「目に見える世界は 自身の思いの投影」 「五感で捉えているこの世界は 実は幻」 と当ブログでもさんざん書いてきましたが、じゃあほんとうにすべてが幻と見えているのかと言われれば、いえいえ 今もくっきりはっきり生々しい感触に 五感を刺激されっぱなしです ( ̄ー ̄;)ゞ
現実世界でいやな体験ばかりしていたころは さっさと悟りを開いて こんな世界とおさらばしたいと不満を募らせてばかりいましたから、リアルであることになんの値打ちも見出せませんでしたが、最近は このリアルさのありがたみをつくづく思います。
そもそも私たちは 自分自身の素晴らしさを 「体験的に」 知りたいがために わざわざこの不自由な五感の世界に生まれてきたのですから、肝心の舞台装置が裏のベニヤ板まで見通せるようなチャチなセットだったら 興醒めというもの。
なにもかもが とてもじゃないけど否定できないほどありありとリアルだからこそ、その中でさまざまな出来事に思いきりのめり込んで 泣いたり笑ったり感動したりできるのです。
ならば それほどまでにリアルな世界を 「すべて幻」 っていうのはどうよ、となりそうですが、日常空間は相変わらず真に迫るリアルさながら、その存在自体に じわじわと揺らぎが生じてきています。
リアルな暮らしの場でリアルに味わう喜怒哀楽のドラマ、しかし その感情の多くは おおもとのからだの感覚にフォーカスすれば あっけなく消えたり変化したりすることを知りました。
この1~2年で ほとんど条件反射にまで慣らした感覚フォーカス、何百回 いや ひょっとしたら何千回かもしれないその積み重ねを通じて、私たちの体験や感情の大半は からだに刻まれた古い記憶を呼び覚ましては追体験しているだけで、もしそれが好ましくないなら ドラマを紡ぐ言葉をおおもとの感覚と切り離してしまえば やがては薄れたり変わったりしてゆくものであるという認識がくっきり染み込み、この世界は 意識の持ちようひとつでいくらでも創り変えられる 実体のないものだという感覚が、世界を揺るぎない現実と捉える意識とほとんど拮抗するまでになってきたのです。
私たちが生きるこの世界は、現実であり、同時に幻である。
矛盾するこの二つの見方こそ 以前に書いた 三次元世界の内の視点と外の視点であり、二つの存在感がほぼ等しく感じられることが 内と外の自在な行き来を可能にした、ということのようです。
内の視点は この世界を生き生きと体験させてくれ、外の視点は 引きの位置に立つことで 体験を客観的に吟味し修正して よりよい生き方を選ばせ 魂の成長を促してくれる。
いずれもっと意識の変容が進めば また違う見方が出てくるのかもしれないけれど、今は この内外の自由な行き来が 自分の世界を望みどおりに変える もっとも確かな手段に思えます。
世界を変えたいなら まず自身の内から変えること、この提言を信じて追い続け 検証し続けて ほんとうにそのとおりだったとの手応えを得たことがとてもうれしく、さんざん自信を失くしたり訳がわからなくなったりしつつも あきらめずにここまで来た自分を こっそりほめてやりたい氣分です (⌒-⌒)