久々に 映画 「インセプション」 のせりふをタイトルにしてみました。
まずサイトーからコブへ、そして物語の終盤でコブからサイトーへ、と二度登場するこのせりふ、とても意味深いのですが、今回信じて跳ぶかどうかを問われているのは、コブでもサイトーでもなく、私たち自身です。
以前 彗星捜索家で臨死体験者の木内鶴彦氏の講演を聞いたとき、氏は言われました。
「僕も科学者の端くれなので、自分の体験が証明できるものでないことは よくわかっています。ですから これをお聞きになられた皆さんも、信じる信じないはご自由になさってくださいね」
なるほどそりゃそうだ、突然の臨死体験に 一緒に心停止して三途の川の手前まで同行し、かつ動かぬ証拠を手に入れて蘇生してくれる証明者なんているわけがないもの。
五感がすべての世界における私たちは、論理的に誰もが納得できるよう証明された物事だけを信じるよう慣らされています。
証拠はあるのか? 証明できるのか? 第三者が同じように試しても 必ず同じ結果が出ると皆が認める話なのか?
しかし、証明とは言葉や数字や記号を用いて初めて成り立つものですから、五感を超えて 言葉が及ばず形も質量も境界線もない領域には 到底当てはまりません。
にも関わらず この領域への関心か高まるばかりなのは、スピリチュアル、パラレルワールドなどの言葉が市民権を得て定着していることからもわかります。
余談ですが、先日IOC のどなたかが 「コロナと五輪はパラレルワールドのようなもの」 とかおっしゃってひんしゅくを買ったという話、貴秋は 「いまやこんなところでまで “パラレルワールド” なんて言葉が使われるようになったのか」 と本題と関係ないところで感動してしまいました。
・・・とまあこんなふうに 五感で確かめようもない世界が人々の意識にどんどん浸透していっているのは、やはりいまが分離から統合へと向かう流れにあるせいかと思います。
が、ここで私たちは 矛盾と混乱に出くわすことになります。
心のどこかで 理屈を超えた世界に親しみや魅力を覚えながらも、私たちの頭は いつもながらに手応えある確証を欲しがります。
でも、言葉や形を超えた世界を言葉や形で証明するのは不可能。
そこで私たちは、「信じて跳ぶかどうか」 の決断を迫られるわけですね。
では、そこで証明や証拠に代わって信頼するに足るものはなにか。
答えは 「自分」 。
自分の感性、自分の感情、自分のからだの感覚こそが、これからの時代、もっとも確かな指針 ・ バロメーターへと成り代わっていきます。
他のなによりも自身の内を頼みにできる、それが 自分軸の生き方というもの。
そこまでの信頼を自分に置くために せひ必要なのが、バグを手放すことなのです。
以前からの繰り返しになりますが、貴秋言うところの “バグ” とは、脳が未完で言葉がおぼつかない乳児期幼児期に、周囲の大人たちと意識を重ねることで 自然と入り込んでしまった、他者の否定的な観念や価値観のこと。
この時期は まだ理論脳が発達しておらず すべての情報を無条件に取り込んでしまうため、バグは意識の深い部分に定着し、知らず知らずのうちに 私たちの生き方に影響を及ぼすことになります。
精一杯努力しているのに なぜかいつも裏腹な結果に終ってしまう、したいことがあっても 自分には無理だと思い込み早々に諦めてしまう、こういうときは まず氣づいてないバグが潜んでいると思って間違いありません。
またしてもうまくいかなかった、自分は無力だ、などと感じたときの心の痛みこそが、バグの存在を示す目印です。
そんなときは 言葉や理屈を脇に置き、からだに響くその痛みをただ受け止め感じることで、バグを解除することができます。
誤情報が減れば減るほど、ほんとうの自分が表に出てきます。
真の望みを知っている自分、それを叶えられると理屈ではないところでわかっている自分、自身の直観を全面的に信頼できる自分。
そのとき、身の内から湧く 「信じて跳べばいい」 という声に ためらいなく応じる心地よさを、どなたもきっと味わわれることでしょう。
まずサイトーからコブへ、そして物語の終盤でコブからサイトーへ、と二度登場するこのせりふ、とても意味深いのですが、今回信じて跳ぶかどうかを問われているのは、コブでもサイトーでもなく、私たち自身です。
以前 彗星捜索家で臨死体験者の木内鶴彦氏の講演を聞いたとき、氏は言われました。
「僕も科学者の端くれなので、自分の体験が証明できるものでないことは よくわかっています。ですから これをお聞きになられた皆さんも、信じる信じないはご自由になさってくださいね」
なるほどそりゃそうだ、突然の臨死体験に 一緒に心停止して三途の川の手前まで同行し、かつ動かぬ証拠を手に入れて蘇生してくれる証明者なんているわけがないもの。
五感がすべての世界における私たちは、論理的に誰もが納得できるよう証明された物事だけを信じるよう慣らされています。
証拠はあるのか? 証明できるのか? 第三者が同じように試しても 必ず同じ結果が出ると皆が認める話なのか?
