前の記事に書いたように 内観してほんとうの自分でないものを手放していく道筋では 思い込みが消えたと思ってもまた戻ってくるということがたびたび起こりますが、このような繰り返しは 取り入れた仮説がほんものかどうかを確かめるときにも起こります。
ほんとうかほんとうでないか、正しいのか正しくないのか、迷いながら繰り返すこのプロセスというのは ふるいにかけることでもあるんですね。
何度ふるいにかけても消えずに残るものだけが ほんものであると。
ということは、自分を苦しめるものや納得いかないものが残っているとき これ以上はムリだと簡単にあきらめてはいけないということでもあり、そのときふるいにかけられているのは自分自身であるともいえます。
音を上げてあきらめてしまうようなら、その願いはほんものでないか、あるいは時期がきていないということだから、いまはまだ真の自分の道をゆくにはふさわしくないと。
そしてこのふるいの繰り返しに耐え抜いて残ったものには それだけの強度が備わるということでもあります。
だからこそ これだと思うものを確かにつかんだ実感は 理屈でないところではっきりわかるし、それが内なる自信につながりもする。
そもそも追求する値打ちのないことであれば、ある程度繰り返したところで なんとなくそれと感じられて 自然と意欲が落ちてゆきます。
以前からたびたび書いていますが、いのちの営みというのは なにかにつけて それ相応の時間がかかるものです。
私たちの人生には 本来の自分 (真我 ・ ワンネス ・ 神などと呼ばれる存在) でないものとしてこの世に生まれ出てから 真の自分にかえってゆくという壮大な行き来を筆頭に、この 「行って かえる」 というパターンがしばしば現れますが、ときには完全に止まってしまったかと思われるほどのこの歩みは つくづくはがゆくじれったく、氣落ちしたり自信を失ったりすることもしょっちゅう。
ここでこの 「生の営みの確かな一環だからこそ それなりに時間がかかるのだ」 「行きつ戻りつもまた人生の大事なプロセスであり 想定範囲内のことだ」 ということがわかっているだけで、かなり氣の持ちようが違ってくるのではと思います。
そして 何度引き戻されてもどれだけじれったくてもあきらめ切れない思いがあるのなら、その思いにまっすぐ従って吉だということ。
さらにもうひとつ言えば、同じところを行き来しているように見えて、実はわずかずつでも進んでいるのです。
何度引き戻されようと再度挑戦する氣概は 「あきらめない」 という宣言として宇宙に届き、そのたびごとにひとつコマを進めて 新しい立ち位置からスタートを切ることになります。
あきらめない思いを重ねるたびに、私たちは少しずつ強くなり 確実に成長しているのです。
樹木や草花をじっと眺めていても 目に見える変化はまず認められませんが、それでも芽を出し 葉を広げ 花を咲かせ 実を結ぶという変化は確実に起こります。
私たちの人生の歩みも 同じようなもの。
あまりのはがゆさじれったさに地団太踏もうと逆上しようと、それはあきらめていないからこそ湧き起こる感情なのですね。
ときに怒っても泣いてもいい、それをマイナスと捉えることもないのです。
この世界で決して変化しないのは 「あらゆるものが変化する」 という法則だけ、自分がこれと思うものをあきらめずに進んでゆく限り、私たちは確実に望みを叶える方向に向かっているのです。