毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

真我さんは諦めない、真我さんは見放さない

2023年10月08日 12時06分38秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
なんか "真我さんシリーズ” みたいになってきちゃってますが、最初はそんなつもりじゃなかったんです。

二番目の記事のタイトルを考えているとき、ふと前と同じ 「真我さんは ~」 が出てきてしまって、なんとなくこういうことに。

でもまあ 何をやろうが企てようが そこには常に真我さんの意図が働いているのだと思えば、こういうのもありかと。。。というわけで、本日は “結果的に真我さんシリーズ ・ その4” でございます。




先日 ある動画のサムネを見て、「この内容はきっと正論だと思うし 聞いてみたくはあるけれど、ちょっと手が出ないなぁ」 という氣分になりました。

タイトルの文言から、内容よりも先に 投稿者さんの 「こんなに正しいことを言ってるのに なぜわかってくれないの!?」 という怒りや苛立ちのエネルギーが伝わってきたからです。

いや、これが少し前まで 「正しいことをするいい子」 で通してきた貴秋のかつての嘆きの投影なのは間違いないので、氣持ちはすごくわかるのですが、同時に 怒りのエネルギーをまとったまま望む結果を手に入れるのはまず無理だということもわかってしまうのです。

怒りが出てくるのは 自分の望みや意図が妨げられているときなので、怒りを感じているときは 「こうしたいのにできない、邪魔されて思うように動けない」 者の立ち位置にいることになります。

「~できない」 という立場で できないことへの怒りを募らせる、つまり認識と感情がセットで発動されてしまうのですから、その 「~できない」 という現実を引き寄せてしまうのは当然なんですね。

怒りとは 望みを諦めていない現れでもありますから、決して悪いばかりのものではないのですが、望みを叶えるためには、それを外に向かって発散させるのではなく、自身の内に目を転じて 怒りを受け止め、感じ切って終わらせる必要があります。

そうして怒りと向き合い 消化 ・ 昇華させた先に、これまでは見えていなかった新たな選択肢が姿を現し、望みの実現に向かう道が開けます。




以前の記事で、「感覚フォーカスを重ねて “世話焼き母さん” がバグによる自動反応だったと氣づいたとき、次に起きたのは解放ではなく、『長年だまされていいように使われてきた』 ことへのすさまじい怒りだった」 と書きましたが、ほんとこの怒りには苦しめられました。

ちょっとすごいことをお話ししましょうか。

貴秋が実家で使わせてもらっている部屋の押し入れに、弟の物だったのか 木製の野球用バットが入っているのですが、溜め込みすぎた怒りのパワーが感覚フォーカスの集中力を上回り 身の内が引き裂かれそうになると、このバットを引っ張り出して あちこちの壁や不要になった家具を力一杯ぶん殴って どうにか発散させていました。

それだけじゃありません、大好きな台所仕事をしているときは 不快な記憶のフラッシュバックも多いのですが、これって危ないじゃないですか、包丁がいつでも手元にある台所で そんな精神状態に陥るなんて。

で こみ上げる怒りの収拾がつかなくなると、自分や父をうっかり傷つける事態を回避するため 調理台に刃物を叩きつけたり突き立てたりして なんとかやり過ごしていました。

おかげで実家は 感情荒れ狂う引きこもりの高校生でもいるかのような有様・・・でも これをやったのは ティーンエイジャーではない、分別盛りの50代後半の貴秋なのですよ。

しかも、怒りの正体も 怒りを終わらせる手立ても 十分わかっている身でありながら。

ドン引きさせちゃったらごめんなさい、ただ 言いたかったのは、長年抑圧してきた怒りのエネルギーは それほどまでにコントロールが効かず凄まじいものだということなのです。

ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 に、「抑圧されつづけた怒りは、憤怒になる。 (中略) 人々は怒りのために人殺しをしてきた。戦争が勃発し、国が滅んだ」 とありますが、これが誇張ではなく事実だということが 貴秋には身をもってわかります。

正論も理性も吹っ飛ばし、普段はまっとうな暮らしを営む物腰穏やかな大人にさえ 「あのおとなしい人が!?」 と世間を驚かせるようなことをさせてしまうのが、憤怒の持つ負のパワーなのです。




先日書いたジャニーズ問題への人々の反応もそうだし、コロナでもウクライナ侵攻でも他のどんな問題でもそうですが、私たちはともすると 責任者とおぼしき者 (それが真の責任者だとは限りません) を探し出し、詰問しバッシングすることで、溜まりに溜まったフラストレーションを発散させようとします。

でもそういった問題は、実はもともと持っていた怒りを発動させるきっかけに過ぎず、怒りの真の原因は 一人一人の心の奥深くに埋もれ忘れられているのですから、貴秋がバットや包丁を振り回しても一時しのぎにしかならなかったように、爆発寸前の民衆感情のガス抜きにしかならず、怒りの原因の真の解決にはなり得ません。

それどころか、目くらましの身代わり羊に民衆の目が向いている陰で、もっととんでもないことが進行している可能性だってあるのです。

いまの貴秋は 一昔前の自分の姿を引いたところから眺めて語れるまでに心が落ち着き、ようやく安心して日々の暮らしを楽しめるようになりましたが、それは 一時しのぎで稼いだ時間を怒りの手放しに費やすことで、意識を大きく書き換えることができたから。

同じことを 怒れる民衆の一人一人が行えば、戦ったりバッシングしたりするのとはまったく別次元の、そしてもっと根本的に世の中を変えるすごい方法を思いつき、力を合わせて実行して、誰もが心安らかに楽しく暮らせる世界を創造し直すことだってできるのです。




そして、この地味で地道な努力を支えてくれるのが、真我さん。

真我さんは、個がどれほど荒れようが投げやりになろうが 導くことを諦めないし、こちらを見捨てることもありません。

私たちが 繰り返し同じような不快な状況に陥ったり 苦手な人に出くわしたりするのは、真我さんが諦めることなく 負の感情を手放すチャンスを与え続けてくれているからなのです。

思い切って 同じパターンの反応を繰り返すのを止め、心をかき乱すようなニュースを聞くたびにこみ上げてくる怒りそのものにフォーカスしてみませんか?

怒りと共に歩んできた時間が長い人ほど 忍耐は必要ですが、その結果は 間違いなく大きな喜びをもたらすはずだし、そうなって初めて それまで真我さんがどれほど忍耐強く見守り寄り添ってくれていたかに氣づいて、深く心を動かされることと思います。

私たちがどれほどヘマをしようがブチ切れようが、真我さんは決して諦めないし、見放さない。

そしてそれは、私たちの本質そのものでもあるのです。















コメントを投稿