毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

自ら選ぶ ほんとうの答え

2013年03月28日 10時00分49秒 | 大好きな本・映画・ほか
きょうもまた「ONE」からのお話。



リチャード&レスリーのバック夫妻が体験したパラレルワールドのひとつに、フランスの田舎の草原とおぼしき場所があり、二人はそこで やはり二人の分身であろう ジャン・ポール・ル・クレールと名乗る隠者のような老人と出会います。

そして、老人の傍らに光と共に現れた、一冊の経典。


「儀式にふれた言葉はなく、信仰せよと指図する言葉もない。敵を炎もて撲滅せよと命じることも、不信心者には禍いがふりかかると説くこともなく、残虐なアッティラの神々もいない。神殿、僧侶、ラビ、信徒の集会、聖歌隊、服装、聖休日、そういったものについての言及もない。愛すべき内なる存在のために、まさにその存在のためだけに書かれた経典といってよかった。
ここに書かれた思想をこの時代にひろめれば、とわたしは考えた」(本文からの引用・by リチャード)


真理・内なる叡智を常に探求してきたリチャードが この経典を多くの人々に広めようとするのに対して、ジャン・ポール・ル・クレールは、経典で世界は変らないと言います。


「これらの言葉を、かりに世に伝えるとしよう。経典は、その真理をすでに知る人々に愛され、理解されもしよう。だが、人々にそれを与えるまえに、われわれは経典を名づけねばならん。(中略)命名自体に害はない。だが、これらの思念に名称を与えれば、宗教をつくりだすことになる」(同・by ル・クレール)


そして、リチャードとル・クレールの対話から、新しい宗教が、そこに語られる愛や真理とは裏腹に 人々の間に争いを生み出すプロセスがシミュレーションされ、夫妻はその避けがたい運命に身震いします。

結局、レスリーが経典に火をつけて燃やすことで、その展開は終わりを告げます。


「なんとめでたい夜じゃ!世界を新しい宗教の誕生から救う機会など、千載一遇のことじゃて」(ル・クレール)

                (中略)

「ええ、たしかに。わたしたちの歴史には、ページ教徒(対話の中で 彼らが仮に名づけた この宗教の信仰者の名称)のことも、彼らの戦争のことも、一行たりともあらわれませんよ、ジャン・ポール・ル・クレール」(レスリー)



このエピソード、今回の読み返しで強く意識を惹かれた もうひとつの場面です。



私自身、五感で受け止める世界以上に 五感を超えた世界について知ることが大事だと感じて以来、いわゆるスピリチュアル系から自己啓発、宗教、チャネリングなど、さまざまな本やネット情報を読み漁り、ときにはワークショップに参加したりもして、大きな影響を受けてきました。

そんな中で不思議に思ったのは、そのひとつひとつが伝えようとするところは、人々をより平和に、より幸せにと導こうという思いに溢れているのに、その教えや啓示が経典のようにあがめられ、そこに体系だった組織が生まれると、とたんに何かしらややこしいものが発生するケースが多いように見受けられることでした。



そして今回、このル・クレールのエピソードから感じたのは、私たちが 高次の答え → 真の平和・真の自分 にたどりつくには、外側から教えられたり諭されたりするのでなく、自分の力で内側から氣づくしかないらしい、ということ。



こういう教えは 口伝えであれ文書であれ、言葉を介して伝えられます。

そもそも ひとつの言葉との出会いの形は 人の数だけあり、人の数だけ異なるイメージが そこに生まれるもの。

だから、その言葉が幾万と組み合わさってできた文章が、複数の人々にまったく同じように受け止められることはありえない。

そのありえないことを、組織の長の権威の下に無理やりひとつにまとめるのが、組織としての宿命なんですね。

また、ピラミッド型の組織では、どうしても対人関係の力学のようなものが生まれてしまう。

精神的に未熟な人が少しでも混じっていれば(混じってないはずないよね、未熟だからこそ より高度な教えを求めて集まってくるんだもの)トップに氣に入られようとか、上に立ってコントロールする側に回ろうとかいう動きも、それに反発する人も出てくるのは致し方ないこと。

さらに言えば、三次元世界での事象は、そのほとんどが正誤・寒暖・高低などのように二元対立。

コインの表裏のように、ひとつの要素が生まれれば、必ずといっていいほど 対立する要素がセットで現れるもの。

これらを踏まえると、組織化し 外側から広めようとした時点で、ひとりひとりの意に反して 広めたい教えと相反する争いや揉め事が起こってしまうのは、どうしても避けられないことなんですね。

誰が悪いとかいうことではなく、そもそもそういう性質のものなんだと。



私よく思うんだけれど、神、天、宇宙、大いなる存在、まあ呼び名はなんでもいいんだけど、五感を超えた世界の真理に触れたいなら、間に伝達者や翻訳者をはさむよりも、自分が直接それと繋がっちゃう方が 早いし確実なんじゃないかな。

単純な伝言ゲームだって、人数が増えるほど誤って伝えられやすいものだしね



いや、そんなのムリだよ、って言いたくなる氣持ちはよくわかります。

私だって、以前は優れた人の下について教えを乞う以外道はないって思い込んでたし、実際そういう道を選んでもいたもの。

それでも今、信じる信じないは読んでくださる方にお任せだけど、敢えて言いたいのは、答えは常に自分の内側にあり、外にはない、ということ。

また、三次元世界においては たったひとつの正しい答えが存在するわけではなく、私たちひとりひとりが どのような自分でありたいかという意思に照らし合わせて、自分だけの答えを内から導き出す以外、真の答えに出会う道はない、ということ。



これについては、もう少し詳しく話したほうがいいのかな、という氣もするけど、長くなりすぎるから 今回はここまでで。

長文をお読み下さって ありがとうございます。