はひとつもないから。
そうすると、源泉であるところの知識が枯れると、作品も枯れてくる。
・・》
注〉本誌の276、277ページ引用。
  記事の原文にあえて改行を多くした。


このことに関しては、本誌の中で、
この講演を明治大学教授の齋藤孝〈さいとう・たかし〉氏が解説を寄稿され、
この菊池寛と松本清張、そして夏目漱石と芥川龍之介について、
《・・
「人生経験派・リアリズムの菊池寛・松本清張」対「書斎派の夏目漱石・芥川龍之介」
・・》
と短適に明記されていたので、私は感心させられたりした。


私は作家の講演会を一度も拝聴したこともないが、
かの松本清張氏が、ここまで真摯に文学論を発露されたことに、ただ敬服するばかりである。


私は1944〈昭和19〉年に東京郊外の農家の三男坊として生を受けて、
幼年期、家の中には本といえば、
農協から発行されていた『家の光』しか記憶になかった。

その後、小学、中学生の時は、劣等生であり、ただ小学3年の頃から独りで映画館に行き、
映画に圧倒的に魅せられ、これ以降は映画の愛好者のひとりとなった・・。
そして、高校になると、突然に読書に目覚め、小説も乱読し、習作の真似事もした。

この間、映画専門誌の『キネマ旬報』なども愛読し、シナリオにも関心をもち始めて、
シナリオライターになりたくて、大学を中退したのが、1964〈昭和39〉年の秋であった・・。

まもなく養成所の演出コースに入所して、映画青年の真似事をしたりした。
その後は講師の知人のアドバイスにより、小説の習作を書き始めて、文学青年の真似事をした。

そして、契約社員、アルバイトをしながら、習作に励んだりし、
純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。

この後、1970〈昭和45〉年にある民間会社に中途入社し、35年ばかり勤めて定年を迎えた身である。


私は民間会社に入社して10年過ぎた1980〈昭和55〉年の頃に、
松本清張・著『半生の記』を遅ればせながら読んだ時、
私は自身が文学青年の真似事をしていた時、
単なる小説家にあこがれて、努力も欠け、うわべの習作だったかと思い知らされたのである。

この『半生の記』は、《・・金も学問も希望もなく、印刷所の版下工として
インクにまみれていた若き日の姿を回想して綴る〈人間松本清張〉の魂の記録である。・・》
と解説されているが、
生活の苦難の中、ひたすら読書を重ねて、真摯に文学をめざした状況を感じ合わせ、
私は甘く考えて対処していた、と大いに反省をさせられたのである。

そして多くの作家が発言している通り、
小説は実社会の体験を程ほどに経験をする必要があり、30過ぎてから・・、
と明言が、私は身に沁み、
若き20代の前半に習作した内容は、単に言葉を並べた散文で、構成力も弱いうわべの習作であった、
実感させられたりした。


私は1970〈昭和45〉年にある民間会社に中途入社してから、
小説を読むことは少なくなり、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などが圧倒的に多く、
定年後の年金生活でも読書が最優先としている。
そして、居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには勤めていた会社が音楽業界だったせいか、音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

しかし、生活費に気にすることのない愛好者のひとりであるので、身も心も楽であるが、
かって若き頃の映画・文学青年の真似事をしていた時代、
アルバイト、契約社員をしながら、ときには本を買うために一食抜いて、お金をためて、
購入して熱読した時もあった。

もとより根気と独創性も欠け、そして才能もなく、ただ熱望した時代であり、
敗退した身であるが、なぜか今の私には眩〈まぶ〉しく懐かしく感じることもある。


尚、昨今に於いて、風の噂によると、
大学の文学部の生徒の中には、夏目漱石の作品を読んだことのない生徒も一部にいる、
と聞いたりすると、
嘘だろう・・そういう人は文学部に入学志望をするはずがない、
と私は商学部を中退した身であったが、深く思ったりしている。


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齢ばかり重ねた私、遅寝、早起き、そして昼寝して、元気な児となり・・!?

2011-07-18 22:03:36 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策してしている。


過ぎし9日に平年より早く梅雨明けとなり、
私の住む街も、日中は30数度の真夏日が続いているので、
暑さに苦手な私は、買い物と散策は午前中となることが多くなっている。

帰宅後、この時節は網戸と簾〈すだれ〉で外気を取り入れているが、
居間で、室温が30度を超えた時は、
熱中症で救急車にお世話になるのは、高齢者2年生の私でも御免だから、
やむなくエアコンのスイッチを押し、28度に設定している。

そして洗面所で顔を洗い、作務衣などに着替える。
この後、やがてエアコンの冷風に身を寄せたりしている。


遅い昼食を頂いた後、昼下がりの頃になると、居間の片隅に簡易ベットを敷いて、
本の数冊を置いて、夏掛けの布団をかけて私は横たわる・・。

そして本を開いて読みはじめて、
1時間ぐらい読んでいるうちに、眠くなり寝付いてしまうのである。

現役のサラリーマンの時代は、数多くの人と同様に多忙で、
朝の6時過ぎに家を出て、帰宅するのは早くても夜の9時過ぎであり、
平日は睡眠不足となることが多かった。
昼食後の2時過ぎに、眠気を覚えた時は、トイレの洗面所で顔を洗ったりし、
自分の敵は自分である、と奮起させたりしていた。

このような体験があったので、年金生活で昼寝ができることが何よりの贅沢である、
と甘受している。


夕暮れの5時過ぎに、昼寝から目覚めて、ぼんやりとしながら、
冷茶かアイスコーヒーを飲んだりしている。
そして、我が家の居間の片隅に敷いた簡易ベットは、
特急の寝台車の個室、フェリーの個室などより、遥かに快適である、と微笑んだりしている。


夜の9時過ぎに私は、若き時代の20歳前後は、深夜族であったので、
この習性がよみがえり、心も身も波長に良く、
随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などを読みはじめたり、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

こうしていると深夜の12時過ぎも忘れることが多く、
深夜の2時過ぎに寝室の布団にもぐることもあり、苦笑したりしている。

そして、年金生活をしてから、起床は日の出と共に・・モットーにしているので、
この時節は、朝の5時過ぎに目覚め、朝涼〈あさすず〉のひとときを迎え、
樹木、草花を眺めたりしている。


このような私の生活は、熱い時節になると過ごすことが多く、
秋のお彼岸の頃まで続くのかしら、微苦笑している。


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『アメリカ映画ベスト100』選、古き良き時代の映画の愛好者の私は、思わず見惚れ・・。

2011-07-18 01:05:10 | 映画・テレビ
私は昨夜、ネットで偶然に『アメリカ映画ベスト100』選定を見たりし、
2時間ばかり見惚れたりしていた・・。

http://www.geocities.jp/yurikoariki/afi.html
☆アメリカ映画ベスト100 ~AFI(アメリカ映画協会)選出~
[1997 映画100年ベスト100] 
        [2007 映画100年ベスト100 10周年版] ☆

