イハレアカラ ・ ヒューレン博士の 「ホ ・ オポノポノ」 について 大きくうなずけるのは、再生される記憶が 「聖なる知性」 と 人の意識とのつながりを妨げるという説や、問題を抱えた人が目に留まったら それは鏡に映った自身の姿なのだから その問題は自身のものとして責任を持ってクリーニングすべし、という話。
どちらも、これまでの自己探求の中で 私自身思ってきたことだからです。
今現在湧き起こったと思っている不安や怒りは、実は からだの感覚のスイッチが入り そこから再現された 幼いころの記憶のリバイバルでしかないことも、目に映るすべての人や出来事が 自分の内面の投影であることも、十分実感済み。
だから、記憶のクリーニングという考え方に抵抗はないし、そこに 「ありがとう」 という言葉が関わっていることに 感銘を受けもするのですが、プラス貴秋的には、記憶をクリアに戻す前に せっかく訪れたその体験や感覚を 一度はしっかり味わっておかないと 終わりにできない、という思いが 改めて湧き起こったのも また事実。
これは 感覚フォーカスやセルフクリーニングがどうこうということではなく、それを行うこちらの意識に 例のズレが生じていたのです。
「ホ ・ オポノポノ」 は ありがとうなどの4語を ことさら感情込めるでもなく ただ唱えるだけでいいとのことなのですが、お経のように単調な繰り返しの中で、いつのまにか 意識のありようが 探究から 「もうネガはいやだよぅ、早く手放して楽になりたいよぅ (T_T) 」 に変わってしまっていたのです。
そう、もういいかげんわかているつもりだったのに、やはり逃げ腰になってしまっている自分がいました。
その裏には 「このネガな思いを早くクリアしないと 思いそのままのネガな世界がどんどん再創造されてしまう、ますます抜け出せなくなってしまう」 という怖れや焦りが潜んでいるので、必死になればなるほど 結局はその怖れのほうが力を持ち 現実化してしまう・・・・・・・とわかっているはずだったのに
「手放す前に しっかり味わいなさい」 とは、そんなズレに氣づかせるための 黄色信号だったのでしょう。
「何をするか」 ではなく、「どういう思い (姿勢 ・ ありよう) からするか」 が大事だ、と 改めて思い知らされました。
「こんなのイヤだよぅ、どっかいっちゃってよぅ」 という氣持ちで行えば、その思いがそっくりそのまま形となり、どっかいっちゃってほしいほどイヤな世界が具現化するだけ。
以来、肝に銘じ 毎回のように確認する習慣がつきました。
ネガは 敵ではないのだと。
私たちは、本来の自分でないものを通じて 本来の自分を体験したくて、わざわざコントラストの世界に身を投じたのだから。
不幸を体験するから、幸せのありがたみがわかる。
嫌いを体験するから、好きなものを迷わず選べるようになる。
つまり、否定的な物事も 魂レベルでいえば 望んで引き寄せているのであり、あえてそれを体験することに 大きな意味があるのです。
だから、忌み嫌うことも 逃げ回ることも無意味、むろんやせ我慢で歓迎する必要もない、ただ一度 判断解釈抜きで まっすぐ見つめ 味わえば、それでOK。
自分は なんのために この世界にやってきたのか、探究のさなかでも これ以上原点を忘れることのないよう、しっかり意識に刻み直しました。
こうして、逃げるためではなく 受け止めて終らせるため、と 明確に意識しながら 感覚フォーカスとセルフクリーニングのコンビネーションを試し続けていたら、やがて面白いことが起こり始めました。
目に映る世界は 以前のままなのに、それを知覚する こちらの意識のありようが これまでにない形で変わり始めたのです。