毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

もういちど  ONE

2013年03月26日 13時22分01秒 | 大好きな本・映画・ほか
久々に手に取った、愛読書「ONE」。

以前こちらにも書かせてもらっていますが。

好きな本は、何十年でも手元に置いて、何十回、もしかしたら何百回と 繰り返し味わい読みます。

内容は同じでも、こちらが変化しているから、毎回新しい発見や感動があって。

ふと「あ、あれ読みたい」と思って引っぱり出すと、たいがい、おお、今回はここか~、と反応する場面に出くわします。




「かもめのジョナサン」の作者として知られるリチャード・バック氏が書いた「ONE」は、パラレル・ワールドをテーマにした 大人のファンタジーとでもいうような物語。

リチャードとレスリーのバック夫妻は、自家用機でロサンゼルス上空を飛行中、ひょんなことから ゴーストのような(壁や車などが透過する幽体となり、自分たちの“分身”以外の人には見えない)存在として パラレル・ワールドを飛行艇で自在に行き来できるようになり、さまざまな世界のさまざまな“分身”たちと出会いながら、以前より関心の高かった「自分」「人生」「次元を超えた世界」などのテーマについての理解を深めていく。



実はこの本、大好きなのにも関わらず、初めのうちはちょっとやっかいな本だったんです。

そもそも五感を超えた世界をテーマにした話だというのに、私が理詰めで掴もうとしたせいで。

あのころは、つくづく頭(論理)先行型だったんだよね(^^ゞ

「パラレル・ワールド」については、私なりに解釈した上で なんとなく“あり”だったし、心魅かれる世界でもあったんだけど。

ひとつ何らかの選択をするたびに、選ばなかった別の世界が出現し、もうひとりの別の自分が 枝分かれした併行世界に存在する、と、その辺もまあ“あり”だったんだけど。

でも、その“分身”については、無意識のうちに、自身と同じぐらいの年齢の日本人女性で、マンツーマン的にひとつの世界にひとりずつ、と決め込んでいて。

ところが、「ONE」では、ひとりの人物が夫妻双方の“分身”として現れたり、人種違いの(夫妻はアメリカ人)ロシア人や、古代ローマのフン族のアッティラ、妖精、はては人型コンピュータまでが登場したり。

あげく、終盤にさしかかったところで 飛行艇に事故が起こり、ゴーストのはずのレスリーが死亡する、なんて展開まで。。。いや、そこは異世界のこと、ちゃんとハッピーエンドになるんですが。

大好きだからこそ、ついつい自分なりの解釈と分類で 頭の中にきっちり収めたい誘惑にかられるのだけれど、それをすればするほど 混乱してわけがわからなくなってしまう、つくづくやっかいな本(^_^;)

いや、素直におとぎ話として読めばよかったのかもしれないんだけど、ちょうど五感を超えた世界への関心がどんどん深まりつつあったころで、どうしても現実世界の自分と重ね合わせて読めてしまって。



今にして思えば、逆だったんだなぁ。

私がこの物語を自分なりの解釈に押し込めるのではなく、私の解釈の元になっていた概念が、この本によって大きく変えられていたんだと。

正しくは、この「ONE」と、さらに同時期に並行して愛読していたさまざまな本の情報の総合によって。

そのために、理解が及ばずちんぷんかんぷんであっても、その魅力は失せることなく、何度も何度も繰り返して読むように仕組まれていたのでしょうね☆




「わたしはあなたがたふたりなのよ。未来から来たんじゃなくて・・・(中略)もうひとつの現在から来たの」


「時間というのは、意識の移動をあなたがたがそう呼んでいるにすぎないの。空間と時間の中で起こりうるあらゆる出来事は、いま、いっせいに、まったく同時に起こることができるの。過去も未来もないのよ。あるのはいまこの現在だけなの」


「ポイントは、それがすでになされてるってことじゃなくて、わたしたちが無限に選択できるってことよ。(中略)自分で選択することで、いろんな経験をするの。経験を積み重ねて氣がつくのよ。わたしたちは自分で思ってるような、小さな生き物じゃないってことに。わたしたちは生命をさまざまな次元で体現する存在、魂を映す鏡なの」 (訳=平尾圭吾氏)

                                                         

これらは、突然わけのわからない世界に飛び込んで混乱する夫妻の前にふいに現れた、二人の分身であり この“旅”の導き手でもある パイという女性のセリフ。

初めて読んだときには「わけわから~ん」だった こういう言葉が、今ではすんなりとうなずけるまでになじんでいます。

論理的に解説できるとかいうことじゃなくて、春 桜が咲く、朝 日が昇る、などと同じように、疑いも引っかかりもなく すぅーっと自分の中を通ってゆく、そんな感じ。

外側の世界のつくり話ではなく、「そうそう、そんなふうだよね、世界って」と 自分の視点として消化・同化した、っていうのかな。




「五感に触れる世界がすべて」だった私の世界観の変りようは、生身の人間よりも、本やブログの情報に影響されてのことが多いけど、結局のところ、すべての情報や理解は 最初から自分の中にあった、ということなのでしょうね。

外からの刺激は それらを引っぱり出すきっかけに過ぎず、その媒体が人だろうと 本やネットだろうと 通りがかりの一瞬の景色だろうと、別になんでも構わなかったんだ、っていうことなのね。




そして。

これは私だけじゃない、すべての人に言えること。

もちろん 三次元の世界だけに生きるという選択もありだけど、もし もっと広い世界や視点に心魅かれ、もっと知りたいと望むのなら、その答えは 他のどこでもない、自分の中にすべてあるし、そう願った時点で、必要なきっかけは完璧に用意され、最良のタイミングで発動するようになっている、ということ。

心の赴くままにアンテナを張っていれば、ふと目にした文章、ふと耳に入った通りすがりの誰かの言葉、ふと遭遇した興味ある出来事、いや、ひらりと落ちる木の葉一枚、足元に転がる小石一個からでさえも、きっかけをもらって 望みを叶えることができるっていうこと。



うん、一番言いたかったのはここみたいね(^^)




久々の「ONE」に刺激されたか、いろいろな思いやひらめきが続々と上がってきています。

しばらく「ONE」がらみの話が続くかも。。。まあ、先のことはわからないけど