どなたが、AFI(アメリカ映画協会)選出された英文を日本語訳にして下さったのか不明であるが、
映画の研究者、或いは熱愛者のお方かしら、と思ったりしているが、私は感謝している。


私は1944年に東京郊外で生を受けて、小学3年の頃から独りで映画館に行き、
邦画に魅せられて、中学からは洋画にも魅了され、
これ以降は映画の愛好者のひとりなった・・。
そして、映画専門誌の『キネマ旬報』なども愛読し、シナリオにも関心をもち始めて、
シナリオライターになりたくて、大学を中退したのが、1964年の秋であった・・。

まもなく養成所の演出コースに入所して、映画青年の真似事をしたりした。
その後は講師の知人のアドバイスにより、小説を書き始めて、文学青年の真似事をした。

そして、契約社員、アルバイトをしながら、習作に励んだりし、
純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。

この後、1970年にある民間会社に中途入社し、35年ばかり勤めて定年を迎えた身である。

このように若き時代の一時には、映画館に通ったりして、程ほどに映画作品を鑑賞してきたので、
1966年頃までに上映された作品は知っているつもりであるが、
その後は数多くのサラリーマンと同様に多忙な時代を過ごしたので、
余り鑑賞する機会がなくなった。

定年後は年金生活をして、ときおり居間の映画棚に保管してあるビデオテープ、DVDの1000作品ぐらいを
居間のテレビを通して鑑賞したりしている。

しかしながら、2000年頃までに制作された作品が圧倒的に多いので、
古き良き時代の映画の愛好者のひとりかしら、と微苦笑する時もある。


このような思いのある私は、改めてAFI(アメリカ映画協会)選出された『アメリカ映画ベスト100』、
そして初めて見るジャンル別の100選を2時間ばかり見つめたしたのである。

そして、いつものようであるが、アメリカ人はこうした作品が好感されるのか、
と思ったり、或いはやはり私と同じように上位につけて、作品に敬意を示している、
と微笑んだりしている。


私はかって洋画全般であるが、歴代のベストテンを『キネマ旬報』に喚起させられて、
選定したことがあった。
参照として、掲載する。

http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/c281dbb99f1b5a1c54539f62174ef984
☆【 年金青年たわむれ記 ~かりそめ草紙~ 】
           【 私なりの歴代洋画ベストテンは 】☆


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原子力行政改革の新組織の発足のニュース、私は余りにも遅い、苦笑させられて・・。

2011-07-17 19:00:11 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
先ほど、ぼんやりと時事通信社の基幹ネットの【時事ドットコム】を開いたら、

《 来年4月に新組織=原子力規制、8月試案-細野担当相 》

と見出しされた記事を読んで、やっと新組織が来年の4月に発足できたか、
と私は苦笑した。

無断であるが、転載させて頂く。

《・・
      来年4月に新組織=原子力規制、8月試案-細野担当相

細野豪志原発事故担当相は17日、都内で記者団に、
福島第1原発事故を受けて検討している原子力規制に関する新組織について
「8月上旬には試案を出したい」と述べた。

その上で「来年4月に組織が出発できるようにペースを上げて議論したい」と語り、
2012年4月の設置を目指す意向を示した。

原発相はこれに先立ちNHK番組に出演し、原子力安全・保安院の経済産業省からの分離の必要性を改めて強調。
また、「(保安院と内閣府原子力)安全委員会を一緒にしていく。
モニタリングしている文部科学省の機能も一部移行できるのではないか」と語った。

【時事ドットコム】(2011/07/17-15:45)
・・》
注〉記事の原文にあえて改行を多くした。


私は政治にも疎〈うと〉く無力な高齢者2年生の身であるが、
福島原発事故の根源の問題点は、原子力行政にあると確信を深め、
即急に新組織で、国民より信頼される原発体制の構築を願い、3月30日このサイトに投稿している。

その後も、幾たびか投稿してきた・・。

http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/907a8b5840e20dad357c648b4308e18c
☆【 年金青年たわむれ記 ~かりそめ草紙~ 】
    5月19日付【 遅ればせながら、菅首相、『原子力行政は「根本的に見直す」・・』、と発言され、私は苦笑し・・。】

この後も、菅首相は原発問題を政局の梃子〈てこ〉のように使い、国政を弄〈もて〉あそび、
ご自身の延命の為か、幾たびかの幼稚な言動を繰り返したので、
このお方は政権与党の総理なのか、と無力な国民の私さえ、呆れ果て軽蔑し、
菅首相は非国民、と深く感じてきた・・。

今回のニュースにおいて、読みながら、、
私は民間会社の中小業の会社に35年ばかり勤めて定年した身であるが、
根幹の問題は迅速に解決していくことが責務である、と鍛えられたので、
遅ればせながら、やっと原子力行政の改革の発足を知り、苦笑させられたのである。


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つたない私は、小庭にある花に心を託して、この熱い時節を過ごし・・。

2011-07-17 12:40:53 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は2004年の秋に民間会社の中小業の音楽業界のある会社に35年ばかり勤めて定年退職後、
その後は年金生活となり、日常は自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。

その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受し、
その時に思ったこと、思索したことなどをあふれる思いとなり、心の発露として、
このサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。


日常の大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしいる。

こうした生活を過ごしたりしているが、過ぎし9日に平年より早く梅雨明けとなり、
私の住む街も、日中は30数度の真夏日が続いて、大いに戸惑ったりしている。


殆ど毎日り買い物は、最寄のスーパー2店に行ったりして、
駅前まで徒歩で15分コースのスーパー6店は遠のき、
散策も自宅からの近くの遊歩道などを歩いたりしている。

こうした時の私の容姿は、夏用のストレッチパンズの長ズボン、
アロハシャツかスポーツシャツの半そで、ウォーキング・シューズとなっている。

そして夏用の帽子を深めにかぶり、サングラスをして、扇子〈せんす〉を扇〈あお〉ぎながら、
姿勢を正して歩く。

ときおり、遊歩道の外れの大きな樹の下にあるベンチに座り、
川風を受けたりしながら、ハンドタオルで顔の汗を拭いたりして、
緑陰に身も心も寄せて、ひとときを過ごしたりする。


そして帰宅後、洗面所で顔を洗い、作務衣などに着替える。
この後、網戸と簾〈すだれ〉で外気を取り入れ、やがてエアコンの冷風に身を寄せるのが、
昨年までの年の習〈なら〉わしであった・・。

昨今の世の中は大きく変貌して、節電にご協力を願います、と霞が関の方面から聴こえたりするので、
やむなく暑さに苦手な私でも、扇風機、団扇(うちわ)に頼ったりしている。

しかしながら我が家の居間で、室温が30度を超えた時は、
熱中症で救急車にお世話になるのは、高齢者2年生の私でも御免だから、
やむなくエアコンのスイッチを押し、28度に設定している。


