毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

あらゆる問題の根底に潜む お金 ・ 時間 ・ 法律にまつわる催眠を解く ~ その9

2019年12月30日 12時26分30秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見

個の私たちは手の指のように別々に分かれていても、意識の奥底は手のひらと同じくひと続きであるといわれています。

顕在意識では別々の部分しか捉えられませんが、潜在意識の曇りがとれて通りがよくなると おのずとひと続きであるほうについても思い出されてくるものらしい。

貴秋が 「意識の共有」 に初めて目を開かれたのは 庭仕事のさなか 植物と通じ合っているらしいと氣づいたときですが、意識の共有というものは 私たちが自覚しているよりはるかに頻繁に起こっているようです。




年末の大片づけで長年物置部屋と化していた六畳間を整理していたら、両親が幼かった孫のほーちゃんのために作ったダンボールハウスだのおもちゃ箱だの手押し車だのの数々がどかっと出てきました。

その凝った造りたるや目尻を下げた爺バカぶり婆バカぶりが偲ばれ (解体に苦戦しつつも) 涙ぐましいほどでしたが、おそらく製作中の二人は手間も労苦もなんのその、ただただ孫の喜ぶ姿しか念頭になかったのでしょう。

いざ完成品を披露して 二歳三歳の子が見事な出来栄えや細かな工夫に目もくれずともそんなことはどうでもいい、ありがとうのひと言すらなくても ただ夢中で遊ぶ姿を見るだけで十分心満たされたはず。

貴秋は同じような満足を庭のサザンカの剪定をしているときに感じると同時に氣づいたのですが、このようになんの見返りも求めない行動でただ満たされているとき、私たちはどうやら 相手の喜びを自身の感覚として共に味わっているようなのです。

「人の喜びをわが事とする」 とはとても崇高なことのように言われますが、ことさら高潔にとか徳高くとか努力せずとも 互いにありのままの素直な自分として存在し動くとき、私たちの意識はおのずと手のひら、すなわち大きなひとつである領域に焦点が移って 「してあげた」 者と 「してもらった」 者の垣根がとれ、両者の意識がひとつになって 深い喜びの巡りが起こるようです。

自分がしたことを無心に喜んでくれる子や孫やペットなどの姿に目を細めたことのある人なら、思い当たるものがあるのではないでしょうか。




ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 に 「あなたのところへやってくるひとはみんな、贈り物を受け取りにくるのだ。それによって、相手はあなたに贈り物をする」 という一節があります。

以前の貴秋は 相手を自分とはまったくの別ものと見て 「してあげた」 氣でいたので、相手からお礼やほめ言葉などの反応が返ってきて初めて報われたと感じていました。

が 意識の共有に氣づくと、自分がしたことで相手が感じるいい氣分をそっくりこちらも感じられるし、さらに 「自分のしたことをこんなに喜んでくれるものがある」 という手応えも加わって、与えると同時に受け取る喜びがいかに大きいかがわかります。

贈り物を 「する」 と 「受け取る」 は一つ事、そしてこれをしてもらった側から見ると 自分にしてくれたことで相手も無上の喜びを得ているのですから、氣がねもお返しも罪悪感もいっさいなしに ただ心から喜んで受け取る、それだけで十分なのです。

私たちは幼い頃より 「人からされたことに感謝の氣持ちを持たなくてはいけない、お返しをしなくてはいけない」 と教わりますが、これは個の分離した意識が言わせること。

指と手のひらを自在に行き来できる自由な心があれば 他人行儀なお礼や氣遣いなど不要で、ただ思いのままにしたいことをして 贈り物は素直に喜んで受け取る、それだけで意識の世界にも豊かな巡りが生まれます。




私たちの世界は循環で成り立っているとお話ししましたが 意識の世界も同様で、私たちの心から余計なわだかまりがなくなるほどに ギスギストゲトゲした感情のぶつかり合いが消え、喜びを潤滑油に滑らかに巡ってゆくようです。

やりたいことをやり 作りたいものを作り その成果を喜んで受け取ってくれる相手がある、彗星捜索家で臨死体験者の木内鶴彦さんは これからの世界のこのようなありようを “一品持ち寄り” と表現しておられますが、私たちの潜在意識に刷り込まれた多くの 「~ねばならない」 を手放して 人本来の姿に戻ってゆくほどに、お金や時間や法の縛り抜きで 誰もが氣兼ねなくしたいことをして豊かに生きてゆける世界というものがおのずと実現していくのだと思います。