毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

あきらめないという思い

2018年04月12日 16時59分59秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の記事に書いたように 内観してほんとうの自分でないものを手放していく道筋では 思い込みが消えたと思ってもまた戻ってくるということがたびたび起こりますが、このような繰り返しは 取り入れた仮説がほんものかどうかを確かめるときにも起こります。

ほんとうかほんとうでないか、正しいのか正しくないのか、迷いながら繰り返すこのプロセスというのは ふるいにかけることでもあるんですね。

何度ふるいにかけても消えずに残るものだけが ほんものであると。

ということは、自分を苦しめるものや納得いかないものが残っているとき これ以上はムリだと簡単にあきらめてはいけないということでもあり、そのときふるいにかけられているのは自分自身であるともいえます。

音を上げてあきらめてしまうようなら、その願いはほんものでないか、あるいは時期がきていないということだから、いまはまだ真の自分の道をゆくにはふさわしくないと。

そしてこのふるいの繰り返しに耐え抜いて残ったものには それだけの強度が備わるということでもあります。

だからこそ これだと思うものを確かにつかんだ実感は 理屈でないところではっきりわかるし、それが内なる自信につながりもする。

そもそも追求する値打ちのないことであれば、ある程度繰り返したところで なんとなくそれと感じられて 自然と意欲が落ちてゆきます。




以前からたびたび書いていますが、いのちの営みというのは なにかにつけて それ相応の時間がかかるものです。

私たちの人生には 本来の自分 (真我 ・ ワンネス ・ 神などと呼ばれる存在) でないものとしてこの世に生まれ出てから 真の自分にかえってゆくという壮大な行き来を筆頭に、この 「行って かえる」 というパターンがしばしば現れますが、ときには完全に止まってしまったかと思われるほどのこの歩みは つくづくはがゆくじれったく、氣落ちしたり自信を失ったりすることもしょっちゅう。

ここでこの 「生の営みの確かな一環だからこそ それなりに時間がかかるのだ」 「行きつ戻りつもまた人生の大事なプロセスであり 想定範囲内のことだ」 ということがわかっているだけで、かなり氣の持ちようが違ってくるのではと思います。

そして 何度引き戻されてもどれだけじれったくてもあきらめ切れない思いがあるのなら、その思いにまっすぐ従って吉だということ。




さらにもうひとつ言えば、同じところを行き来しているように見えて、実はわずかずつでも進んでいるのです。

何度引き戻されようと再度挑戦する氣概は 「あきらめない」 という宣言として宇宙に届き、そのたびごとにひとつコマを進めて 新しい立ち位置からスタートを切ることになります。

あきらめない思いを重ねるたびに、私たちは少しずつ強くなり 確実に成長しているのです。




樹木や草花をじっと眺めていても 目に見える変化はまず認められませんが、それでも芽を出し 葉を広げ 花を咲かせ 実を結ぶという変化は確実に起こります。

私たちの人生の歩みも 同じようなもの。

あまりのはがゆさじれったさに地団太踏もうと逆上しようと、それはあきらめていないからこそ湧き起こる感情なのですね。

ときに怒っても泣いてもいい、それをマイナスと捉えることもないのです。

この世界で決して変化しないのは 「あらゆるものが変化する」 という法則だけ、自分がこれと思うものをあきらめずに進んでゆく限り、私たちは確実に望みを叶える方向に向かっているのです。




















「ネガ」 とは 「根賀 = 根が賀ぶ (よろこぶ) 」 でもあるんだね

2018年04月12日 10時19分56秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


最近 「グラウンディング」 という言葉をちょくちょく見聞きします。

エネルギーワーク関係で使われることが多いようですが、もとの英単語 「Grounding」 には接地という意味があり、そこからスピリチュアル的に 「地に足をつけて生きる、現実社会に根ざして生きる」 ことを指すようです。

この 「グラウンディング = 地に足つけて」 という言い回しから即座に思い浮かぶのは、「ネガ」 。

そう、否定的な事象や感情を意味する 「ネガティブ」 の 「ネガ」 です。

貴秋にとって 「地に足つけて生きる」 ことと 「ネガ」 とは 切っても切り離せない関係なのです (^^)