こうした中で、政治に疎〈うと〉い私さえ、
菅首相の園児のような言動に軽蔑さえ超えて、非国民、と思い深めている。

北日本大震災の復興の遅延、福島原発を初めするエネルギー難題など、
肝要な政権与党の諸兄諸姉まで混迷を深め、果たして日本は・・憂いたりしている。

無念ながら無力の私は、ため息を重ねることが多くなったりしている。

やむなく私は主庭のテラスに下り立ち、
樹木を眺めたりしながら、煙草を喫ったりし、
アメリカ芙蓉(フヨウ)の白と淡いピンクの複輪で底紅した花が、
3輪ばかり咲きはじめたのを見惚〈みと〉れたりした。

或いは唐糸草(カライトソウ)のピンクのたわわな花穂の芳(かぐわ)しい香りを感じたり、
半夏生(ハンゲショウ)の群生に、梅雨の時節から数枚の上葉が白く染められ、
名残りの花のような情景となっている。

そして、こうした草花たちは、微風が吹くと、少し首を傾(かし)げたように揺れている・・。

この後、ぼんやりと玄関の軒下に下り立つと、
高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)はたわわな紫紅色の花を眺めたり、
或いは塀際に群生している蒼色の紫露草(ムラサキ・ツユクサ)花を誉(ほ)めたりしていた。
そしてまもなく玉すだれ〈タマスダレ〉の純白な花が咲きはじめると、夏から初秋となる。


こうした情景を眺めたり、心を寄せたりすると、
昨今の社会の騒動も遠い世界の出来事のように思え、隠遁者のような心情かしら、と微苦笑している。

この後、ぼんやりと高齢者の私でも、清き一票がある、と励ましながら、苦笑を重ねたりしている。


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京の『祇園祭』、東京の田舎者の私、二年前に訪れた時のささやかな想いでは・・。 【下】

2011-07-17 00:27:57 | 旅のあれこれ
【・・
       第5章 宵山の日、山鉾のひとつ『月鉾(つきほこ)』の囃子舞台に上がれば・・。

京の奥座敷と名高い貴船の里よりで市内に戻ると、
私たち団体観光ツアーは特別実感サービスとして、山鉾のひとつ『月鉾(つきほこ)』のご好意により、
囃子(はなし)方が座られている二階のような囃子舞台に上がれることとなった。

30代の若き男性より、概要説明を受け、
私達は二階から『月鉾』までの間をあたかも渡り廊下を渡り、
囃子(はなし)方が着席する六畳ぐらいの囃子舞台に移動した・・。

そして、60代の世話役のような男性より、
屋根裏は草花図は円山応挙の筆に寄る江戸中期、
車輪の上にある基本部分の周囲に胴懸が飾られ、前方にあたる前懸は、
メダリオン絨毯で17世紀のインドの優良品です、
と優しく解説して下さったが、私は無念ながら無知の身であるが、
高価な優美の品、と感じたのである。

そして四方の4本柱なども華やかな飾金具などを眺めたりすると、
まぎれなく京の街人の長年の歳月に引き継がれたさりげない文化の粋、
と実感させられたのである。

この後、私は囃子舞台に立って、下方の大通りを眺めると、平素の二階建てより遥かに高く、
展望に良く、街並みを巡行する心持ちとなったりし、
心の中で秘かに微笑んだりした。

『月鉾』を降りた処で、厄病災難よけの『ちまき』まで頂き、
感謝しながら受け取ったのである。


この後、家内と一旦ホテルに戻り、身支度を改めた後、散策した。
昨日の宵々山めぐり、と同様に、鉾町周辺マップを見ながら、
数多く指定場所にある山鉾を観たり、人出の賑わう街並みを歩いた・・。

この街周辺を右手の東側から、左の西側に向う縦の通りを、
大通りの河原町通、そして小路の高倉通、東洞院通、
次の大通りの烏山通があり、そして小路の室町通、新町通、西洞院通、油小路通と覚え、

横軸の通りとして、北から南に向かい、
大通りの御池通、そして小路の姉小路通、三条通、六角通、蛸薬師通、錦小路通、
次の大通りの四条通、そして小路の綾小路通、佛光寺通、高辻通、松原通、
と東京郊外の田舎者の私は歩き、覚えたのである。


こうして、少しばかり蒸し暑く、人出の多い中を歩き廻ったのであるが、
多くの市民の幼児、少年少女、20代から高齢者の市民を見かけ、
祇園祭は市民から限りなく愛され、千年の長い歳月に引き継がれている伝統美を実感したりした。

そして、これだけ多くの山鉾は町衆にささえられている、
とパンフレット、解説書などに明記されているが、
私として町衆よりも、街衆の方が相応(ふさわ)しい、と感じたりした。


何より微笑ましく感じたのは、幼(おさな)き少年少女たちのたどたどしい浴衣姿かしら、
と好感していた。



       第6章 初めて拝観する『山鉾巡行』・・。

私たち夫婦は、15日の宵々山めぐり、16日の宵山めぐりに於いて、
鉾町、その周辺を歩いたし、数多くの鉾を眺め、町屋のそれぞれの家の貴重な品
を拝見させて頂いた。
そして山鉾のひとつ『月鉾(つきほこ)』のご厚意により、
囃子(はなし)方が座られている二階のような囃子舞台に上がれ、
余りの高さに私は驚いたりした。
その上に厄病災難よけの『ちまき』まで頂ただいたりした。


そして、祇園祭の最高潮となる『山鉾巡行』を拝観する為、
旅行会社から指定された大通りの御池通の桟敷席に座り、
先頭の『長刀鉾(なぎがたほこ)』を待ちわびたのは、昼前の11時であった。

朝方のひととき小雨が降り、不安定な天候で少し心配したが、
歩道の樹木から蝉(セミ)の鳴き声が聴こえてきたので、私は安堵したのである。


山鉾が繰り出して、巡行するのであるが、
この御池通の桟敷席に来る途中で、鉾を観た時、
私は木の大きな車輪もさることなから、囃子舞台の上の屋根の上に屋根方の人が座り、
そして屋根から空中にそびえるように建つ鉾の高さに驚いたのである。

鉾の中央部には、榊(サカキ)の枝葉、そして先端に近い大幡、もしくは吹散が風で揺れ、
最先端の鉾頭も大きく揺れている。
そして、木の大きな車輪はギィート音を発てて、少しばかり囃子舞台も揺れる・・。

古来より釘(クギ)を使わず、縄絡みと称される荒縄で木枠などを殆ど縛り、
固定させるのは弾力性ある技法とされている、
と教えられた時は、私はただ敬服させられたりした。


御池通の桟敷席に座り、団扇〈うちわ〉を扇〈あお〉ぎながら待っていた時、
かすかにコンチーチキンの音色が微風の中から聴こえ、
先人には羽織を召された長老格の人たち、
わずか後方に鉾を曳かれる若手の男性の40名前後の曳手が観えた・・。
そして木の大きな車輪の傍に車方の男性、曳子と車輪の操作の上に立つ音頭取のふたり、
囃子舞台に着席している囃子方の30名以上の方たち、
最前列には生稚児が時折乗り出すようにふるまいをされたりし、
そして屋根に座っている屋根方の4名・・。

