毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

欲張っていきま~す♪

2012年03月18日 11時11分35秒 | ふと思うこと
最近 「次元」とか「波動」とかいう言葉が身近なものになってきています。

そもそもは 本などによって外側から取り込んだ借り物の言葉なんだけど、日が経つにつれて なぜかなじんでしっくりくるようになって。

今は自分なりのイメージをもって ありがたく使わせていただいてます(^^)



もともと物理とか科学とかいう分野には決して強くないんだけど、そんな私でも、人間も含め あらゆるものが「原子」とか「素粒子」とか呼ばれるもので成り立ってること、それらが常に細かく振動してるということぐらいは聞いています。

そして、その情報が 自分の内側の感覚と照らし合わせて、理屈を越えて なんか納得☆ という感じなんだなぁ♪


氣分がいいときって、身も心も軽くって晴れやかで、思わずスキップしたくなるような躍動感がある

どんなことだって やればできる!という静かな自信に裏打ちされて、目の前がどこまでも明るく輝かしく開けて見える


そんなとき、「あ!今の自分って すごく速くきめ細かく振動してるんだな、だからこんなに軽やかでいい氣分なんだな」って 自然と思えちゃうんですね♪

そして、高速で細かく振動する=波動が高い → 幸せ(なんか適当・笑) なんだろうな、と。



「次元」については、「多層構造」って言い方をよくするけど、これは バウムクーヘンみたいにくっきりきれいに層が分かれてるイメージではないのです。

言葉化して認識する前の段階では、多重露出の写真みたいに いろいろな次元がいっぺんに重なってぱっと目の前に展開して、ごちゃごちゃっとして訳わからない感じ。

すごくカオスなんだけど、それでいてその全体の意味は 理屈じゃないところでなんとなくわかってる、みたいな。

しかもこれ、目で見えてるわけではなくて、なんとなく自分の中のどこかでそう捉えてる、としか言いようがないんですね。

こんなこと言うと 私がすごくヘンテコで怪しい人みたいだけど(笑)、ほんとうはおそらく誰でもこんなふうに感じてるんじゃないかな。

ただ、感じてることにまだ氣づいてなかったり、漠然と粗いものしか見えてなかったり(私たぶんこれ)、もっと細やかにくっきり見えてたり、と さまざまな違いがあるだけで。


ひとつわかるのは、言葉にするときは 一度にひとつの次元しか取り出せないので、すっきりした形になる分 実際と大きくずれた姿にならざるを得ないってこと。

しかも、三次元より上は 本来言葉を越えた世界らしいので なおさら。

だからこうやって整理された文章で表わしてる世界は、実はほんとうに自分が感じてるものと大きくかけ離れていることを その都度痛感させられます。

ほんと言葉って 大雑把で不自由なアイテム。

でも、そんな使いづらいものを使ってでも表現したい世界でもあるんだよね。

だって、そこには 誰もが心の奥ではほんとうに求めてると思うものが垣間見えるから。

私自身、長いことかかって 薄紙を剥ぐように 少しずつ少しずつ見えてきたものがあるというだけなんだけど、それでどれほど生きるのが楽に楽しくなってきたかが身に沁みてるから。

そして、私よりもっとよく見えてる人が、折に触れて 自分に見えてるものを話してくれたり 本やブログに書いてくれたおかげで、私もここまで来ることができたんだから。



今のこのからだや名前と共に生きていられるうちに どこまで行けるのかわからないけど、後へ行くほどどんどんよくなることはわかってるから、これからもいろんな人と出逢って、いろんな本を読んで、いろんな体験をして、欲張って行けるところまで行くぞ~!な氣満々なのです










大丈夫、出られますから♪

2012年03月17日 15時53分45秒 | ふと思うこと
「渦」という言葉を使うのは、ちょうど洗濯の真っ最中、洗濯機の中で回ってる洗濯物を眺めていてふと浮かんだ考えだから


