毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

2018年01月25日 15時51分53秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


動画 「ムージ、DirectSeeing [後編] 目覚めの瞬間」 でのムージ師の次なる問いは、


     “それは何?

      それは見られることが出来る?”


うーん、「何?」 と言われても。。。。。見られるのは・・・・ムリです、見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも触れることもできるようなものじゃない。

問われた女性も、


     “いいえ。。。それは、見る

      でも、それ自体は見られることは出来ない”


ここで師が返す


     “ ‘見ている, はある。

      しかし、そこには ‘見るモノ, が位置している定点はない、そうじゃないか?”


という表現は 言い得て妙というか すごく的確だと感心させられました。



と ここで、


     “最後だ。あなたは、この全ての中の、どこにいる?

      あなたは誰?”


女性   “私は、まさにここにいる”


ムージ師 “うん。何として?”


この後 この女性に何が起きたかは、どうぞ動画をご覧ください。

言葉ではとても語り切れそうにありません。




貴秋には、女性と同じようなことは起こりませんでした。

この問いかけの答えとなる情報を 師の他の動画ですでに知ってしまっていたため、「ああ あれか」 とマインドが先に動いてしまい、全身に落とし込むチャンスを逃してしまったのでしょう。

が、この動画を見、さらに師の導きに連なったことには 大きな意味がありました。

これまでずっと悩みの種にしてきた 怒りだの不安だの恐れだのという現象はあっても、その主たる 「私」 はいないのだということを はっきり体感できたこと。

そして、漠然としていた “在る” に ありありとした手応えを持てるようになったこと。

それまで 主従交代の感覚は、どれほど真に迫っていようとも 意識の中のものに過ぎませんでした。

それがここへ来て ぐっと現実味を帯びてきたのです。

小我が主体の座を真我に明け渡すということは、意図してできるものではなく、形あるものと思っていた小我に実体がないと知り、同時に 実感を持てずにいた真我の存在をありありと感じるという意識の変化をもって おのずと起きてくるものらしい。




それにしても氣になるのは、主がいないのに勝手に上がってくる感情や思考です。

まるで 「不思議の国のアリス」 のチェシャ猫が消えた後に残るニヤニヤ笑いみたい。

どうしてそんなことが起きるのでしょう?

観察していると、これらは主の有無などおかまいなしで いきなり勝手に現れるようです。

こちらから見えないところに 自動反応装置でもあるかのよう。

こうなると、この “ネガ感情 ・ ネガ思考自動製造機” をどうにかしてストップさせたい氣持ちに ついつい駆られます。

なにせ こういう感情や思考に 半世紀に渡って悩まされ続けてきたんだもの。




しかし、ムージ師は言われます、「セルフ (真我) に留まってください」 と。

とてもわかりやすい例え話を用いて このように話しておられます。

感情も思考も記憶も また名前や形や個性も ことごとく現れては消えてゆくもの、過ぎ去るものは ほんとうのあなたではないのだ、と。


     “変わらないものに、意識を向けてください

      そして、徐々に、変わらないものだけが、そこにあります

      変わるものでさえ、変わらないものになります”


     “これが、賢者の極意です

      それは、上手く機能します

      思考を取り上げ続けないでください

      ただ、“ここ” にいてください”




そう、ここでまた 「自分を悩ませるものを一掃したい」 という方向にのめりこんでいたら、これまでと同じ堂々巡りの罠にはまっていたのです。

自分がこれまでどのようなことを繰り返していたのか、ムージ師の智恵の言葉に新たな角度をつけ 合わせ技でいっそうわかりやすくはっきり示してくれる新しい手がかりと、このタイミングで出会うことになりました。























ないけど 在る

2018年01月25日 09時27分47秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


実のところ、「これまで 『私』 だと思っていたものは、ほんとうの 『私』 ではない」 という話は、決して目新しいものではありません。

ムージ師の他の動画でもすでに明言されていますし、本やブログなどでも伝え聞いていたことで、何よりも自分自身 「ハートとマインドの交代」 などとさんざん語ってきたことです。

ただ、自分ではある程度体験したつもりでいたそれらは 実はまだ認識の範囲内で、実際の体験はまったくの別物であった事実を突きつけられて 愕然としたわけです

こんなことを書いてたときもあったのね。。。。。「自分の本質が “ある” で これまで自分と思ってきたものがアバターであると 抵抗なくすっきり認められるようになった」 なんて無邪氣に書いてて、たしかに当時の正直な氣持ちではあるけれど、実際の体験がこんなことになろうとは 思いもよらなかったねぇ (- -;)

不安や恐れの感覚はいつもと同じなのに、その主たる 「私」 がどこにも見当たらない・・・・鏡に映った自分の首から上が忽然と消えていたとでもいうような衝撃でしたが、動画はこれで終わりではありません。




「[後編] 目覚めの瞬間」 で、質問者の女性もやはり 恐れている者を見つけ出せないようです。

ただし、ある程度の感覚的ざわめきは残っている。。。。これは感覚フォーカスのときと同じような感じだろうな。


     “単に感覚に過ぎないものを、マインドは恐れている者であるかのように感じさせる、これが最初の確認です。

      今度は2つ目の確認、何がこれを確認していますか?”


え、「何が」?


     “身体の中に感覚だけがある そして、その感覚に ‘恐れている者, とラベルがつけられているんだね”

     “これまでの生きてきた過程において、これを恐れているのが “恐れている者” と暗に教えられているんだ

      でも、厳密に内観、またはよく調べてみると、恐れている者はどこにも見つからないと”


そういうことか。

そんなふうに思い込まされていたんだ。


     “何がこの発見をしていますか、今?”


新しい問いを出されても、衝撃にくらくらする頭をすぐには切り替えられないのですが、動画の女性はすっと答えます。


     “あぁ~、観ているモノ。ずっと観ているモノ”


とすかさず、


     “よし、次は、この観ているモノを見つけることが出来るかい?”


とムージ師。


このとき貴秋が 「観ているモノ」 だと思っていた その 「観ている」 は、今思うと 師の指し示す 「観ている」 とは少しずれていたのですが、ただ 観ている者 = 在る だということは、師の他の動画ですでに知識として得ています。

「在る」 はすでに自分の中に実感がありますから、そこに意識をフォーカス。

これまでは 捉えどころがないものだと決めつけて ハナから観察しようなんて思ってもいませんでしたから、こんなふうにしげしげと探りを入れるのは初めてのことです。




ない、何もない。

いや、「在る」 はたしかにあるんですが・・・・・って、言葉にするとわけがわからないですね

「在る」 、その存在はたしかに感じます。

ただ、それには ここからここまでというような境界がいっさいない。

決まった位置や場所もない。

形、色、大きさ、重さといった質感量感もいっさいない。

ただ 「在る」 と感じとれるだけ。

五感で捉えられるようなものじゃない。

動画の女性が言うように、「それはただのそれ」 とでもいうしかありません。

言葉の及ばない世界とは、まさにこういうものなのですね。




師の問いかけは、まだ続きます。