こうした配列で鉾が通り過ぎ後、ぼんやりと私が加入させて頂だけた場合、
どの役目ができるかしら、と思ったりした。

屋根方は高いので怖いし、車方は木の大きな車輪の傍では更に危険で怖いし、
音頭取は二枚目を要求された上、指揮官の責務があり、当然のことながら論外となる。
そして囃子も不器用な私は無理だし、残りは先人の羽織を召した長老格、
或いは若手に混じって曳手しかない、と心の中で苦笑したのである。


このように幾重の『函谷鉾(かんこほこ)』、『四条傘鉾(しじょうかさほこ)』等を拝観したが、
ときおり最先端の鉾頭も大きく揺れ、鉾の先端に近い大幡、もしくは吹散が風でたなびき、
少しばかり囃子舞台も揺れ、木の大きな車輪はギィート音を発てていた・・。
もとより伝統の技法が受け継がれて安心であるが、迫力を感じたりした。


私は初めて京の『祇園祭』を拝見したが、
市民の少年少女より高齢者までのひとりひとりの熱意で千百年受け継がれ、
たえず創意工夫を重ねた結果が、今日観せて下さった情景である、
と深く思いながら、こうした歴然と受け継がれてきたことは稀(まれ)なことである。

こうしたことが伝統美のまぎれない証(あかし)となり、
私のような東京郊外に住む人さえ、魅了させてくれる確かな源泉、と感じたりした・・。


        最終章 旅の終りの京の和菓子は・・。

私たち夫婦は、大通りの御池通の桟敷席に座り『山鉾巡行』を拝観した後、
私たちは団体観光ツアーの一員であったので、指定場所に集合し、
観光バスで京都駅に向った。

私たちが乗車するのは、京都駅15時29分発の東京駅行き『ひかり』であり、
駅構内に着いたのは、一時間半前であったので、一時的に散会することとなった。

そして私たちのグループは、お互いに旅行バックに幾つかの手提袋を提げていたが、
家内はこの旅行で淡き交流を重ねた女性グループの三人の方たちと、
お土産品のあれこれで、談笑をしていた・・。


私は呑兵衛のひとりであり、こよなく酒を愛するので、
甘い物は苦手で、和菓子、洋菓子は日頃から余り食べない。
しかし旅行先などで煎茶、抹茶を出して、和菓子を食べさせてくれる処では、
家内と共に頂く。

私は和菓子については、無知であるが、
季節感がかもし出されていれば、最良と思ったりしている。
旅先で和菓子の買い求める場合、
その地で長い歴史を育(はぐく)んだ老舗の和菓子店をなるべく購入する。

その地に生まれ、人々から買い求められ、
味そのもの長年培(つちか)われた和菓子となっているので、
まぎれない和菓子と私は確信している。

そして和菓子は、その地の風土、文化を代表するひとつと思っている。


このように日頃から確信しているが、
今回の京和菓子は家内が旅行前に選定していたので、
『山鉾巡行』を拝観する前に、家内のお供のような身となって、
大通りから外れた老舗に行った。

高倉通蛸薬師上ル和久屋町にある『亀廣永』という看板があり、
『 したたり 』という和菓子を家内は買い求めていた。


そして私たちは16日の宵山めぐりの際、街並みを散策していた時、
家内に誘われ、錦小路に寄った。
私は初めて通る小店が並ぶ小道であったが、日頃から漬物は大好きなひとりであったので、
私はある漬物店に寄った。

私たちは三品ばかり賞味させて頂き、私は心身波長に合う、と家内に云った後、
家内は七品ばかり買い求めていた。
商品の袋には、《 うちだの京つけもの 》と私には読めた。

このような買物をしたりしたが、我が家は2人だけの家庭であり、
これで充分と思ったりしている。
私は、この時節の和菓子の老舗の『亀廣永』の『 したたり 』、
そして漬物の『うちだの京つけもの』の七品となった。

その上、山鉾のひとつ『月鉾(つきほこ)』のご厚意により、
厄病災難よけの『ちまき』を2本を頂いたのである。


帰宅後、私は近くに住む実家の長兄宅にお土産として、
和菓子の『 したたり 』を持参し、そして厄病災難よけの『ちまき』一本を添えたりしていた。

                           《終り》

・・】 

このように私は2年前に投稿していたのであるが、
改めて読み返すと、ささやかな旅でも、ひとつ一つの情景が蘇(よみがえ)たりする。

そして私がデジカメで撮った百枚を超えた断片な情景シーンと違い、
その時の私の心情が発露されているので、私は写真などの掲載は不要と思い、
日本の古来からの散文の世界で、言葉だけで表現する力を信じているひとりである。

つたない私の投稿文が読んで下さった方に伝わらなかった場合は、
もとより私の文章の表現不足であり、文章修業に精進しなさい、と私は素直に受け止める。
                          

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京の『祇園祭』、東京の田舎者の私、二年前に訪れた時のささやかな想いでは・・。 【中】

2011-07-16 18:33:12 | 旅のあれこれ
【・・
        第3章 齢を重ねた私の気楽なシティ・ホテルは・・。

私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
家内の要望する京都の夏祭りのひとつの『祇園祭』を検討した時、
市内の洛中にあるシティホテルに宿泊し、それぞれの山鉾建てのある地域で、
未知の祇園祭の前の『宵々山めぐり』、『宵山めぐり』の情景を観たく、
ネット検索しり、旅行会社のパンフレットで見たりした。

一流と称される『京都ホテルオークラ』、『京都ロイヤルホテル&スパ』、『京都国際ホテル』等があるが、
もとより年金生活の東京郊外の田舎者の私としては遥かに高級過ぎて、
高価で予算を超え、その上に恥ずかしながら心身に於いて落ち着けない状況であり、最初に対象外とした。

そして、ある旅行会社の団体観光ツアーで、
『三井ガーデンホテル京都三条』か『三井ガーデンホテル京都四条』で連泊し、
『宵々山めぐり』、『宵山めぐり』、そして山鉾巡行の時は桟敷席の折りたたみ椅子に座り、
ゆったりと観られる企画があり、私達夫婦は好感したのであった。

私達夫婦は洋バスが苦手であり、このホテルは大浴場があり、
私は小躍りしたりした。

シティホテル、或いはビジネスホテル風であるが、
街中で大浴場に入浴でき、程ほどの価格で宿泊できれば、
何よりも気楽で休まるので、私たち夫婦にぴったりと、私は家内に云ったりした・・。

