毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

聴く 力

2012年07月01日 21時21分52秒 | ふと思うこと
人にじっくり話を聞いてもらうことの大切さが初めて身に沁みたのは、去年9月の水害のときでした。

命はもちろんのこと、家、家財、車・・・と 自分になんの被害があったわけでもないのに。

それでも、水がじわじわ上ってきたときの恐ろしさや 真っ暗な夜中の避難、土石流の不安に生まれて初めての避難所生活、ライフラインを断たれた心細さ、と、心に抱えきれない思いを もう話したくて話したくてしょうがないのです。

ありがたいことに、ご近所の方も 別の集落の方も、出会うたびに「お宅どうやった?」と尋ねてくれるし、心配して連絡をくれた友や身内も 長い話をじっくりと聞いてくれました。

とどめに このブログにも思いっきり書かせてもらったし

不安定な氣持ちが尾を引かずに済んだのは そのおかげだと思います。



先日母が亡くなって、あちこちからのお氣遣いへのお礼のたびに 父が長々とそのときの様子を話すのをそばで聞いていて、以前だったら「そんなこと繰り返し思い出して辛くないのかな」と心配したことでしょうが、いや、こうして話すことでかえって救われてるんだ、と思うことができたのも、その体験があったから。



自分の体験、とくに辛い体験を言葉にするって、とても大事なことなんですね。


重荷やつかえになってることを吐き出すだけで、まずは楽になれるし。

話しているうちに いろいろと見えてくるものもあって、自分の本心に氣づいたり、心の整理をつけたりしやすいのかもしれない。

また、もっと深いところで 自分を受け止めてもらったという満ち足りた思いや安心感も生まれるのかもしれないね。




そんなこんなで、話すことの値打ちに氣づかせてもらった私ですが、

じゃあ、聞くほうとしてはどうなの?となると。。。。






人の話を聞くのは 決して嫌いではないんです。

ただ、同じことの繰り返しで退屈だったり ネガティブな内容だったりすると、すぅっと氣持ちが離れてしまったり。

また、思い当たることや強く共感することがあると、相手の話を聞き遂げる前に 自分の思いを口にしてしまわずにいられなかったり。


結局、自分の“我”が前に出ちゃうんですね。


最近「人の話を『聴く』技術」っていう本を読んだんだけど、ただ漫然と聞くのでなく 積極的に身を入れて「聴く」っていうのは、ほんとうに思慮深さや忍耐、思いやりのいることなんだなぁと思いました。

なによりもまず、自分を限りなく透明にして、心のざわつきを極力消して 相手の氣持ちに寄り添うことが必要なんですね。

そうして 思いやり深く 鏡のようにまっすぐに相手の心の内を映し出すことができれば、それを見た相手が 自分から答えを見つけて救われるかもしれない。

我が強いと ついこちらが答え(と思うもの)を言ってしまいそうになるけど、それではほんとうに相手の力にはならないんだよね。

相手の答えを知ってるのは 相手本人だけだものね。




ミヒャエル・エンデの「モモ」という本(「モモ」は主人公の女の子の名前)、お読みになった方もおられるかもしれませんが、このモモが 鳴かなくなったカナリヤを、ひたすらその声を聴き取ろうとすることで 再び鳴くようにしてあげるエピソードが出てきます。

このときモモは、1週間も 鳴かないカナリヤの声にじっと耳を澄ませ続けるんですね。

まだ声のないところに 声になるかもしれない何かを感じて、じっと待つ。

そんな優しく辛抱強い思いが 相手の心を誘い出す。

それが「聴く」っていうことなのかもしれないなぁ。



私も モモのように「聴ける」人になれるかな?

簡単ではなさそうだし 時間もかかるだろうけど、それでもいずれはそうなりたいな♪

まずは 自分の魂を磨いて、心のバランスをとって、内側を満たして。

そうやって成長するにつれて、聴く力もついてくるのかもしれないね(^^)