毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

探究 ・ 実験 ~ こころとからだの相関関係  その7

2016年08月23日 11時42分14秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


今回 過去情報をひとつ訂正することになりました。

まだ感覚フォーカスに本腰入れ始めたばかりのころ、感覚に同化し過ぎて かえって手放しにくくしてしまったと思い込んで、以来 味わうときは 感覚と一体化せず すぐ隣から眺めるような感じで、と心がけてきました。

が それは、無自覚に生じた 「さっさと手放し 楽になりたい」 という意図が 完全に言葉をシャットアウトすることを妨げていたからで、言葉を一切介在させなければ、むしろ及び腰にならず 感覚に入り込むように しっかり感じるほうが、すみやかに手放せるとわかりました。

なかなか感覚が消えず やたら時間がかかっていたケースがかなりあったのは、感覚に深入りしすぎたからではなく、微妙に言葉が残った状態でつかんでしまったためだったらしい (^^ゞ

「言葉も意図もなしに ただ感じる」 やはりここが 感覚フォーカスの重要ポイントのようです。

言葉もためらいも抜きで 感覚そのものにズバッとフォーカスできると、たちまちのうちに溶けるように消えてゆくものだとわかりました。




この ネガ感覚が溶けて消えてゆくときの心地は、長く続いた不安や緊張から解放されて感じる安堵そのもの。

子どものころから絶えず不安に脅かされてきた身には、安堵とは 最上級の幸福を意味する なつかしい心境・・・・・・のはずでしたが、フォーカスの精度が上がり これをたびたび味わうようになったあるとき、安堵をはるかに上回る大きな幸福感が ふいに飛び込んできたのです。




それは まったくの不意打ちでした。

ネガであれポジであれ、思いのスイッチが入る瞬間って 自覚されないことがほとんどですが、ネガ思考が常態化しているところに さらなる不安が現れても 格別驚きもしないけれど、なんの予兆も脈絡もなく いきなり幸福感が登場したら 「え」 です。

それは、一片の記憶のひらめきと共に現れました。

歩道に落ちる 暖かな秋の日ざしと ちらちら動く木の葉の影、そんな映像が 瞬間脳裏に弾け、同時に それを実際に見たとき感じたのに違いない強い幸福感が 胸いっぱいに押し寄せ 満ち溢れたのです。

なにかうれしいことがあったから幸せを感じた、とかいうのではない、思い出のワンシーンは 感情を誘い出すきっかけに過ぎず、これぞまさしく無条件幸福、私たちの本質そのもの。

「雲が退けば お日さまが顔を出す」 の仮説が 実証されたと感じた瞬間でした。




とすかさず、すっかり感覚フォーカス慣れした心が、今だ、それをしっかり味わえ とゲキを飛ばしました。

この感覚は たぶん見つめても消えないから、とことん味わい強化することで 不安を 安堵や喜びに塗り替えることができる、と どこかでわかっていたようです。

以来、突如降って湧いたように現れた 幸せの小さな芽を 大きく育てる試み、続行中です (^_-)-☆




この突然の 「もともと私たちの本質である幸福感出現」 に、あの柔軟体操を通じての からだに残る痛みの記憶の解放が 大きく一役買ったと感じています。

お日さまをさえぎっていた雲、すなわち長年抱え込んでいた不安とは、実は 幼少期に体験した不安の記憶だと 以前から理解していました。

いや、ただ理解するだけでなく、自身の記憶と照らし合わせ 間違いないと確信していました。

が、それが理屈を超えて 実感として内側から感じ取れたのは、初めてのこと。

それは からだという五感でキャッチできる部分と こころという五感を超えた部分が 互いに影響しあうひとつものだと、今回の探究検証を通して 腑に落ちたからにほかなりません。

言葉を解する前の幼い子どもが 脳回路に無条件に組み込んでしまった思い込みを解放するためには、からだという手応えある鏡が ぜひとも必要だったのです。