毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

「私」 がいない!

2018年01月24日 14時13分43秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きっかけは、ムージ師との出会いでした。

師などと勝手にお呼びしておりますが、直接お目にかかったわけではなく 動画サイトを通じてのご縁です。

師の動画と初めて出会ったのは 12月に入ってからのことだと思い込んでいましたが、フォルダの作成年月日を確認したら 10月でした (これまで以上に 時間観念があやふやで当てにならなくなっています) 。

で 数ある動画を片っ端から見てゆくうちに、これまでにない角度から刺激を受け 大きく意識を揺さぶられることになったのですが、とりわけ大きかったのは、漠然と同じものなのかな・・・・と思っていた “在る” と 「観察する自分」 が 完全にひとつになったこと。

さらにもうひとつ、姿形や名前 ・ 思考や感情といった五感で掴める要素が 自分そのものではないという認識が確定的になったのも、大きな進展でした。

「私の車」 「私のカメラ」 などというとき、車やカメラは私が所有するものであって、私自身ではない。

同様に、「私のからだ」 「私の名前」 「私の知識」 「私の感情」 「私の意見」 等々についても、「私の○○」 と呼べるものすべて、「私」 が所有するもの ・ 「私」 に属するもの ではあっても、私そのものではないと。

これはとてもわかりやすく すっと入ってきて、心から納得できました。



そして 決定打をくらったのが、この二つの動画。


       「ムージ、DirectSeeing[前編] 道なき道」   「ムージ、DirectSeeing[後編] 目覚めの瞬間」


サットサンというんでしょうか、なにかの集まりの場でのムージ師と質問者のやりとり、これを見ながらふと 自分も一緒に師の指示に従って 意識の中を探ってみようという氣になったのです。




この質問者の女性は、どうやら自身の抱える恐れの解消を望んでいるらしい。。。。わかるなぁ。

恐れと戦わず 手がかりにして 何が恐れているのかを探し出すというのは、自身の経験からも 大きくうなずける話です。

        “身体の中にある、恐れの力を使ってください

         そして、恐れている者を見つけることができるか、確かめてください”

こういった観察には、度重なる感覚フォーカス体験のおかげですっかり慣れています。

恐れを誘発する記憶の持ち合わせにも事欠きません。

さあ、動画の女性と一緒にやってみましょう。





たちまちのうちに 胸やのどの締め付けなどおなじみの感覚が湧き上がってきます。

からだに響くある種の感覚、ここに言葉を添えれば すぐさま感情となってほとばしり、恐怖の物語をとうとうと語り出すことでしょう。

いつもなら 言葉を封じたまま からだの感覚に焦点を合わせるところですが、今回の課題は 「恐れている者を見つける」 こと。




ええと、からだも感覚も 「私の~」 が付けられるから 「私」 に属するもので、恐れている 「私」 そのものではない、と。

それをいうなら、言葉も感情も恐れのストーリーも みな私そのものではないことになるな。

あれ?

からだ、感覚、言葉、感情、記憶、憶測、それらについての思考や意見、判断解釈などなど 「私の~」 が付くものはいくらでも見つかるけれど、肝心の 「私」 そのものはどこ?

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ええええええええええ!?

いない、どこにもいない!

からだはちゃんとここにあって、恐れの元の感覚も相変わらず響いているのに、その主はどこにもいない!!

「私」 がいない、どこにもいない!!!






そう、どれだけ探っても、「私」 を見つけることはできなかったのです。






















  

今さらながら新年のご挨拶と 内面怒涛の年越し

2018年01月24日 08時39分57秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


二ヶ月以上のご無沙汰、年が変わり、関東の松の内を過ぎ、関西の松の内までもとっくに過ぎてしまってのご挨拶となりましたが。

昨年一年当ブログにお越し下さった皆さま、ありがとうございました。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます m(__)m

新しい年 (ってもうひと月近く過ぎてますが) がよきものでありますように。




さて、昨秋あたりから 内的変化に一段と拍車がかかった感がありましたが、よりによって12月に 「自分」 なるものを いったん解体し じっくり眺め渡して一から造り直すみたいなことが起こり、うわべは通常営業、内側は怒涛の年越しとなりました。

内と外のギャップのなんとすごかったことよ、よくまああの状態で 大掃除だのおせち作りだのと例年どおりにやれたものだ (^_^;)

いや、これができるのがマインドというものなのだと 今回思い知らされたわけですが。




昨年夏だったか秋だったかに 「パーフェクト ・ センス」 という映画を知りました。

人々が 次第に五感を失ってゆくというお話だそうです。。。。ってざっくりし過ぎでしょ

もっと詳しく知りたいと思われる方は こちらをどうぞ。 → 「映画 『パーフェクト ・ センス』 のネタバレあらすじ結末」  ※ネタバレあり ご注意ください。

映画そのものは観ていないのですが、この情報をきっかけに あれこれ思いが巡りました。




「パーフェクト ・ センス」 では 嗅覚 → 味覚 → 聴覚 → 視覚 の順に失ったところで話が終ったようだけれど、このあと触覚までなくなったら 人類はおしまいだろうなぁ。

五感をすべて絶たれるってどんな感じなんだろう。

触覚が残っていれば まだ他とのつながりを感じることはできるだろうけれど、それも失われたら たったひとり真っ暗闇に閉じ込められたような氣分だろうか。




ん? 待てよ。

そもそも私たちの本質は 五感を超えたところにあるんだよね。

私たちはもともと形を超えた内的存在であり、そのおおもとの本質を思い出そうというのが、今自分が没頭していることじゃないか。

五感を失うとは、五感の情報に惑わされることなく その本質にダイレクトに触れるチャンスでもあるのでは?

暗闇に閉じ込められるというのは 五感の側から見ての話、五感を断たれることで逆に見えてくるものもあるんじゃないかな。




私たちは 五感を通して 自分と自分でないものの境目から 「これが私」 と認識しているわけですが、じゃあ 五感がすべて感じ取れなくなったら 「私」 も消えてなくなるのでしょうか?

いや、まだ残っています、“在る” という感覚が。

五感とは比べ物にならないほどしんと静かで 主張のない感覚ですが、決して消すことも切り離すこともできないもの。




この “在る”、おととしあたりから 常に意識のどこかにひっそりまつわりついているようでしたが、昨年12月 これが一氣にクローズアップされることになったのです。