洗濯物みたいに渦の真っ只中にいたら 渦そのものを見ることはできない。

だいたい渦の中では もみくちゃでぐるぐる振り回されて 目が回ってギャ~ってなもの、冷静にあたりを見回す余裕なんかありはしない

渦から離れて初めて 落ち着いて渦を見渡すことができるんだよね♪



何かにつけて カッとなったりイラついたり落ち込んだり、感情に振り回されやすい性格の私。

これほんとどうにかしなきゃ、とさんざん悪戦苦闘を続けた挙句、ある日ふと浮かんだイメージがこれでした。


アタマから湯氣たてながら「なんとかしなきゃ」なんていくら思ったって、それは渦の中でぐるぐるなりながら 渦を見ようとするようなもの。

まずは渦から、つまり怒りから脱け出して離れないとね。



私の言葉で言うと、渦の中は三次元。

じゃ、ここからどう脱け出して もうちょっと高次の視点に移動するか。

あるんだなぁ、いい手が(^^)v



過去何回か体験してるんだけど、まったくつながりのない複数の出所から 同じ情報が立て続けに飛び込んでくることがあって、これもそのひとつなんですが。


   何かが起こる → それについての感情が動き出す

それまではこういうふうに思い込んでたんですが、実は間にもうひとつ見落としてた反応があったようなんです。


   何かが起こる → からだにある種の感覚が生まれる → それについての感情が動き出す

つまり 感情の動揺は、出来事そのものじゃなくて 出来事に連動して起こった体内の感覚が引き金となって起こってるんだと。



自分のものでありながら ロデオの暴れ馬のように手なづけることが出来ない感情をすっかり持て余していた私のもとに、愛読していたブログから、たまたま手に取った本から、立て続けにこんな情報がやってきてくれたことを ふと思い出したのです。


そういえば、感情の嵐に見舞われているときは、たしかにからだにも不快な感覚が現れている。

胸が締め付けられるとか 動悸が早まるとか 肩や腕がガチガチになるとか。

あれ?

ああいうのは、怒ったりイライラしたりするからああなるんだと思ってたけど、もしかして逆だったの?

からだの反応のほうが先で、それがスイッチになって 感情が大暴れしてたの?

これはきちんと確かめなくては



からだに湧き起こった感覚が 感情のスイッチを入れるのを防ぐには、とにかく一刻も早く感覚と感情を切り離すこと。

それには、「意識をからだの感覚に集中させればいい」のだそうです。

通常 からだの反応はほとんど無意識に起こってるので、それはスルーして いきなり感情のほうに氣がいってしまうようです。

そのときには すでに渦の中に飛び込んじゃってるんですね(^_^;)

そこを からだのほうに集中することで 一歩手前で立ち止まることができると。

そうやって意識し続けていると、やがて感覚が消えていくのだそうです。


機会を捉えてさっそくお試し♪

飛び出そうとする感情は無視して からだの中がどうなってるかに集中してみると。。。

お~、胸の少し上、食道のあたりがなんかスースーする、空氣でも漏れてるみたいに。

肩と上腕と、あ、肩甲骨のまわりも少しこわばってるな。

動悸もちょっぴり早く打ってる。

強烈な感覚ではないけれど、こうやってしげしげ感じ取ってみると氣持ちわるぅ~


ちょっとの間 そうやってアサガオやメダカでも観察するように 自分の中の感覚を眺め続けていると、あら不思議、不快な感覚がすぅっと溶けるように消えていくではありませんか。



面白いことに、この「見つめれば消える」っていう情報も もっと以前に立て続けに集まってきたことがあるんですね。

こういう「伏線」があったから、よけい受け入れやすかったんでしょうね♪



多くのことがそうであるように、最初からそうそうスムーズにはいきませんでした。

さんざん腹立てちゃってから「しまったぁ、からだの反応忘れてたぁ」って思い出したりするのはしょっちゅう(笑)

大元となった出来事に執着してると、せっかく消えてくれた感覚がすぐまた復活しちゃうこともあるし。

あと、からだの感覚を感じようとして それと一体化してしまうと、なかなか消えてくれません。

私の感じでは、親しい友達のように その感覚のすぐ隣にいて 落ち着いて眺めてる、ぐらいの距離感でいくのがいいようです。

また、感覚に集中するときは、あくまでも客観的に。

「辛かったねぇ」なんて 妙に感情を動かしたりすると、たちまち渦の中、でございます(^◇^;)