結果として、『三井ガーデンホテル京都三条』に連泊したのである。


『宵々山めぐり』、『宵山めぐり』の夕方から夜の10時過ぎ、
蒸し暑く人波の圧倒的に多い中、観光客として私たち夫婦は、街並みを観て廻り、
汗は流れ、身も心も疲れたり、そして突然の小雨など変わりやすいこの時節の天気に
対処できたりした。

そして疲れを感じたり、小雨の場合は、ひとときホテルに戻り、
宿泊している部屋で洗面し、着替え、少し休息した上で、再出陣するように、
街並みを歩いたのである。


尚、私達の新婚旅行の時は、倉敷、そして六甲山に宿泊した後、京都のホテルに泊まった。
鴨川の川沿いにある『ホテルフジタ京都』であり、
今回、宇治から市内に戻る時、観光バスの車窓から観え、
『わたくし達の新婚旅行の時・・泊まったホテルよ・・』
と家内は私に話しかけてきた。
30数年前の私達の人生の駆け出しの時でもあった。



           第4章 京の奥座敷の貴船の里は・・。

宵山めぐりの16日は、祇園祭のゆかりの社と知られている八坂神社を参拝し、
付近にある知恩院を拝観後、
私たち一同の観光バスは、京の奥座敷と名高い貴船の里に向かった。

わずか40分ぐらいで、山里の情景が観られ、
春の時節には新緑の山並みの情景の中で、山桜が観賞でき、
夏になると清流の水かさは増え、蛍も舞う時節となり、
秋には朱色、紅色、そして黄色の錦繍に染まる中、家並みは菊が咲き、
冬の時節になると、雪が舞い、あたり一面に雪の真っ白な世界に変貌し、静寂な情景となる、
と私は初めて訪れる貴船の里に思いを馳せたりしていた。


このような情景の中で、貴船神社の付近に数多くの食事処、料理旅館が立ち並び、
今の時節は、まじかに流れる川の上に丸太を組んだ上に畳上の席を設けて、
里山の樹木の中に於いて、清流と川風を受けた納涼となる風味に満ちた中で、
昼食として川床料理を頂ける贅沢なひとときを過ごした。

私はビールを呑みながら、料理を頂き、数品は確かに美味であったが、
水の流れをまじかに眺め、ときおり微風が受けたりると、心地よさが増した・・。

そしてこの間、私たち夫婦はもとより団体観光ツアーの一員であったので、
東京駅の集合、新幹線、バスの車中、ホテル内ではお互いに挨拶する程度であり、
こうして昼食の頂いている時になると、何かと隣席の方たち、前の席に座られている方たちと、
談笑を重ね、淡き交流を深めたれした。


この後、家内と貴船神社に参拝し、付近に水占斉庭があり、
御神水と称される大きな石の長方形の箱に水が満たされ、
若き女性たちがノートのような一枚の紙を浮かべていた・・。
私は近づくと、水占○みくじ、と判読でき、おみくじの一種と理解できた。

この状景を見ていた家内は社務所より頂き、まもなく60歳を迎える身なのに、
真剣な面持ちで御神水に浮かべていた。
付近には、若き女性たちの中、6人の50歳前後の女性のグループの方も、少しばかりそわそわし、
それぞれ水占○みくじを手にしていた・・。

そして、おもむろに携帯電話を取り出して、ご自分のおみくじを撮ったり、
記念写真を互いに撮ったりしてポーズをしながら歓声を上げたりして、
私は思わず微苦笑させられたのである。

この後、私たち一同は、バスの車中、山鉾巡行を観る桟敷席でも、
程々にお互いに談笑を重ねたりした。
・・】

                            《つづく》

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京の『祇園祭』、東京の田舎者の私、二年前に訪れた時のささやかな想いでは・・。 【上】

2011-07-16 14:03:59 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
私たち夫婦の共通趣味は国内旅行なので、
何かと旅先のこぼれ話、これからの旅行のことなどを話し合うことが多い・・。

昨夜、夕食を頂いていた時、テレビのニュースで、
京都の市内は祇園祭の宵々山を迎えて、夕暮れと共に駒形ちょうちんに明かりが灯され、
市民はもとより、多くの観光客たちが、そぞろ歩きでにぎあっている情景など、
報じていた・・。

そして私たちは、一昨年の2009〈平成20〉年に京の『祇園祭』を観る為に、
京都の市内などを訪れた時、
お互いに思い浮かべて、話したりした・・。

そして、今年も祇園囃子を奏でる中、
16日に『宵山』、そして17日には
祭りのピークとなる数多くの山鉾が市内の中心部を巡行する『山鉾巡行』を迎える、
と私は思ったりした。

この後、私は懐かしむように、このサイトに綴っていた投稿文を読んだりした・・。


序文として、【東京郊外の田舎者、京の『祇園祭』を拝観する前に・・。】
と題して、このサイトに一昨年の2009(平成11)年7月14日に投稿している。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
私達夫婦は家内の要望の京都の夏祭りのひとつの『祇園祭(ぎおんまつり)』を拝観する為に、
明日の7月15日より2泊3日で、ある旅行会社の団体観光ツアーに便乗して、
京都の市内を訪れる。

家内は5月の下旬以来、旅行会社のパンフレット、ネットなどで、
『祇園祭』に関して、詳細に調べたりし、ときおり私に話しかけてきた・・。


私は京都はわずか三回ほど訪れた身であり、ほんのうわべしか知らない。
中学時代の修学旅行は、京都・奈良を2泊3日で有数な名所を観て廻ったりした。
この頃は、団体専用列車の『日の出号』で品川駅より京都駅を往復したが、
京の名所の数々は、おぼろげな記憶となっている。

その後は、大学一年の時、ワンターフォーゲルの夏季強化合宿の10泊11日のテント生活を終えた後、
私は独りで金沢から山陰地方を周遊をした時に、
この間に京都で一日の観光周遊バスめぐりに参加し、市内を観て廻ったりしている。

そして、二年過ぎたの夏、次兄の大学時代の友人が京都の教育出版の会社に勤めて、
次兄と私は招待を受けて、私は次兄と自動車で京都の道のりを往復した。
この頃の東京から名古屋までは、東名高速自動車道が開通前であったので、
国道一号をひたすら走破した記憶が残っている。

教育出版の会社の寮には、貴賓室があり、次兄と私はこの客間に2日間宿泊させて頂ただき、
次兄の友人は日中は勤務があったので、次兄は自動車で各地の名所を観て廻ったりしたが、
私はひとりで市内付近の山里をハイキングのように、歩き廻ったりした。

そして、夜のひととき鴨川の川べりにある川床料理に歓待させて頂き、
微風の中で、三人で談笑しながらビールを呑んだ情景が、
40数年過ぎた今でも、深く心の片隅の残っている。

この頃の私は文学青年の真似事をしたせいか、京都・奈良に関しては、
何かと小説、随筆、歴史書などを読んだりしていたので、
学べば学ぶほど、伝統美の前に、うなだれてしまい、
齢を重ねた今でも多々あり、京の千年の歳月が重く心を占領する時もある。


