動画 「ムージ、DirectSeeing [後編] 目覚めの瞬間」 でのムージ師の次なる問いは、
“それは何?
それは見られることが出来る?”
うーん、「何?」 と言われても。。。。。見られるのは・・・・ムリです、見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも触れることもできるようなものじゃない。
問われた女性も、
“いいえ。。。それは、見る
でも、それ自体は見られることは出来ない”
ここで師が返す
“ ‘見ている, はある。
しかし、そこには ‘見るモノ, が位置している定点はない、そうじゃないか?”
という表現は 言い得て妙というか すごく的確だと感心させられました。
と ここで、
“最後だ。あなたは、この全ての中の、どこにいる?
あなたは誰?”
女性 “私は、まさにここにいる”
ムージ師 “うん。何として?”
この後 この女性に何が起きたかは、どうぞ動画をご覧ください。
言葉ではとても語り切れそうにありません。
貴秋には、女性と同じようなことは起こりませんでした。
この問いかけの答えとなる情報を 師の他の動画ですでに知ってしまっていたため、「ああ あれか」 とマインドが先に動いてしまい、全身に落とし込むチャンスを逃してしまったのでしょう。
が、この動画を見、さらに師の導きに連なったことには 大きな意味がありました。
これまでずっと悩みの種にしてきた 怒りだの不安だの恐れだのという現象はあっても、その主たる 「私」 はいないのだということを はっきり体感できたこと。
そして、漠然としていた “在る” に ありありとした手応えを持てるようになったこと。
それまで 主従交代の感覚は、どれほど真に迫っていようとも 意識の中のものに過ぎませんでした。
それがここへ来て ぐっと現実味を帯びてきたのです。
小我が主体の座を真我に明け渡すということは、意図してできるものではなく、形あるものと思っていた小我に実体がないと知り、同時に 実感を持てずにいた真我の存在をありありと感じるという意識の変化をもって おのずと起きてくるものらしい。
それにしても氣になるのは、主がいないのに勝手に上がってくる感情や思考です。
まるで 「不思議の国のアリス」 のチェシャ猫が消えた後に残るニヤニヤ笑いみたい。
どうしてそんなことが起きるのでしょう?
観察していると、これらは主の有無などおかまいなしで いきなり勝手に現れるようです。
こちらから見えないところに 自動反応装置でもあるかのよう。
こうなると、この “ネガ感情 ・ ネガ思考自動製造機” をどうにかしてストップさせたい氣持ちに ついつい駆られます。
なにせ こういう感情や思考に 半世紀に渡って悩まされ続けてきたんだもの。
しかし、ムージ師は言われます、「セルフ (真我) に留まってください」 と。
とてもわかりやすい例え話を用いて このように話しておられます。
感情も思考も記憶も また名前や形や個性も ことごとく現れては消えてゆくもの、過ぎ去るものは ほんとうのあなたではないのだ、と。
“変わらないものに、意識を向けてください
そして、徐々に、変わらないものだけが、そこにあります
変わるものでさえ、変わらないものになります”
“これが、賢者の極意です
それは、上手く機能します
思考を取り上げ続けないでください
ただ、“ここ” にいてください”
そう、ここでまた 「自分を悩ませるものを一掃したい」 という方向にのめりこんでいたら、これまでと同じ堂々巡りの罠にはまっていたのです。
自分がこれまでどのようなことを繰り返していたのか、ムージ師の智恵の言葉に新たな角度をつけ 合わせ技でいっそうわかりやすくはっきり示してくれる新しい手がかりと、このタイミングで出会うことになりました。