この手の情報が大好きで、これはというものを見つけると実験してみずにはいられないんだけど、そのおかげで 今実家などで(笑)大いに活用させてもらってます♪

私と同じような悩みを抱えてて この話を初めて聞いたという方がおられたら、どうぞお試し下さい♪

それだけの値打ちはあると思いますよ(^_-)

















人を動かすもの ~ 大好き!One Piece☆

2012年03月16日 12時46分49秒 | 大好きな本・映画・ほか
突然ですが。

今や国民的漫画とまで言われている 少年ジャンプ連載の「One Piece」(尾田栄一郎作)、実は私も大好きなんです

連載開始からアラバスタ編の中ごろまでは、リアルタイムで毎週愛読してました♪

(ご存じない方、わからない話でごめんなさい)


とにかくストーリーが面白い、キャラも魅力的、と語り出したら止まらなくなりそう(笑)


中でもこれは作者尾田栄一郎さんのお人柄なのでしょうか、絵に“陽の氣”がみなぎってるところが大好きなんです。

あらすじだけ文章で読むと、そこは海賊が主人公の物語なので 陰惨なイメージが浮かぶシーンもあるんですが、あとから漫画で見ると え?と思うほどからりと明るい。


あと、女性キャラが颯爽として甘えてないところも大好き。

「麦わらの一味」(主人公モンキー・D・ルフィを船長とする海賊団の通称)メンバーのヒロイン二人なんて かなり悲惨な生い立ちなんだけど、性格がねじ曲がることも 自己憐憫に浸ることも 悲劇のヒロインを氣取ることもなく、しっかり自分の足で立って まっすぐ前見て 笑顔で人生切り拓いてて♪


そして、何より素晴らしいのは 随所に見られるすごい台詞。

主人公たちはもとより、サブキャラ、ゲストキャラ、さらに俗に「イロモノ」などと呼ばれるクセの強いキャラが、うわ!と思うような 真理を突いた言葉をさらり、ずばりと口に出す。

思わず深くうなずいてしまうような 記憶に残る名言がいくつもあるんだけど、貴秋One Piece名台詞ランキング・栄光の1位(なんじゃそりゃ)は、アラバスタ編の終わりのほうに出てくる アラバスタ国王の言葉。


砂漠の国アラバスタは、ある犯罪結社の企みにより 国王が私腹を肥やす悪者であるかのように国を挙げて思い込まされ、反乱を決起するまでに追い込まれた上で、それと氣づかぬうちに乗っ取られようとする。

その企みに氣づいた王女と忠臣が 秘密結社に潜入し、そこに麦わらの一味が絡んで。。。とまあ いろいろある(笑)んですが、王女や一味の奮戦空しくとうとう反乱が起こってしまい、多くの血が流れた末に ようやく事の真相が明らかになって、敵の罠にはまって無益な戦いをしてしまったことを思い知らされた民衆が呆然と立ちすくむ。。。

そのとき国王が 皆に向かって力強く語りかけるんですね。


 “悔やむことも当然 やり切れぬ思いも当然

  失ったものは大きく 得たものはない

  だが これは前進である

  戦った相手が誰であろうとも

  戦いは起こり 今終わったのだ

  過去を無きものになど 誰にも出来はしない

  この戦争の上に立ち 生き延びてみせよ アラバスタ王国よ!”


