遊爺雑記帳

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北方領土交渉 戦後70年以上経過している今日、急いで行うべし

2019-01-30 01:38:52 | ロシア全般
 日ソ、日ロの交渉は何度も行われてきたが、結局領土問題では一歩も進まなかった。今、初めて領土交渉が始まったと言っても過言ではない。
 戦後70年以上経過しているのだ。急いで行うべしと言いたいとは、共産党員らしくない共産党員と言われ現在は離党している、元参議院議員の筆坂秀世氏。
 
北方領土問題、マスコミは歴史的事実を正しく語れ 何も進展しなかった領土交渉、今ようやくスタートラインに(1/4) | JBpress(日本ビジネスプレス) 2019.1.29(火) 筆坂 秀世

 1月27日の「サンデーモーニング」(TBS)を見ていて驚いた。評論家の寺島実郎氏が北方領土問題の解説を行ったのだが、その際、使われた地図の表記があまりにもデタラメだったからだ。

 寺島氏は、まず歴史を踏まえて1855年、江戸幕府がロシアとの間で日露通交条約を結び、得撫島(うるっぷとう)から以北がロシア領となり、国後島と択捉島が日本領となったことを説明した。これはその通りである。
問題は寺島氏が示した地図には、得撫島以北が千島列島とされていたことだ。

 続いて寺島氏は、1875年に得撫島以北の島(寺島氏によれば、これが千島列島)は日本領に、樺太はロシア領とする千島・樺太交換条約が結ばれたことを説明した。
寺島氏の説明で一貫していたことは、国後と択捉が千島列島には含まれないとすることであった。

■歴史の事実を正直に語らない日本のメディア
 実は、
外務省も「そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません」と説明している(「日本の領土をめぐる情勢 北方領土」)。国後も択捉も千島列島ではないというのだ。だが、国後と択捉が千島列島を構成する島であり、南千島であることはあまりにも常識的なことである。

 
サンフランシスコ講和条約が調印された際、当時の吉田茂首相は、「千島南部の2島、択捉、国後」などと発言している。西村熊雄・外務省条約局長は国会答弁で、「条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております」と述べている。北千島とは得撫島以北のことであり、南千島とは国後と択捉のことである。

 では
サンフランシスコ講和条約では、どう書かれているか。その2条C項には、「日本国は、千島列島並びにポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とある。国後、択捉は放棄したということである。

 寺島氏だけではないが、
日本のテレビも、新聞もこの歴史の明白な事実を正直に語らない。そのため、国民の間でも正確な情報が伝わっていないのである。
 では、歯舞群島、色丹島はどうか。西村局長は、「この千島列島のなかには、歯舞、色丹はこれは全然含まれない」と明確に述べている。これは吉田首相も同様であった。歯舞、色丹は千島ではなく、北海道の一部なのである。

 一方、択捉、国後などに住んでいた元島民による「千島歯舞諸島居住者連盟」という組織がある。この名称をみても国後と択捉が千島であることは明白なのである。
 
■なぜ「北方領土」と呼ぶのか
 北方領土という言い方は、地理学的な概念ではない。“北方にある日本の領土”ということを強調するための造語である。沖縄返還運動の際に、「南方領土返還」などとは言わなかった。「沖縄を返せ」とか、「沖縄返還」と言ったものだ。
 
なぜそれを「千島を返せ」とか、「歯舞、色丹を返せ」と言わずに北方領土と呼ぶようになったのか。それは前述したように、サンフランシスコ講和条約で千島を明確に放棄してしまったからである。

 ただそうは言っても
国後、択捉、歯舞、色丹には終戦時1万7000人が住んでいたのであり、当然、元島民の声に耳を傾ければ「4島返還」という旗印を立てざるを得なかったことも事実である。

 アメリカからの巻き返しも強烈なものがあった。当時は冷戦状態にあり、米ソは厳しく対決していた。日本とソ連が仲良くすることは、在日米軍基地を拠点にしてソ連や中国と軍事的に対抗するというアメリカの戦略に齟齬を生じることになるからである。そこで
アメリカのダレス国務長官は、1956年8月、ロンドンで重光葵外相と会談し、択捉、国後をソ連のものだと認め、2島返還で決着させるなら、沖縄は絶対に返還しないと宣言したのである。「ダレスの恫喝」と言われている。

 国後、択捉はソ連領と認めないとする「ダレスの恫喝」を受け入れるには、千島放棄を明記したサンフランシスコ講和条約との整合性を図らなければならない。そこで条約起草者であったアメリカ国務省は、新たな理屈を考えたのである。それが「国後、択捉は千島ではない。したがって日本が放棄した島ではない」というものであった。

 吉田首相の答弁や千島歯舞諸島居住者連盟の存在をみても、これが苦しいこじつけであったことは間違いない。

 
ここから現在につながる「4島返還」や「北方領土」という言葉も生み出されていったのである。

 
だが4島返還では、日ソ交渉は一歩も進まない。そこで1956年10月、当時の鳩山一郎首相が病身であるにもかかわらずモスクワを訪問し、「日ソ共同宣言」を作り上げた。この訪ロによって、ソ連が日本の国連加盟を認めたので、日本は国際社会に復帰することができた。この日ソ共同宣言では、当時のソ連と日本の間で平和条約が締結された後、ソ連は「歯舞諸島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する」と明記された。これは2島返還で合意したということである。

