三次元の世界(五感の情報から成り立つ世界)がすべてだと思っていると、目の前で起こっていることの解釈もひとつしかないように見えます。
でも、少し引いた客観的な視点から 魂として(分け出された神として)の目的や意図を眺めると、まったく別の見方も成り立ちます。
三次元では行く手を遮る壁にしか見えない出来事も、魂からすれば、そもそも本来の自分を体験するために あらかじめ自ら用意しておいたハードル。
邪魔するためではなく、乗り越えて力をつけ 本来の自分へと還っていく、そのプロセスを味わうために、生まれる前にわざわざ仕込んでおいた仕掛けなんですね。
こう思えると、すべてが違ってくる。
生きている中で 「理不尽」を感じることって 多々あると思います。
たとえば、恵まれた環境にあることへの感謝が足りないと、いやおうなしにそれを思い知らせるような出来事が起こる、とか。
そういう流れというか 力学みたいなものは確かにあると思います。
現に私自身体験したことだし。
でも、これって考えたらかなり理不尽なことだと思うんですよね。
だって、生まれたときから当たり前のように恵まれていたら、それを当然の環境と思い込むのは自然なこと。
息ができる、心臓が動いている、そんな最初から当たり前に起こっていることに 日々刻々感謝し続けられる人がどれほどいるでしょうか。
それを、恩知らずが罰を受けるみたいな目にあうのって、当人からすれば理不尽なことだと思うんですよね。
何を悪いことしたわけでもなし、ただ当たり前にあるものを 当たり前に受け止めていただけなのに。
また、生まれたときから家族の愛に恵まれなかったとか 身体が不自由だとかいう場合ならなおのこと、大きな理不尽を感じても不思議ありません。
でも。
魂の観点からしたら、こういうハンデは ゲームを楽しむための設定。
誕生の「誕」には「いつわり」という意味があるんだそうです。
全知全能の完璧な存在が、わざわざ不完全な人間といういつわりの姿に身を変えてこの世に下りてきた。
自身の完璧さ、素晴らしさを 不自由を通して楽しむために。
囲碁や将棋のような室内ゲームでも、野球やサッカーのようなアウトドアスポーツでも、必ず固有のルール(制約)があり、参加者はその制約に従ってゲームを楽しむわけです。
ならば、それぞれが背負わされている理不尽な人生のハンデも、この世のゲームを楽しむために あらかじめ設けておいたルールだと思ってみたら?
理不尽を押し付けられたと思えば、どうしても被害者の立場になります。
生来のハンデに 自分は苦労を強いられ、どうしようもないと。
でも、ゲームの制約なら 向かう姿勢がまるで違ってくる。
制約の範囲で いかにうまく攻略するか智恵を巡らせ、時には手に汗握って 夢中でゲームを楽しむ。
被害者ではなく、挑戦者として。
障害物の前に なす術もなく立ち尽くすのではなく、最初からその向こうを見据え 突破する氣満々で。
ゲームだの遊戯だのって表現は軽すぎると感じる方もおられるかもしれませんね。
でも、少なくとも 自分は理不尽に虐げられているのではなく、進んでこの世ゲームに参加したチャレンジャーだ、って見方を変えるだけで、ずいぶん多くのことが違ってくると思うんです。
ダメだと思う間は見えてこないものも、クリアしてやるぞと身を乗り出せば見えてくる。
見ようという意志があって初めて、焦点も合わさるし、パズルの破片も集まってくる。
今この世界で起こっている諸々のことも、強大な力にいいようにあしらわれ搾取される悔しさや無力感を覚えることもできるし、ハンデが大きいほど稼げる得点も高いのだぁ!と意欲満々で臨むこともできる。
ピンチはチャンス、ピンチが大きいほどチャンスも大きい♪
どういう立ち場を選ぶかは それぞれお好みで、ということのようですね(^^)
ん?私?
被害者ドップリからスタートしてウン十年、今は意気揚々たるチャレンジャー、こっちの方がダンゼン楽しいです、ハイ