私は1944〈昭和19〉年の秋,農家の三男坊と生を受け、
田畑、雑木林の多い中で小学時代まで過ごしたので、
サラリーマンを定年退職後は、もとより方(かた)書きもなくなり、
やむなく《調布の里っ子》などと私案の名刺を作成し、持ち歩いたのである。

こうした拙(つたな)い身の私であるので、
国内旅行が私達夫婦の共通の趣味であるが、特に古都の奈良・京都は避けていた。

このような思いであったが、今年の1月下旬に於いて、
奈良の『若草山 山焼き』観る短かな旅行をし、大和路の『西大寺』に寄り、
そして郊外の『長谷寺』と『室生寺』を鑑賞した後、帰路する短かな旅行をした。


さて今回の初めて『祇園祭』の観る短かな旅行に於いては、
家内は15日は提灯飾りが幻想的な山鉾が観られる『宵々山めぐり』、
16日は『宵山めぐり』、そして17日の午前中は『山鉾巡行』を観ることに期待をしている。

私は東京郊外の田舎者であるので、日中のひとときに観光めぐりの際、
京都郊外の宇治の外れにある三室戸寺に於いて、蓮の花が観られ、
京都の奥座敷と知られる貴船の地で、清涼の中で川床料理の昼食を頂けることである。
そして、市内の凛とした中年以上の女性のしぐさを見られたならば、
せめての慰めになるかしら、とぼんやりと思い微笑んでいる。
・・】


そして『祇園祭』を観て旅先から戻った後、
【 京の『祇園祭』、街衆の熱意と限りなく英知の結晶・・。【2009.7.15.~7.17.】 】
と題して、7章に及び投稿しているが、再編集をする。

【・・
           第1章 旅の始まりは、『JR東海』・・。

私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
私達夫婦は家内の要望の京都の夏祭りのひとつの『祇園祭(ぎおんまつり)』を初めて拝観する為に、
ある旅行会社の団体観光ツアーの2泊3日の小旅行を利用し、参加した。

祇園祭の宵々山の15日に、東京駅より新幹線で京都駅に昼過ぎに着いた後、
指定された観光バスで、京都郊外の宇治の外れにある三室戸寺を参拝し、蓮の花を眺め、
この後は宇治川のほとりにある宇治平等院を観賞し、市内に戻り、
街並みの中にあるシティー・ホテルに到着後、夕方から『宵々山めぐり』を自在に観て廻わる。

翌日の祇園祭の前夜祭の16日の『宵山』の日中は、
祇園祭を祭礼のひとつとして管理されている八坂神社の拝観した後、
付近にある浄土宗の総本山と知られている知恩院を参拝する。

この後は、市内の郊外の貴船川のほとりで、昼食として川床料理を頂いた後、
市内に戻り、鉾町の人から、由来などの説明を受けながら、
山鉾のひとつの月鉾に昇り見学ができ、
午後3時過ぎより、各自が自在に特別公開された町家などが街中の情景を観る。

そして祇園祭の山鉾巡行の17日の当日は、
指定された桟敷席で昼食の弁当も頂きながら、ゆっくりと山鉾巡行を拝観した後、
帰京する旅である。


このような旅の日程であり、暑さに苦手な私は期待と不安を心に秘めて、
東京駅を旅立った・・。

新幹線の『ひかり号』の車内で、乗車前に買い求めたペットボトルの『福寿園 伊右衛門 濃いめ』を飲みながら、
そして野菜弁当を食べた時、
前回に投稿した【東京郊外の田舎者、京の『祇園祭』を拝観する前に・・。】と題した中で、
京都を訪れた綴りで、私達夫婦の新婚旅行で京都の鴨川のほとりのホテルに宿泊していたことが思い出し、
この時の投稿文に書き忘れていたことが気付き、少しボケた、と苦笑したのである。

この後、家内がホットコーヒーを飲みたいと私に云ったので、
車内に巡回する若き女性の販売員に私は声をかけた・・。
制服のワンピース、エプロン、首周りのスカーフ、そして微笑み・・、
私は航空の日航、全日空の方たちより、遥かなるセンス、しぐさに瞬時に魅了されたのである。

私は容姿はもとより素敵な感性をお方と感じながら、つややかな黒髪もさることながら、
秘かに見惚(みと)れてしまった・・。
帰路も同じような感覚があったので、JR東海の若き車内販売の方たちは、
まぎれなく日本有数のセンス、しぐさがあると確信を深めたのである。


私は思いがけない心のプレゼントに心酔した後、
隣の車両で喫煙していた時、一枚のポスターを眺めたりした。

《 演歌よりも、
  歌謡曲よりも、
  泣かせる
  ニッポンの歌です 》

と明記されていたので、何のポスターかしらと思い、右側を見たら、

《 万葉集が
  iPOdで
  聴ける時代になったとは。

  企画・JR東海エージンシー 》

と明示され、私は思わず微苦笑したのである。
そして、同じような宣伝文だったならば、私の場合は、

演歌、そして歌謡曲よりも
  限りなく愛された、古来からの歌です。

と綴ると余計なことを考えたりしていた。

このようなことを思案したりした後、まもなく京都駅到着のアナンウンスーが聴こえてきた。


         第2章 京都郊外の宇治の夏のひととき

京都駅に昼過ぎに着いた私たちの一行は、
待機してくれた観光バスで、一時過ぎに京都郊外の宇治の外れにある三室戸寺に向かった。

昼下がりの薄日の射す中、三室戸寺の朱色の柱の山門が観え、
ゆるい坂道を本堂に向かって歩き始めた・・。
右手に広がる庭園は、5月に躑躅(ツツジ)、6月には紫陽花(アジサイ)、
そして今の時節は本堂の前に蓮(ハス)の花が咲く寺とも知られている。

私は本堂の前の境内に多くの蓮が鉢に植えられて、たわわに咲いたりしている情景を眺めていた時、
蓮の花越しに前方にある鐘楼、その後方に観える三重塔を観た時、
このひとつの美景が観られれば充分と思った。
私は仏像に興味がないので、わずかばかり本堂を拝観し、
境内の石段を山門に向かい、下り立った。

左手の庭園は、アジサイの花は刈り取られ、花の時期が終わり、
まもく梅雨明けを教えてくれた。
もとより京都市内は、祇園祭が終えたならば、梅雨明けとなり、本格的な暑さの夏になる、
と何かの本で読んだりしていた。

私は郊外の宇治の外れで、ぼんやりとし、蒸し暑い中を下った。


この後は私達の一行は、バスで移動し、宇治・平等院の駐車場で下り立ったが、
私は阿字池の手前から著名な建築の阿弥陀堂を眺めたり、池に映る阿弥陀堂を見つめた後、
時の実質政権者の藤原道長の栄華を少しばかり思い馳せた。
私はこれ以上の興味はなく、平等院を辞した。

