きのうの「必要だから起こってる」の話。
そのおおもとには、「人は わざわざ不完全な自分を通して本来の自分を体験するために この世にやってきた」という私なりの世界観があります。
私なりの、と言ってもオリジナルではなく、いろいろな人がすでに言ったり書いたりしているものをなんとなく氣に入って、「うんうん、こういうのありだよね、きっとこんなだよね、採用~♪」と 自分の世界観として消化吸収させていただいたものですが。
そもそも あるのは「大いなるひとつ(=神、宇宙、ワンネス)」、それだけだった。
「大いなるひとつ」は自分が完璧であることを知っていたが、ただ知るだけでなく 体験し 味わいたかった。
で、ひとつである自分をいくつにも分けて、自分と同じ力を持ち、しかしそのことを忘れた不完全な存在として、この世に送った。
不完全を知らなければ、完全がどういうものかもわからないから。
それが私たち人間。
つまり私たちみんな、神であることを忘れた神の一部、というわけ。
初めてこれを聞いたとき、なんかぴんときたんだよね。。。絵空事という感じじゃなくて。
そして、あちこちで同じような話を見聞きするうちに、どんどん深く入り込んできて、今ではすっかり“私にとっての事実”になった、と。
この世界観と「必要だから起こってる」が結びついたとき、さらにもう一段 すとーんと腑に落ちたことがあったんですね。
完全とはどういうことかを実感するために、不完全を体験したかった。
愛とはどういうことかを実感するために、争いを体験したかった。
安らぎとはどういうことかを実感するために、不安を体験したかった。
豊かさとはどういうことかを実感するために、貧しさを体験したかった。
これまで「拒みはしないけど あまりうれしくもないもの」という扱いだったネガな出来事全部、実は わざわざ不完全な存在になってまで ぜひとも体験したいものばかりだったんだ、と。
ついつい及び腰で、「うれしくないなぁ、これ早く終わらせてその先へ行きたいなぁ」って焦ってたから、その大切さがよくわからなかったけど。
本来の自分を思い出し ありありと実感するために、むしろ進んで味わう必要のあることだったんだね。
そのために用意されてたんだね。
言い換えれば、そういうネガな体験をひとつひとつ消化していくことで、わざわざそれた道を修正して、本来の自分に還っていく、それが「生きる」ということなんだね。
“わたしがあなたのもとへ送るのは天使だけ。それ以外はない。”
~ニール・ドナルド・ウォルシュ「神との対話」より~
はい、ほんとそのとおりでした。
すっかり忘れてましたけど、すべて 私が望んだから来てくれたんでした。
敵でも、降って湧いた災難でもありませんでした。
天は 私をいじめたりからかったりなんて 一度もしなかった。。。ぜんぶ私の被害妄想でした。
さっぱりわかってなかった私を見放すこともなく、根氣よく何度でもチャンスを与えて愛してくれました。
すなおにそう信じられるようになって、何が来ようとジタバタ抵抗しなくなった(今でも「うわ」ぐらいは思うけどね)分、感情のアップダウンもぐっと穏やかになったというわけ。
どんなことであれ、辛い思いをするためではなく、辛さを通して その対極にある喜びにたどり着くために起きてるんだって、ためらいなく思えるようになったから♪
こういう話って、正しいの正しくないのって議論しても始まらないし、何が証明できるわけでもないし、信じるか信じないか 自分の氣持ちひとつなんだけど。
いま これだけは言えるかな。
私たちは、本来の自分を体験したくて 神であることを忘れてこの世にやってきた神。
これが自分の観念になって以来、心が落ち着いて、一見不条理と思えることもすんなり受け止められるようになって、何よりも 今生きていることがとてもうれしく思えるようになったよ、って♪
だって・・・人生から「ノーサンキュー」が消えちゃったんだものね(*^ー^*)
そのおおもとには、「人は わざわざ不完全な自分を通して本来の自分を体験するために この世にやってきた」という私なりの世界観があります。
私なりの、と言ってもオリジナルではなく、いろいろな人がすでに言ったり書いたりしているものをなんとなく氣に入って、「うんうん、こういうのありだよね、きっとこんなだよね、採用~♪」と 自分の世界観として消化吸収させていただいたものですが。
そもそも あるのは「大いなるひとつ(=神、宇宙、ワンネス)」、それだけだった。
「大いなるひとつ」は自分が完璧であることを知っていたが、ただ知るだけでなく 体験し 味わいたかった。
で、ひとつである自分をいくつにも分けて、自分と同じ力を持ち、しかしそのことを忘れた不完全な存在として、この世に送った。
不完全を知らなければ、完全がどういうものかもわからないから。
それが私たち人間。
つまり私たちみんな、神であることを忘れた神の一部、というわけ。
初めてこれを聞いたとき、なんかぴんときたんだよね。。。絵空事という感じじゃなくて。
そして、あちこちで同じような話を見聞きするうちに、どんどん深く入り込んできて、今ではすっかり“私にとっての事実”になった、と。
この世界観と「必要だから起こってる」が結びついたとき、さらにもう一段 すとーんと腑に落ちたことがあったんですね。
完全とはどういうことかを実感するために、不完全を体験したかった。
愛とはどういうことかを実感するために、争いを体験したかった。
安らぎとはどういうことかを実感するために、不安を体験したかった。
豊かさとはどういうことかを実感するために、貧しさを体験したかった。
これまで「拒みはしないけど あまりうれしくもないもの」という扱いだったネガな出来事全部、実は わざわざ不完全な存在になってまで ぜひとも体験したいものばかりだったんだ、と。
ついつい及び腰で、「うれしくないなぁ、これ早く終わらせてその先へ行きたいなぁ」って焦ってたから、その大切さがよくわからなかったけど。
本来の自分を思い出し ありありと実感するために、むしろ進んで味わう必要のあることだったんだね。
そのために用意されてたんだね。
言い換えれば、そういうネガな体験をひとつひとつ消化していくことで、わざわざそれた道を修正して、本来の自分に還っていく、それが「生きる」ということなんだね。
“わたしがあなたのもとへ送るのは天使だけ。それ以外はない。”
~ニール・ドナルド・ウォルシュ「神との対話」より~
はい、ほんとそのとおりでした。
すっかり忘れてましたけど、すべて 私が望んだから来てくれたんでした。
敵でも、降って湧いた災難でもありませんでした。
天は 私をいじめたりからかったりなんて 一度もしなかった。。。ぜんぶ私の被害妄想でした。
さっぱりわかってなかった私を見放すこともなく、根氣よく何度でもチャンスを与えて愛してくれました。
すなおにそう信じられるようになって、何が来ようとジタバタ抵抗しなくなった(今でも「うわ」ぐらいは思うけどね)分、感情のアップダウンもぐっと穏やかになったというわけ。
どんなことであれ、辛い思いをするためではなく、辛さを通して その対極にある喜びにたどり着くために起きてるんだって、ためらいなく思えるようになったから♪
こういう話って、正しいの正しくないのって議論しても始まらないし、何が証明できるわけでもないし、信じるか信じないか 自分の氣持ちひとつなんだけど。
いま これだけは言えるかな。
私たちは、本来の自分を体験したくて 神であることを忘れてこの世にやってきた神。
これが自分の観念になって以来、心が落ち着いて、一見不条理と思えることもすんなり受け止められるようになって、何よりも 今生きていることがとてもうれしく思えるようになったよ、って♪
だって・・・人生から「ノーサンキュー」が消えちゃったんだものね(*^ー^*)