毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

真我さんは迷わない ~ 考え議論すれば答えが出るという幻想にさようなら

2023年09月27日 13時28分03秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
昼間の日差しはまだ濃いけれど、朝晩の空氣はもうすっかり秋。

空を見上げれば 目につくのはすじ雲やうろこ雲、田んぼの稲も黄色く実って頭を垂れ、スーパーには栗が出回り始め、アイスクリームや冷やし中華はそろそろおしまいでしょうか。




最近、選択肢に迷って決めかねたり どちらをとっても満足できないジレンマに悩んだりすることが、ほぼほぼなくなりました。

「迷う」 というのは、限定された個の自分からは見えないところに ベストの選択肢が隠れているときに起きるんですね。

その昔 「ジョハリの窓」 という話を聞いたことがありますが、ジョハリの窓とは 自分を表す四角い面を 窓の桟のように縦横十字に区切って四等分し、四つの面それぞれを 「自分も他人も知っている面」 「自分は知っているが他人は知らない面」 「他人は知っているが自分は氣づいてない面」 「自分も他人も氣づいてない面」 と分けたもの。

おしまいの 「自分も他人も氣づいてない面」 とは、人の五感では捉えられない ・ 捉えにくい面と見ることもできますが、あとの三面を足したよりはるかに広いらしいここを 漏れなくバッチリ把握しているのが、真我さん。

迷っているときには、そのどちらでもないほんとうの答えが この 「自分も他人も氣づいてない面」 に潜んでいるはずなので、個の自分には見えないそれを 真我さんに頼んで見せてもらえば、悩みは解決です。

迷いやジレンマにさらされれば、当然フラストレーションが湧き起こってきますから、そのからだの感覚にフォーカスしながら 「まだ見えてない答えを見せて」 と望めば、早ければこちらの言葉が終わるか終わらないかぐらいで、遅ければ月単位 ・ 年単位で待たされることもありますが、とにかく答えは必ず得られます。

待たされるのは、こちらの条件がまだ整っていないとか タイミングを図ってとか しかるべき理由がちゃんとあってのこと、あとから 「ああ そういうことだったのね」 とわかるので、真我さんへの信頼は揺るぎません。




戦争紛争、環境問題、経済問題など さまざまな問題を提起するドキュメンタリーや討論番組をときどき見ますが、こういう番組のおしまいって 「一人一人がもっと考える必要があるのではないでしょうか」 「議論を尽くすことが求められています」 って感じの締めくくりになることが多くて、これを聞くといつも ずーんと氣が重くなります。

これって 答えが見えないまま終了する番組に 少しでも解決の可能性を示唆して 未来への希望を持たせようということかと思いますが、ならば 考えれば 話し合えば 答えは出るのか、ということですよね。

それができるなら 世界はとっくに平和になっていていいはずで、この締めくくりを聞くと いつも 「空手形」 という言葉が浮かんできます。

知覚できる意識の範疇で いくら考えようが話し合おうが、二項対立の世界では 議論が議論を呼んで混乱するばかり、時間の猶予がなく切羽詰まったいま 私たちがするべきは、知覚できない領域に答えを求めることなのではないでしょうか。

人間以外の生き物は、みな当たり前にこの領域とつながっています。

餌が見つからず 頭を抱える動物とか、いつ飛び立つかを話し合いで決める鳥とか、開花時期が見極められず立ち往生する草木なんて見たことないですよね。

そもそも植物に脳なんてないし、それを言うなら 私たちの細胞だってそうです。

指を切ったって、悪いものを食べたって、私たちのからだは 瞬時に必要な手立てを講じて、私たちの命を守っている。

私たちの意識だけが やたら迷って混乱していて、その結果 世界がいまのようになっているのですから、そこを突破したいなら、理屈を超えて 未知の意識領域から答えを得られるようになることです。

できないはずはありません、私たちだって 自然の一部なのですから。




貴秋のこの類いの文章も、「自身の内に目を向け感じ切れば 突破口が開けます」 的な締めくくりになることが多いのですが、これは空手形ではありませんから ご安心を。

やってみた結果どうなるかは 一人一人違いますから何とも言えませんが、答えのもとはひとつですから、名指揮者の下で素晴らしいハーモニーが生まれるように、真我さんの下 それぞれの思いや活動が すべてのいのちを尊ぶ大きな流れを導き出すことは間違いないと、貴秋は確信しています。
















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