毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

変われるものです♪

2015年09月13日 12時00分01秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ちょうど2週間前の30日が、6月から3ヶ月間の仕事の最終日でした。

2週間。。。。あの数々の体験から生じた氣づきを言葉にするのに ちょうど頃合の距離感になったみたいです(^^)




今回の大きな収穫のひとつは、「自分の世界は自分の意識が創っている」 ということが、“確信” からさらに進んで “あからさまな事実” となったこと。

「信じる」 とわざわざ言葉にしなければならないうちは、「・・・でも、まだちょっと・・・なぁ」 というのが どうしても後に付いて回り、100%信じ切れてるとはいえない状態なんですね。

「信」 という語を使うのもおかしく思われるほど 当たり前の事実となってしまえば、そこから先の選択は、常にこの事実をもとに行われることになります。

この3ヶ月の体験を通して、「世界は自分が創ってる」 は それほどしっかり内に浸透し 消化吸収されて 私の一部となった、と。




昨年の白浜でも、「え!?」 と思うようなことが起きたあと、それを鏡として自身の想念を振り返れば、「うわ~、あったよ」 ということが度重なり、確信が深まってはいました。

でも、そこにはまだ 外から内への置き換えという意図的な作業が必要で、外と内の分離感が残るのはどうしようもありませんでした。

どうしても、自分とは別に 「外の世界」 だの 「他者」 だのが存在するという見方に戻ってしまう。

コントロールの効かない ・ 意のままにならない力に翻弄される、という怖れに駆られて、ついつい守りの姿勢になってしまう。

創造者の立ち居地にい続けることができなかったんですね、あの頃は。




が 今回、さらに数を重ねて その意図的な作業が 「習い性」 となり、意識せずともすっと出てくるようになるに従って、外を内とみなすまでの時間がどんどん短くなり、意に染まないことが起こったり言われたりして ムカッときた次の瞬間、「誰に (何に) 怒ってるの~?これ全部私じゃない」 と思い返す繰り返しとなり、終盤には この視点がどうにか根付いたようなのです。

最後の2日ほどは、仕事場に行く = 自分の内的世界に踏み込んでゆく というように ふと思えたりして。




それと並行して、身のまわりで展開する光景が 自身の 「過去の」 観念の表れとして意識されるようになり、「この世界観はもう古い。今の自分の身の丈には合わない。これは脱ぎ捨てて置いていく古い殻だ」 という脱皮イメージがありありと浮かぶようになりました。




8月下旬、上の方から勤務期間延長の打診があり、懐事情から言えばお受けしたほうがよかったのですが、ここまで 「古い殻」 と明らかになった世界をこのまままとい続けるのはどうにも不自然に思えて、その場でお断りのお返事をしました。

「世界は自分が創ってる」 が事実となったからこそなされた決断。

「信」 の字が入ったままの認識だったら、先がまったく見えない状況でのこの決断は、怖くてとてもできなかったでしょう。




そして8月31日、借りていた品々をお返しし、お世話になった方々に挨拶をし、寮を引き払って帰宅、めでたく脱皮完了♪

以来、以前の 「石橋を叩いて叩いてなお なかなか渡る決心のつかない私」 だったらあり得ないような選択と決断の連続の日々。

「内なる羅針盤に従う」 から 「内なる羅針盤にのみ従う」 にグレードアップされた、そんな感じです (*^▽^*)




怖くないかといえば、もちろん古い思考回路も健在ですから、ドキン、ヒヤリ、ゾクゾクすることもたびたび、「なんちゅーことしてるの、アンター」 という叫びも しょっちゅう割り込んできます(笑)

と同時に、先が見えないってステキだなぁ、とワクワクしている私もいて、そりゃあそうですよね、先が決まっていないということは、好きなように創れるということなのだから

その双方を意識しつつ、前者はすかさず感覚フォーカスで受け止めて癒し、後者にのみつき従う私になった、と☆




前のブログで 「人生の新しい扉が押し開かれた」 と書いたのは、こういう変化があってのこと。

人間、変われるものなんですね♪