そもそもそんな見方をするようになったきっかけは 旧ブログの 「ネガが教えてくれたこと」 に書いていますが、このときのワークでもっぱらネガティブな感情の役を演じてくれた女性からの ネガ感情になりきってのメッセージは ずっと心に残っています。

彼女を仲立ちにネガが伝えてきたこと、それは 「ネガこそが 人の内側で根を張り 地に足つけて生きられるようにする役割を担っているんだよ」 っていうこと。

あのときは このメッセージが直感的にとても納得できたのですが、そこに12年分の体験の裏打ちが加わった今は 納得の重みも厚みも違います。




三次元世界の視点しか持たなかった昔、ネガティブな感情や出来事は ネガ自身が嘆いていたように 疎ましいものでしかありませんでした。

だからこそ なんとか抜け出そうとがんばったわけですが、何度手放してもまた引き戻される繰り返しに どれほど自分を疑ったかしれません。

しかし実は、その繰り返しこそが 見えない根っこを大きく丈夫に育ててくれていたのです。

樹木の年輪は 春から夏にかけての成長が早く柔らかい部分と 夏から秋冬にかけての成長が遅く硬い部分が交互に現れることででき、この年輪の詰まっているもの、すなわち硬くて密度の高い部分が多く含まれるものが丈夫な木材になると聞いたことがあります。

また、筋肉や骨も適度な負荷をかけることで強くなるといわれていますね。

人の心もそれらと同じで、厳しい環境におかれたり 重荷を負わされたりするときほど鍛えられて強くなるようです。




生れ落ちたときからずっと創造主そのものの意識を保っていられれば どれほど楽でたやすい人生だったかしれませんが、それではわざわざこの三次元世界にやってきた意味がなくなってしまいます。

私たちはともすれば 無難に速く進むことに値打ちがあるかのように思いがちですが、この五感の世界では 速く進むことではなく より多くを体験することに値打ちがあるのです。

進んだり止まったり ときには逸れたり引き戻されたりしながら 忘れていたことを思い出し 少しずつ本来の自分に戻ってゆく、そのプロセスこそ この不自由な世界にやってきたなによりの目的であり 最高の戦利品なのです。

ある地点から別の地点へ 迷いなくまっすぐ進むのが最短距離なら、戻ったり迷ったり外れたりをさんざん繰り返した道のりは その何倍か、何十倍か。

その増えた道のりこそが宝であり 見えない世界に生い茂る根っこなのです。




幾多の失敗から身についた知恵や力は、この不自由で不完全な世界での歩みを強力にサポートしてくれます。

「こうしておればうまくいったんだ」 「これは次からはしないほうがいいな」 という数々の学びは この先どれほど失敗してもきっと切り抜けられるという自信を生み、またすべてが過不足ない最高のタイミングで起きているという氣づきは ひとりぼっちの歩みのようで 実は大きな力に守られているのだという不思議な安心感をもたらします。

たくさん失敗してたくさん学び氣づくほど、次の一歩を自信を持って踏み出せるようになるのです。




貴秋は簡単なグラウンディングのワークも好きで、地球の中心とつながっているとイメージすると なんともいい氣分になれますが、一方で 地に足ついた日々の暮らしで ネガから学んだり氣づいたりすることこそが 見えない根っこをしっかり張り巡らせ エネルギーをたっぷり吸い上げて生きる力となってくれる もっとも確かなグラウンディングなんだろうなぁとも思うのです。




先に引用した過去記事のコメント欄で 心友cocoちゃん (当時はふじの3339さん) が 「ネガって入れて変換したら根賀になっちゃった・・・笑 根が喜ぶって感じでイイかなぁ~♪」 って書き込んでくれたんだけど、すごいひらめきというか先見の明というか、ネガとはまさに根賀だったんだなぁと改めてしみじみ思うきょうこのごろです(*^^*)