毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

あらゆる問題の根底に潜む お金 ・ 時間 ・ 法律にまつわる催眠を解く ~ その2

2019年11月22日 10時20分17秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


このところ 「競う」 ということへの違和感が募る一方です。

スポーツの試合、芸術系のコンクール、学校の成績、企業の売り上げから あらゆる分野で見かける種々さまざまな 「○○ランキング」 まで、あっちを向いてもこっちを向いても競争と順位付けばかり。

まあ線引きあるところには違いが生じ、違いを見ればついつい比較せずにいられないのが人間のサガ。。。。といってしまえばそれまでなのですが、ここしばらくはなぜかそのひとつひとつが妙に引っかかって仕方がない。

と 数日前不意にひらめいたのです。


   “あらゆる分野に競争と順位付けを持ち込むのは、優遇される一握りの勝者と 並みかそれ以下の扱いしか受けない多くの敗者に分かれることが ごく自然で当たり前なことだと思い込ませるため”




競うことがすべて悪いとは思いません。

競争から生じるスリルや高揚感を味わうのは楽しみのひとつだし、ライバルがいることで伸びる才能もある。

貴秋が引っかかるのは、そのような楽しみ事としての競争を越えて 日常の至るところで望む望まざるに関らず競わされランク付けされることで、絶え間ない緊張にさらされ続けた心が バランスを崩し歪んでしまうことです。




本来地球上には 私たちすべての生を支えるものが みなに行き渡るだけ十分あるはずなのに、ごく少数の人の独占がまかり通っていることで、多くの人が 生きるのに必要なものを対価を払って買い取らねばならないと思い込まされています。

生きるためには、まず働いてお金を手に入れなければならない。

これと 「大好きなことをやり続けたい」 という氣持ちを両立させようとすると、必然的にその大好きなことを職業にする道を目指すことになりますが、これが極度に狭き門。

「一将成って万骨枯る」 の言葉通り、多くの人の望みは叶わない仕組みになっているのです。

そんなことが何百年も続くうち 私たちはそれが自然なありようだと思い込むようになり、ほどほどの幸せで満足するようになって、創造主としての輝きを忘れました。

もっとのびのびとしたいことだけをして日々を楽しみ暮らし 愛情深く生きてゆけるのはずなのに、そんなことはおとぎ話でしかないと思い込むようになってしまったのです。

出し抜けに 「幸せですか?」 と聞かれて、瞬時に 「幸せです!」 と胸を張り瞳を輝かせて答えられる人がどれほどいるでしょう。

ちょっと考えて 「。。。。まあ幸せかな」 とか、「そうね。。。。家族も健康だし家も仕事もあるし」 などと答える人が大半なのではないかしら。

幸せになるには条件がある、そしてその条件を満たすために まず働いてお金を得なければならない、そう思い込んでいる人たちが 富を独占する側の人たちの下でせっせと働いて彼らを支えている、これがいまの世の仕組みです。

権力者を支える人がいなくなれば 彼らは過剰な富を持ち続けることはできないのですが、そのことに氣づかないよう条件付けられているので、支えられているのは自分たちのほうで 仕事をもらえなくなったら生きていけなくなると思い込み、少しでも高い評価を得られるよう 見放されることのないよう心を砕くほうにエネルギーを注ぎ込みます。

そんな現状に怒りを覚える人たちもいますが、意識の奥深くが催眠にかかったままいくら怒っても なんの解決にもならないことは、歴史が証明しています。

香港のように怒れる民衆が暴徒と化す、またはその寸前で一触即発、そんな極度に不安定な地域が世界中にあるようですが、催眠状態でどれほど暴れようと破壊しようと 残念ながら権力者そのものを変えることも動かすこともできない、それが現実です。




催眠が解けると、怒りがまったくなくなるわけではありませんが、その怒りは破壊的衝動ではなく 建設的な解決に向かいます。

前にも書きましたが、引きの視点を取り戻すので ことの全体を見渡してからくりを正確に見てとれるようになり、どう対応すればいいかがわかります。

また 真の自分に目覚めると 必然的に意識がワンネスに向かうようで、他者との連携もずっと容易になるでしょう。

目覚めた意識についてはまたの機会にということにして、次は “一将” のほうを見てみたいと思います。