こんな記事が目に留まりました。
茂木健一郎氏が持論 「沢尻さん糾弾しても仕方ない」
テレビを持たない暮らしが長く 俳優さんタレントさんの情報や芸能界の仕組みに疎いので、大河降板云々というあたりのことはよくわかりませんが、この記事からふと思ったのは、「そもそも 『罪』 や 『罰』 っていったいなに?」 ということ。
「因果応報」 という言葉を、貴秋は 「播いたものが実る」 「エネルギー保存の法則」 というように 単に自分の発したものが返ってくるという感覚で捉えていますが、ここに善悪の観念を加えると仏教用語的な意味になるのかなと思います。
そしてその善悪の線引きを人為的に決めたものが 法律なんですね。
人が人を一方的に罰しうるとする根拠がこの法律なわけですが、法律を作ったのもまた人。
ある弁護士さんが 「法律の根底にあるのは人間不信」 というようなことを書いておられるのを読んだことがありますが、「これこれこういうことをした者はこのように罰する」 という決め事は そもそも 「これこれこういうことをする輩がきっといるに違いない」 という不信の念から生まれたものだ、というような話だったと記憶しています。
そこにはまず 「そんなことをされたら困る人が大勢いる、社会がメチャメチャになる」 という防衛の氣持ちがあったのでしょうが、さらにその奥には 「そんな皆が困るようなことをする人間をなくすにはどうすればいいのかがわからない」 という恐れや無力感が潜んでいるように感じます。
といって 手をこまねいたままでは自分たちの身が危うくなりかねないから、とりあえず抑止力となりうるものを設けた。
貴秋は現行の法律に そんな応急処置的な印象を受けます。
前の記事に 「一方的な上から目線のお説教は その意図と真逆の効果しか生まない」 と書きましたが、法的罰則はある意味もっとも強力な押さえつけともとれます。
身から出たサビとはいえ、本人の意向に関りなく拘束 ・ 監禁、場合によっては命さえ奪うことができるのですから。
ではそこまで厳しく臨んだだけの効き目があるかといえば、犯罪が著しく減ったとはとてもいえないどころか、むしろ凶悪化 ・ 低年齢化は進む一方。
とりあえずないよりはいいとしても、それがあるから安全安心とはとてもいえそうにありません。
冒頭の記事の中で、茂木さんの 「刑事罰を加えるよりも、いかに依存症から立ち直るのを助けるかという公衆衛生的なアプローチがふさわしい」 という意見が紹介されていましたが、貴秋もいまの時代は 安全平和に向けての努力が 「起きてしまった犯罪に厳罰を与えて抑止力とする」 から 「そもそも犯罪が起きないような社会にする」 に本氣で移行する時期にきているのではないかと思います。
「死刑になっても構わない」 とまで思いつめて無差別に人を殺めるような事件が次から次へと起こる現在、これ以上応急処置だけで乗り切ろうとするのは無理があるでしょう。
茂木さんは 今回の問題の本質は麻薬に手を染めてしまった個人よりも もっと大きな麻薬の流通や意図して一般市民を誘い込もうとする組織のほうにあるはずと指摘しておられますが、貴秋は 得るより失うほうがはるかに大きいとわかっていてなお 踏み込まないほうがいいゾーンについつい踏み込んでしまう人の心のありように関心が向きます。
沢尻さんは有名な女優さんで 大きなお仕事も決まっていたのに、このままではまずい危ないとわかっていながらドラッグをやめられなかったようですが、いったいどんな力がここまで自身の不利益になるほうへと人を引きずり込むのか。
これも前回の記事で 「いのちを削ぐばかりの枠組み」 という言葉を使いましたが、貴秋は この枠組みが私たちのエネルギーをとことん奪い取り 人々がエネルギー不足に陥っていることが真因と見ています。
次回はこの枠組みについて書いてみたいと思います。