しかし、証明とは言葉や数字や記号を用いて初めて成り立つものですから、五感を超えて 言葉が及ばず形も質量も境界線もない領域には 到底当てはまりません。
にも関わらず この領域への関心か高まるばかりなのは、スピリチュアル、パラレルワールドなどの言葉が市民権を得て定着していることからもわかります。
余談ですが、先日IOC のどなたかが 「コロナと五輪はパラレルワールドのようなもの」 とかおっしゃってひんしゅくを買ったという話、貴秋は 「いまやこんなところでまで “パラレルワールド” なんて言葉が使われるようになったのか」 と本題と関係ないところで感動してしまいました。
・・・とまあこんなふうに 五感で確かめようもない世界が人々の意識にどんどん浸透していっているのは、やはりいまが分離から統合へと向かう流れにあるせいかと思います。
が、ここで私たちは 矛盾と混乱に出くわすことになります。
心のどこかで 理屈を超えた世界に親しみや魅力を覚えながらも、私たちの頭は いつもながらに手応えある確証を欲しがります。
でも、言葉や形を超えた世界を言葉や形で証明するのは不可能。
そこで私たちは、「信じて跳ぶかどうか」 の決断を迫られるわけですね。
では、そこで証明や証拠に代わって信頼するに足るものはなにか。
答えは 「自分」 。
自分の感性、自分の感情、自分のからだの感覚こそが、これからの時代、もっとも確かな指針 ・ バロメーターへと成り代わっていきます。
他のなによりも自身の内を頼みにできる、それが 自分軸の生き方というもの。
そこまでの信頼を自分に置くために せひ必要なのが、バグを手放すことなのです。
以前からの繰り返しになりますが、貴秋言うところの “バグ” とは、脳が未完で言葉がおぼつかない乳児期幼児期に、周囲の大人たちと意識を重ねることで 自然と入り込んでしまった、他者の否定的な観念や価値観のこと。
この時期は まだ理論脳が発達しておらず すべての情報を無条件に取り込んでしまうため、バグは意識の深い部分に定着し、知らず知らずのうちに 私たちの生き方に影響を及ぼすことになります。
精一杯努力しているのに なぜかいつも裏腹な結果に終ってしまう、したいことがあっても 自分には無理だと思い込み早々に諦めてしまう、こういうときは まず氣づいてないバグが潜んでいると思って間違いありません。
またしてもうまくいかなかった、自分は無力だ、などと感じたときの心の痛みこそが、バグの存在を示す目印です。
そんなときは 言葉や理屈を脇に置き、からだに響くその痛みをただ受け止め感じることで、バグを解除することができます。
誤情報が減れば減るほど、ほんとうの自分が表に出てきます。
真の望みを知っている自分、それを叶えられると理屈ではないところでわかっている自分、自身の直観を全面的に信頼できる自分。
そのとき、身の内から湧く 「信じて跳べばいい」 という声に ためらいなく応じる心地よさを、どなたもきっと味わわれることでしょう。