毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

「意識が変わると世界が変わる」 は単純な事実

2019年10月18日 09時31分20秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


人の本質は意識体だと思い それに沿う形であらゆることを認識し考えるようになってから、見える世界が変わりました。




目の前に3メートル四方ぐらいの大きな絵があって、それに鼻をくっつけんばかりの位置に立っているとします。

視界に入ってくるのはその絵だけ、しかも近過ぎてなにが描いてある絵なのかもわかりません。

からだやマインド = 私 だと思い込んでいたころの世界観ってこんな感じだったのかなと思います。

目の前に見える世界がすべてで それ以外なんてない、ということが当然過ぎて疑問の余地もなかったし、どんなこともその見える世界の範囲内でしか考えることができませんでした。

しかも 見えているつもりのものも 実は部分的 ・ 近視眼的にしか見えていなかったのですから、正しい判断が下せないのも無理なからぬことだったのです。




自分を意識体として捉えるようになってしばらく経ったあるとき、これまですべてだと思い込んでいた世界を 一枚の絵 (ほんとうは絵というよりもう少し立体感があるイメージですが、ここではわかりやすく絵とします) として少し離れたところから眺めている自分にふと氣がつきました。

つまり絵のまわり、絵以外の世界が見えてきたのです。

絵の中の世界はもっと広大な世界の一部でしかないとわかり、しかも描かれている全体像が一目で見渡せるようになったことで、それまでは自分を取り巻き ときに圧迫してくる強大な存在で、いくらどうにかしようとがんばったところでびくともしない壁のように思えていたものが、実は手にとっていくらでも造り替えられるものだったんだと思えるようになりました。

自分が体験者であると同時に創造者でもあることに 得心がいったのです。




意識が変ると世界の見え方が変り、そんな世界とどう向き合いどう行動するかも変ってきます。

マインドでぐるぐる考えあぐねているときには見えなかった突破口が、自然と見えてきます。

意識を変える、すなわち本来の自分の思いでないものを手放し続けていくだけで、見えるものがおのずと変り、出口の無かったところに出口が出現します。




以前 「『する』 ことと 『起きてくる』 こと」 という記事で みずから「する」 ことだと思っていたものの多くが実はおのずと 「起きてくる」 ことだったと書きましたが、いまや意識の世界に関する限り 進んですることはほんとうの自分でないものに氣づいて手放すことぐらいで、それ以外のことはすべてといっていいぐらい 手放しの結果として起きてくることだったんだと思えます。

「意識が変る (意識を変える) と世界が変る」 はおおげさでもなんでもなく 単純な事実そのものだったんですね。