そして、家内と駐車場の近くの茶屋を探したが、
ゆっくりと座れるテーブル席がなく、止む得ず小奇麗なカフェ・テラスに入店した。
私はクーラーの冷気の中で、ビールを呑みながら、
とろろ蕎麦を頂いたが、想像以上に美味しく、心は高揚し、ビールの追加をしたりした。
家内も蕎麦を食べたりしたが、入店前の期待以上に美味しかった、
と私は聴き、お互いに微笑んだりした。

この後、宇治橋で川の水流の速さを眺めながら、
たとえ豊富な水量さえ衰えた千年過ぎた今でも、水流の速さは変わらない、
とぼんやりと思ったりした。

そして、まもなく私たちの一行は宇治を離れ、
市内の中心街にある宿泊先のシティ・ホテルに向かった。
・・】
                            
                                 《つづく》

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朝涼(あさすず)のひととき、思わずひとつの名句に心を寄せ・・。

2011-07-16 08:26:21 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身である。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

定年後は齢ばかり重ねてきたせいか、この時節は5時前に目覚めることが多い。

私の住む街も、日中は30数度の真夏日が続いているが、
早朝のひととき、幾分涼しげな空気につつまれ、
朝涼(あさすず)のひとときを迎えている・・。

私は洗面後、雨戸を開けて、玄関庭の軒下に下り立った。

そして、樹木を眺めたりしながら、煙草を喫ったりし、
紫紅色の高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)の花を眺めたり、
塀際に群生している蒼色の紫露草(ムラサキ・ツユクサ)花を誉(ほ)めたりしていた。

このような時、蝉(せみ)の鳴き声が聴こえ、
蜩(ひぐらし)かしら、
と私は鳴き声のある方に心を寄せたのである。

私は無念ながら俳句を詠(よ)む素養はないが、
有数な俳人の方が詠まれた句を学びながら読むのは、
好きなひとりである。

  ひぐらしや 明るき方へ 鳴(なき)うつり

                      詠み人 暁台

江戸時代の中期の俳人の加藤暁台〈かとう・きょうたい〉が、
遺〈のこ〉されたひとつの句であるが、想いだされたのである・・。

そして、江戸時代でも、このような思いの詠まれたのに驚きながらも、
いつの時代でもこの時節は変わらない、と私は微苦笑させられたりしている。


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竹田恒泰・著の『旧皇族が語る天皇の日本史』、豊臣秀吉による北京遍都計画を学び・・。

2011-07-15 18:30:25 | 読書、小説・随筆
私は昼下がりのひととき、竹田恒泰・著の『旧皇族が語る天皇の日本史』(PHP新書)を再読した・・。

http://www.php.co.jp/bookstore/detail.php?isbn=978-4-569-69711-6
☆【PHPホームページ】<== 竹田恒泰・著の『旧皇族が語る天皇の日本史』(PHP新書)☆

この本を最初に読んだのは、偶然に本屋で見かけ、
タイトルに魅了されて購入したのは、確か3年前の2008年の7月頃であった。
そして何かと日本史に興味のある私は、綴られた内容に多々衝撃を受けたひとりである。


本書の表紙のすぐ裏に、
《・・
現存する世界最古の国家、日本。
その歴史はすなわち天皇の歴史でもある。
本書では、神話の時代から平成の皇室まで
脈々と受け継がれる壮大な流れを、
朝廷の立場から概観。
・・》
と明記されて、
著作者は明治天皇の玄孫のお方であり、朝廷の立場から、日本史を教示を受けようとし、
購入に思い立ったのである。


私は読書をして、印象に残った作品に関して、高校時代の時から、
読書のメモ書きとして、A4のノートに記載する習性があり、
3年前に記入したノートの中で、


豊臣秀吉の時代で、『秀吉による北京遍都計画』を私は初めて知り驚いたのである・・。

《・・
無謀な朝鮮出兵を強行し、漢城(現在のソウル)を没落させると、
とんでもない軍事計画を立案した。
北京に遍都し、後陽成天皇を譲位させたうえで、
上皇が北京に行幸するというのだ。

秀吉はやる気だった。
この驚天動地の計画が打ちあげられたことは、
国家の危機であると同時に、天皇家にとっても危機であった。

だが、この秀吉の計画を阻止したのは、すでに上皇となっていた正親町院である。
この外征計画が無謀であることは誰の目にも明らかだったが、
飛ぶ鳥をも落とす勢いの秀吉を抑えることができるのは、
正親町院以外にはなかった。
・・》

注)本書の181~182ページ
  著作者の原文より、あえて改行を多くした。

この後は、大変に歴史上考えさせられる内容であるが、
著作者の力量溢れる綴りである。

こうした私にとっては、未知のことであった。

そして、あの当時の中国は確か明の万暦帝の時代であり、
宗主国として李氏朝鮮が日本から侵入されたので支援をしたり、
周辺の満州の女真に自国の遠征軍が敗退する、といった多事多難の時代だった。

しかし明が衰退期であったが、やはり大国である。

なぜ、秀吉は朝鮮半島を侵略している時、
明まで発想させられたのか、
こうした想像をしたりすると、限りなく思索させられる。


このように内容を記載していたが、
改めて再読すると、本書は、もとより天皇から観た日本概要史であるが、
こうした切り口から日本の歴史を明示されると、
私は歴史好きのひとりであるが、あの時代はあのようなことが思考されていたのか、
或いは秘かに実施されていたのか、と改めて数多く教示されている。


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『タンス預金』、我家は年金生活であるが、恥ずかしながら秘かにあり・・。

2011-07-15 09:15:48 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身である。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
古惚けた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は民間会社の中小業のある会社を35年ばかり勤め、
定年退職時を迎えた後、年金生活をして過ごしている。
程ほどのお金を幾つかの銀行、そして郵便局などに貯金をして、
2ヵ月毎に年金を頂き、生活費の基盤としている。
そして、私たち夫婦の共通趣味の国内旅行、思いがけない出費の時は、
貯金から取り崩して過ごしているので、数多くの年金生活をしている家庭と同一と感じたりしている。

私は平素の買物に関しては、定年後に自主的に担当しているので、5万円前後は財布に入れて、
家内は5万円ぐらい保有し、現金が手薄になった時は、やむなく銀行から取り崩している。

このような状況なので、我家では『タンス預金』は有りません、
と断言しょうと思ったら、思いあたるところが一箇所あった・・。


15年前の頃、家内が郵便局で頂いた
郵便ポストの形をした赤いプラステックの貯金箱が2つばかりある。

私は殆ど毎日スーパー、専門店などで買物をした後、
私の財布から、1円玉、5円玉、そして10円玉が多かった場合、
この貯金箱に入れたりしている。

そして、毎年12月の初旬に、この郵便ポストをひっくり返して、
私は銀行に持ち込んだりしている。

1万円弱の年が多く、私は思いがけない現金を頂いたような気持ちになり、
嬉しげにプリンターの用紙、インクの購入費にしたりしている。


尚、我家は寝食を共にした結婚して以来、お互いに隠し立ての貯金の方針がなく、
毎月、家計簿を2人で締めたりしているので、明朗会計となっている。


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デビット・リーン監督の名作のひとつの『戦場にかける橋』、鑑賞しながら・・。

