近畿地方、本日梅雨入りとのこと。
いかにもそれらしい灰色空です
今年は本格的な梅雨になるのかな?
浄化と恵みの雨、それもまたよし♪
ただ、おととしの台風12号のときみたいな とてつもない大降りだけは勘弁だけどね
禁糖10日目。
なんとな~く続いております。
甘いものに氣が向かわないわけではないのですが、アンバランスな執着が外れたおかげで それは単純に選択の問題、となると、「このままもうちょっといったらどうなるかなぁ?」という好奇心の方がついつい勝ちを占めるわけです。
今後は 禁糖の日数記録を伸ばすことに執着しないよう 氣をつけて、だね(笑)
以前、ダイエットであれなんであれ、氣になるのは「太った」「退屈」「イライラする」など 表に現れる現象であり、それに対する手立ては決まって「なんらかの行動を起こすこと」でした。
太ればダイエット、退屈なら氣晴らし、イライラすれば過食に走る、などと、とにかくその現象を消すことに走り、現象のもととなったところに手をつけることは ほとんどありませんでした。
そんな氣持ちの根っこには、「このままの自分ではマズイ、幸せになれない」という否定的な思いがあったのでしょう。
そして、その不安の表れである現象をどうにかすれば 幸せな自分に変われる、という思い込みも。
あの頃と同じ氣持ちで禁糖をするとしたら、それは期待や損得勘定に動かされてのことであり、ひたすら我慢という ストレスの多い形になっていただろうなぁ。
愛読書のひとつである ニール・ドナルド・ウォルシュ著「神との対話」に、「しなければならないことは、何もない」 という “神” の言葉が出てきます。
“ 「しなければならないことは、何もない」と決めたら、「行為」によって問題を解決するのではなく、「問題」が消えてしまうような存在になるだろう。
そうすれば、問題を起こす条件は消える。 ” (サンマーク文庫版 3巻・559ページより)
これ、理屈ではうなずけても、実際には長いことわからなくて 生かすことができなかったんです。
でも、ダイエットしたってじきまたリバウンドしてしまうし、氣晴らしはその場限り、過食は新たなトラブルを呼び込むだけ、ということで、結局は同じことの繰り返し、いつまで経っても解決できはしないのだという 苦い体験を経て、もっと根本的なところにようやく目を向けるようになりました。
つまり、「あり方」に。
不満な現象を引き起こすおおもとの部分へと視点を移してゆくと、「~が不満だ」「~が足りない」という飢えた意識が、自分の世界を創り上げているのが見えてきました。
やがて、その「飢え」自体が誤った認識から創作した“幻”であり、実際に起こっていたのは、ある種のからだの感覚と そこから派生する感情だけ、ということに氣づかせてもらった次第は、以前にも書いたとおり。
つまり、そもそも最初から問題なんてなかったんだ、ということに目覚めるだけでよかったんです。
問題をどうにかしようとするのは、問題が「ある」と認めてしまうこと。
だから、いくらがんばっても解決できなかったんですね。
本来の自分に戻るっていうのは、ただ氣づくこと、目を覚ますこと、それだけ。
しなければならないことは、やっぱりなにもありませんでした(^^)
「あり方」に集中するっていうのは、けっこう勇氣がいることだと思います。
今の世の中は、目に見える成果で評価されることがほとんどだから。
私も 知らず知らずのうちに そういう価値観を基準にしていたようで、「こんなことしていていいのか」「行動して 目に見える結果を出さなくていいのか」と、絶えず不安にさいなまれることに。
怖れたり ぐらついたり くじけそうになったり、ほんとうに悩みの多い日々だったなぁ(^_^;)
でも。。。
まだまだ曇りが多く残っているとはいえ、今のまま・ありのままの自分でいいのだ、と自分を肯定できるところから万事が始まる この穏やかな毎日は、迷いながらでも この道を進んできてよかったと しみじみ思わせてくれます。
本来自分のものではなかった世界観を 薄紙をはぐようにひとつずつ取り除けていって、とにもかくにもここまで来た今の自分には、課題はあっても トラブルや妨害はないし、また たとえ何があってもクリアしていけるという静かな信頼が どうやら芽生えてもいるようだから。
一見道なき道だったり 遠回りに思えても、あり方を見つめなおすというのは、幸せであろうとする人にとって 実は一番の近道なのだと、今なら 胸を張って言える氣がします