毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

「嘘つきの悪夢」 を終らせる

2018年04月15日 13時12分10秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


このところ政治の世界では 公文書改ざんだの口裏合わせだのと連日騒ぎになっているようですが、安倍さんであれ他のどなたであれ、またおっしゃっていることがほんとうにせよ嘘にせよ、「外の世界で起きていることは 自身の思いが創り出している」 と見るなら、真実を認めるべき相手は 他ならぬ自分自身なのではないでしょうか。

「行って かえる」 の 「行き」 の道のりがほんとうの自分でないものを体験する道なら、「かえり」 は 積み重ねてきたほんとうでないものをひとつずつ取り去って ほんとうの自分に戻る道であり、いまはちょうどその 「かえり」 に当たる時期なのです。

だから、他者に対しても自分に対しても 真実や本音を伝えるほうが万事がすんなり運ぶし、その逆をいけばどんどん進みにくくなってゆきます。

国会前のデモは日ごとに人数を増しているそうで 昔の貴秋なら飛んでいって仲間入りしていたかもしれませんが、いまは 目に映る光景すべてが自分の内側の投影であり、その中の誰かに叩きつけたくなる怒りは 実は自分の認めたくない部分に対して怒っているのだとわかっているので、外の世界で動く代わりに そんな怒りやその奥の痛みを感じることに専念します。




そもそも人はなんで嘘をつくのかといえば、最初は必要に迫られてであり、その後はその刷り込まれた行動パターンにのっとってということになるのではないでしょうか。

貴秋の母親は 自身の “正義の物差し” から外れたわが子の言動に極めて厳しい人でしたから、母の意に背くことをしたかったりしてしまったときは とにかく全力で嘘をついて隠さなければなりませんでした。

そのため 成人してたいがい経ってからでも重度の嘘つきである自分を自覚しており 後ろめたくも思っていましたが、これとは少し違うパターンがあることに氣づいたのは ここ一年ほどのこと。




以前も書きましたが、4歳前後ぐらいだったか 野に咲く花と栽培されている花の区別がつかなかった幼い貴秋は、畑の菜の花を手折って持ち帰り 母にこっぴどく叱られたあげく お百姓さんに謝りにつれてゆくと脅されて 身の縮むような恐怖を味わったことがあります。

おそらく似たようなことがほかにもあったのでしょう、これらの体験は 貴秋の意識の奥に 「そんなつもりではなかったことが いつの間にか他者に迷惑をかける事態になり代わり、自身もいつの間にか嘘つきや悪者になっていて まわりから責められ 心苦しい思いを味わう」 という悪夢のような記憶を刻みつけ、それがまさにそのような体験を生み出す鋳型を生んで 類似のパターンを繰り返し引き起こし、さらにそこから「自分を信じられない、自分は悪くて卑怯なヤツだ」 「世の中もまわりの人も恐ろしい」 などという氣持ちが育って、半世紀にもわたって貴秋を苦しめていたのです。



これに氣づいたのは 奈良にいるここ2年余りの内に引き起こしたある出来事のおかげなのですが、それはまさにこのパターンを踏襲したもので、ただ今回大きく違っていたのは これがその鋳型の存在に氣づかせるために 真我がわざとそう仕向けて起こさせたものだとわかったことです。

五感の世界的にはただもう平謝りするしかないネガティブな状況、一方五感を超えた視点から見れば これまでずっと貴秋を脅かし自信を失わせていた観念を明るみに出して向き合わせるための救済措置。

この二つの視点を行き来しながら事に臨むというのは、あの映画 「インセプション」 で コブたちが 夢と知りながらターゲットの意識に潜り込んで自由に動き回り 観念の書き換えを行なうことができたのと同じように、恐怖や恥や罪悪感 ・ 被害者意識 (こんなことになってしまって 私にはどうすることもできない) などに絡め取られ 身動きできないまま終ることなく、意図的に自身の意識を書き換えて 負のパターンから抜け出すチャンスを手にしていることを意味します。

で、外の世界で事を収めようと必死になる代わりに その状況下で湧き起こる感情に氣づき おおもとの感覚にひたすら向き合い解放し続けた結果どうなったかといえば、恐れていたような手ひどい非難にさらされることはまったくないまま 事態が収束に向けて動き出したのです。

この体験から新たに刻み込まれたのは、世界や人々が恐ろしく見えたのは 母との原体験から生まれた誤解であり、ほんとうはもっともっと寛大で暖かいものだったんだ、という思い。

「 “いつのまにか” の悪夢」 をこれ以上創造し続けることも、当時のような自己不信に陥ることも、今後はもうないでしょう。




わが身を守るために嘘をつくというのは、大なり小なり多くの人が経験すること。

その経験自体にいいも悪いもなく このコントラストの世界で望んで起こしただけのことですが、いまのこの 「かえる」 道のりでのそれは 辛く苦しいことも多いはず。

悪夢を終らせ 本来の愛そのものの自分に返るためには、この五感の世界が体験の場だと氣づいて 逃げることなく自身の痛みと向き合うこと、まずはそれだけで十分なようです (^^)