2011-07-14 23:01:03 | 映画・テレビ
私は昼下がりのひととき、居間にある映画のビデオ、DVD棚から、
1本のビデオ・テープを取り出した。

デビット・リーン監督の『戦場にかける橋』(1956年)である・・。

英国軍の仕官を演じたアレック・ギネスの名演を観たく、鑑賞したのである。

もとよりこの作品は、第二次世界大戦中、日本軍によるビルマ~タイの戦場に於いて、
輸送物質等による戦線拡大を図る為、
この途上にあるクワイ川の鉄橋建設をめぐる作品である。

そして日本軍の将校(早川雪州)の指揮下の中、
英国軍の仕官(アレック・ギネス)等が捕虜収容所に置かれた状況、
そして米国人の水兵(ウィリアム・ホールデン)の3者の気質が明確に描かれた名作である。


この映画を私が最初に観たのは、
渋谷の映画館で座席に座れず満員の中、立ちつくし、
確か小学6年か中学1年の頃であった。

その後、20代の前半に名画を上映している映画館で、
そして50代でWOWOWで放映されていたのをビデオ・テープに収録しながら、
観たりしていたのである。

そして、恥ずかしながら2年前に初めて気付いたのは、
フランスの作家でピエール・ブールが第二次世界大戦の実話に基づいて、
創作されたベストセラー作品と知り、
この時は思わず苦笑させられたのである。

私は名画の場合は、小説、随筆と同様に、たとえば10年毎に観たりすると、
自身の感慨が深められるから好きなのである。


監督のデビット・リーンに関しては、秘かに敬愛する監督のひとりで、
『戦場にかける橋』(1956年)を初めて鑑賞した後、
高校生の時に『旅情』(1955年)、大学生の時『逢びき』(1945年)、
そして有楽座のロードショウの初日に『アラビアのロレンス』(1962年)を観たりしている。

その後は、『ドクトル・ジバコ』(1965年)、『ライアンの娘』(1970年)、『インドへの道』(1984年)を、
ビデオ・テープで自宅のテレビで観たが、
こうした大作は映画館のスクリーンで観るべきだった、
と後悔しているのが本音である。

余談であるが、私は家庭を持った時は、
『逢びき』(1945年)の女主人公の夫のような男性になってみたい、
と独身の20代の初めの頃に思ったりしていた。


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夏の風物詩のひとつ『花火』大会、齢ばかり重ねた私でも、ささやかな想いを秘めて・・。

2011-07-14 10:54:40 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
昨日の午前中のひととき、パソコンを開くと、
トップページに設定している【YAHOO! JAPAN】に於いて、中央の右側に、

《 花火大会&夏祭り 特集 2011 》

と大きく見出しされた【YAHOO! JAPAN】の製作された記事を、
まもなく花火大会が日本の各地で彩〈いろど〉るのか、と思いながら、30分ぐらい見たりした・・。


今朝、朝涼〈あさすず〉のひひとき、玄関の軒下で煙草を喫っていた時、
この花火大会の情景が脳裏の片隅みから、
私のささやかな花火大会で鑑賞してきたことの情景が甦〈よみがえ〉ってきた・・。


私は小学生の高学年の1955(昭和30)年の前後の頃は、
京王多摩川の花火大会に2度ばかり行き、川べりの近くで、
打ち上げ花火を観たりし、『綺麗だぁ・・凄〈すご〉いなぁ・・』とか歓声をあげたり、
仕掛け花火の移ろう華麗な情景に見惚(みと)れたりしていた。
しかし、帰路の電車は満員となり、多くの大人の中で青色吐息のような状況で、
私は子供心でも懲(こ)りたりした。

その後、和泉多摩川は実家から直線の町道をたどると30分前後で歩いて行けたので、
中学生の時に2度ばかり観たりしていた。

二十歳過ぎになると、高校時代の悪友が花火を観たい、と云うので、
この頃、私の母が多摩川のまじかな登戸に住んでいたので、
私は友人を誘ったが、彼は照れ屋であり、私は母からビールの大瓶を2本頂き、
私達は川原に近い土手に座りながら、ビールを呑みながら観賞したのである。

この後は、私が40代の半ば、夏季休暇の時、
家内と山陰から四国の周遊団体観光ツアーに参加した折、
玉造温泉の宿泊し、夕食後のんびりと部屋でくつろいでいた時、
少しばかり遠方の宍道湖の湖上から打ち上げられた花火を偶然に観たのである。
私は和室に横たわり、一時間ばかり観ながら、
『XXちゃん・・こうして観るのが一番・・楽だねぇ・・』
と私は家内に云ったりしていた。


私が55歳を迎える時、民間会社の本社に勤務していたのであるが、
リストラ旋風の中、無念ながら2月に出向となり、
本社に勤めた30年ばかりの後のせいか、失墜感が心の片隅にあり、
まさに都落ちの心情の時であった・・。

夏のひととき、家内と久しぶりに『新百合ヶ丘』駅のまじかな映画館に行った帰路、
小田急線に乗車し、最寄の『成城学園前』駅に向っていた時、
『向ヶ丘遊園前』駅ごろから、雷鳴のような音響が響き、前方の夜空が、オレンジ色に染められ、
偶然に和泉多摩川で花火大会の当日、と私は気付き、苦笑したのである。

そして私たち夫婦は『和泉多摩』駅で途中下車して、
和泉多摩川の川原の近くで、打ち上げられる花火を見上げたりし、
火薬の匂い、煙がまじかに感じられ、花火の包まれた紙の破片が空中を彷徨(さまよ)いながら、
私たちの付近に舞い降りてきた情景を幾たびか体験した。

この帰路、私は気落ちしていた出向の心情が、何かしら吹っ切れ、
これ以降、私は前向きに業務をこなし、5年ばかり奮闘して定年退職を迎えた。


このような私の花火の思いでがあるが、
定年後の年金生活を過ごすと、暑い夏はもとより苦手な上、人出の多いところは齢を重ねるたびに、
なるべく避けるようになっている。

こうした思いなので、夏のひととき毎年、
都心の『隅田川花火大会』がテレビ実況されるので、
家の居間のクーラーの冷気の中で、
家内とビールを呑みながら早めの夕食を頂き、テレビ中継を視聴したりしている。

尚、昨今の私は、夏の花火より、定年後の一年を過ぎた12月の初旬、
秩父の『夜祭』を観に行った時、祭りの終宴として冬の花火に圧倒的に魅了された。
『夜祭』の余情がある中、寒さを増した夜空に幾たびか彩〈いろと〉る情景に、
つたない私でも過ぎ去った人生の愛惜を深めたり、
残された歳月に思いを考えたりさせられたのである・・。


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