 しかし、実際には日本は「4島返還」の立場であったので領土問題が進展することはまったくなかった。他方、ソ連は「領土問題は存在しない。解決済みである」という態度に固執し続けることとなった。ソ連時代にも日ソ首脳会談は行なわれたが、領土問題がまともに話し合われたことはなかった。

 
「北方領土返還!」とは言うが、それは日本国内でのかけ声だけで、まともな交渉などしてこなかったというのが真相である。

■領土問題には相手がいる
 
世論調査などを見ると「4島一括返還」という声が圧倒的に多い。それはそうだろう。実現するのであれば、それが最良である。だがロシアがこんな要求を認めるわけもないこともまた自明である。

 
そもそもなぜ北方領土をソ連に取られたのか。戦争に負けたからである。戦争に勝っていれば、取られることはなかったのだ。竹島や尖閣諸島でもそうだが、実効支配しようと思えば、実力行使という側面がどうしても出てくる。これが領土問題である。

 
産経新聞1月24日付に、「正攻法で領土返還を目指せ」という主張が掲載されていた。「4島は日本固有の領土だ。日ソ中立条約を一方的に破ったソ連が不法占拠した。ロシアは4島を日本に返還しなければならない」「日本はこの法と正義に基づく立場を変えてはならない」とある。それはその通りなのだが、これでは一歩も進まないこともまた事実である。

 1941年8月の大西洋憲章では、「領土的たるとその他たるとを問わず、いかなる拡大も求めない」と明記し、43年11月のカイロ宣言でも「領土拡張の何等の念をも有するものにあらず」としていた。
戦争による「領土不拡大」というのが国際社会の原則であった。これを破ったのが当時のソ連の指導者スターリンである。この強欲なスターリンの要求を認めたのがヤルタ会談でのルーズベルト米大統領とチャーチル英首相だった。自ら領土不拡大の原則を世界に示しながら、スターリンの不当な日本領土の強奪要求は認めてしまった。北方領土問題は、スターリン主義の悪しき遺産なのである。

 はっきり言えるのは、
国後、択捉はサンフランシスコ条約で放棄した千島であったとしても、歯舞、色丹は同条約で放棄した千島ではないということだ。これは現在のロシアの指導者に対しても、大いに主張すべきことである。

 1月22日の日ロ首脳会談をめぐって、めぼしい成果はなかったようだが、それは当然のことであろう。
日ソ、日ロの交渉は何度も行われてきたが、結局領土問題では一歩も進まなかった今、初めて領土交渉が始まったと言っても過言ではない。安倍首相のやり方に対して、「前のめり過ぎる、ロシアペースに巻き込まれるな、長期的視点で」などという論評が新聞に掲載されている。無責任な論評だ。戦後70年以上経過しているのだ。急いで行うべしと言いたい

 1月22日にモスクワで行われた日露首脳会談。今の両国の交渉状況の下では、変な「成果」をあげるよりも、成果らしきものが何もなかったことは、却って良かったと評価されているのは、北海道大学の木村名誉教授と共に、対露政策では信頼する新潟県立大学の袴田教授。
 1月22日の日露首脳会談 「成果」なしは却って良かった - 遊爺雑記帳

 これに対し、安倍首相のやり方をと、「前のめり過ぎる、ロシアペースに巻き込まれるな、長期的視点で」などという論評が新聞に掲載されている。無責任な論評だ。戦後70年以上経過しているのだ。急いで行うべしと言いたいと筆坂氏は説くのです。

 国後と択捉が千島列島を構成する島であり、南千島であることは常識。その千島列島に含まれている。
 サンフランシスコ講和条約では、どう書かれているか。その2条C項には、「日本国は、千島列島並びにポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とある。つまり、国後、択捉は放棄したということだと。
 サンフランシスコ講和条約が調印された際、当時の吉田茂首相は、「千島南部の2島、択捉、国後」などと発言している。西村熊雄・外務省条約局長は国会答弁で、「条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております」と述べている。

 しかし、外務省は、一方では、国後、択捉が千島列島に含まれていないとも説明しています。
 北方領土問題の経緯(領土問題の発生まで) | 外務省
 北方領土問題に関するQ&A | 外務省

 ただし、ソ連(ロシア)はサンフランシスコ講和の条約には参加していませんから、その内容は、日露間では有効とは言えません。

 なぜ「千島を返せ」とか、「歯舞、色丹を返せ」と言わずに北方領土と呼ぶようになったのか。それは前述したように、サンフランシスコ講和条約で千島を明確に放棄してしまったからだと筆坂氏。
 また、択捉、国後をソ連のものだと認め、2島返還で決着させるなら、沖縄は絶対に返還しないと「ダレスの恫喝」もあった。

 サンフランシスコ講和条約の千島列島議論はさておき、国後、択捉は、歯舞、色丹と共に、一度も外国に侵略されたことはなかったのですが、ヤルタ会談の密約だ、ソ連は平和条約を結んでいたにもかかわらず日本に攻め込んで不法占拠しているのです。

 しかし、その不法占拠も戦後70年を経過し、外国資本の投資もあり、更には軍備も拡張され実効支配は定着してきています。
 拙速な領土交渉と平和条約締結を進めるのがよいのか、70年を経過した進歩が見られない交渉は、加速した方がよいのか。悩ましいところです。
 遊爺は、領土問題の解決の無い平和条約は、平和条約とは言えないと考えますが、いかがでしょう。



 # 冒頭の画像は、モスクワで、日本への北方領土返還に関する協議の中止を求め抗議デモを行う人々

 


  モミジガサ




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ソ連が満洲に侵攻した夏 (文春文庫)


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