禁糖、まだ続いています。
以前のダイエットと違って、ことさら「ガマンしている」という感じでもないので、かえって続くのかもしれません。
加えて、糖断ちのストレスが減ってゆくのと反対に、このまま続けたら 心身がさらにどのような変化を起こすかな?という興味の方がだんだん強くなってきて。
まあ、特にあと何日、と決めることもなく、欲しくなったらいつでも摂ることにしよう、ぐらいのノリで ゆるゆるいくとしましょうか
以前このあたりに書かせてもらったとおり、今も 感情が乱れると からだの感覚に意識を集めることを続けていますが、幾度となく繰り返すうちに だんだんと、以前は見過ごしていたかすかな感覚にまで氣づけるようになってきました。
「怒り」というのは 感情の引き金になる体感も派手なので、意識するのも簡単でしたが、それ以外に「なんとなく落ち着かない」「どことなく氣が重い」「どうも氣が乗らない」などの やや控えめな氣分の変調についても 氣をつけて観察してみると、胸元からかすかに空氣が抜けていくような、とか、上腕や太もものあたりが少しこわばったような、とか、頭がわずかに締めつけられるような、とか、あちこちに小さな違和感が起こっていることがわかってきました。
さらに最近では、のどの奥や 舌の付け根、眉間や口元、頬骨のあたりの筋肉に 不自然な力を加えていることがちょいちょいあるのも感じ取れるようになってきました。
これまでほとんど氣に留めることもなかったけれど、過去のさまざまな記憶から これほどいろいろな感覚をわが身に引き起こして、しかもそれに氣づかずに長年過ごしていたとは。
そして、その感覚から派生した さまざまな感情のストーリーに ずっとずっと翻弄されどおしだったとは。
自分という もっとも身近なはずのものが、もっとも見えない、わからない、この不思議。
きっと今でも、まだまだ氣づいてないことがたくさんあるんだろうなぁ (- -;)
禁糖を続ける中でも、いろいろと氣づかせてもらったことがあります。
これまで当たり前のように 甘いものを喜び、ときには執着し、甘いものなしで暮らすなんて考えられないと思って過ごしてきたけれど、その喜びや執着って、実はなんなんだろう。
美味しいということ、食の喜びや満足って、ほんとうはどういうものなんだろう。
これまで「食」というものを大事にしてきたつもりだったけど、その「大事」って、実はかなりあやふやな土台(意識の浅い部分での満足)の上に成り立ってたんじゃないだろうか。
このような豊かな時代に生かされて、ただ「生きるために食べる」という以上の要素が食にあるのは確かだと思うけれど、それはいったいなんなんだろう?
空氣のように自然にそこにある、という感じですっかり見過ごしていたものが、実は 後付けで作られた 不自然な感情や常識だったということ。
自分をよくよく見つめ、そういう「本来の自分ならざるもの」を見つけてゆくことが、心の曇りを取り除いてゆくことにつながります。
だから、こういう作業が大好きで やめられないんだなぁ♪
禁糖がなんとなく続いているのも、このあたりが原動力になっているような氣がします (^^)
この先どうなることやら、楽しみ、楽しみ♪