これを初めて聞いた(この場面は漫画じゃなくアニメで見たんです)とき、鳥肌がたちました。

私が国王の立場だったら、この言葉がすらりと出せるだろうか。


「だまされてたんだもの、仕方ないよね」とか「みんないっしょうけんめいやったんだものね」とか、そんなレベルの言葉じゃない。

取り返しのつかない結果に打ちのめされ、どうしようもない痛みや虚しさに打ちひしがれている人々の心に、そんなちっぽけな慰めなんか届かない。

国王の言葉は 真理なんですね。

だから、人を動かし 奮い立たせる力を秘めている。


起こってしまったことから目を背けるのでも 都合よく書き換えるのでも 正当化するのでもなく、ただただ事実を事実として認め、受け止める。

そうして初めて、そこから一歩を踏み出し 新しい道を拓くことが出来るのだと。


登場人物にこんな深い言葉を語らせる尾田先生、なんてすごい方なんでしょう。




思い返せば、これまでの私の人生で 「底をうった」とはっきり感じられた瞬間が まさにこれでした。

あのときは、まだこのセリフは知らなかったんだけど。


白浜に移り住み、それまでの自分がいかに恵まれ いかに思い上がっていたか思い知らされることの連続で 苦しい毎日を送っていたとき、突然浮かび上がったのが、

「そういう自分であることを認め、そこから始めよう」

でした。

その瞬間のその場の景色まで 鮮やかに記憶に残っています。

それ以来、降下の一途と感じられた日々が 転じて少しずつ上昇し、そして今のこの場所まで来ることが出来たのでした。


そんなことがあったから、余計このセリフがずーんと響いたんだと思います。




2月末からちょうど3月11日まで実家にいたおかげで、東北大震災関連のテレビ番組を多数見せてもらいました。

ああいう体験をされた方々に対して どんな思いもどんな言葉も無力だという氣がします。

規模は遥かに小さいながらも 昨年9月の台風被害を経験して感じたのは、励ましがかえって辛くそぐわなく感じられるときもあるのだということ。

かき乱され舞い上がった水底の砂が 再び沈殿してゆくように、時が解決してくれるのを待ちながら じっくり見守るしかないこともあるのですね。

まだ生々しい心の傷がぱっくり口を開けたままの方々を取り上げたドキュメントには、震災以来 時間というものがなくなった世界が映し出されているかのような 重く沈痛な空氣を感じました。


その一方で、震災で断ち切られた時を越えて 新しい流れを創り出している方々もたくさんおられて、私のほうが勇氣やエネルギーをいっぱいいただきました。

そして思ったのが、前進しておられる方は やはり 今・ここの自分の足元を見つめ 受け入れるところから動き出されてるんだなぁってこと。


これも良し悪しじゃなくて、被災された人の数だけ いろいろなプロセスがあって、そのひとつひとつに計り知れない重みがあって、今立ち止まったり迷ったりしておられる方々も いつかきっと次の一歩を踏み出す日がやってくるのでしょう。

じっくりと傷を癒して ありのままを受け入れるところから。


その道のりに多くのエネルギーを費やした人ほど、深い氣づきや大きな力をわがものとされるんだ。。。そんな氣がします。













春は菜の花♪

2012年03月15日 18時58分27秒 | 紡ぐ暮らし
きょうのお昼。



菜の花&ゆで卵乗っけトースト♪

粗みじんの菜の花とゆで卵をマヨネーズと少量の塩で和えて トーストに乗せ、粗挽き黒コショウをぱらっとふって、熱々をパクリ☆

卵をこんもり盛り上げたくて、2個ゆでちゃいました(^^ゞ

お供はカフェオレ、デザートには頂き物の八朔を。

美味しかった~


食べながらひらめいたんだけど、今度はスクランブルエッグで作ってみようかな♪



ただ。。。

卵ちょっと盛り過ぎたかも(笑)

この時間になってもあまりお腹が空かないんだよね。。。夕飯どうしよ~








「ありのまま」が (私の)世界を救う♪

2012年03月15日 12時09分06秒 | ふと思うこと
実家ネタ、まだ引っ張っております(笑)

今回の滞在中、これまでと違う氣づきがありました。


地雷踏まれて カッとなって応戦してしまったとき、今までは「あ~、こんな自分のままじゃダメだぁ」という 自己嫌悪の思いが付きまとってたんですね。

で、そこから何とかしようともがくんだけど、うまくいかなくて ますます落ち込んで。


それが、今回やはりもがいている最中に、ふと浮かんだんです。

カッとするような仕打ちをされては 怒りを表すことを禁じられる、こんなことが 小さい頃からどれほど繰り返されたことか。

それで怒りが溜まらない方が不自然じゃない?

親たちについて言うなら、単に 昔自分たちがしたことが 今返ってきてるだけなのでは?


夕焼けが青っぽく見えたら不自然だけど、青いメガネを通して見るなら それは自然なこと。

憎むとか嫌うとか戦うとかいうのも 人本来のあり方としては不自然だけど、それなりの条件付けの下で考えれば ある意味自然なことだって言えるんじゃない?と ふと思えたんですね。

いい悪いの判断抜きで、「日が沈んだから夜になった」「暖かくなったから桜が咲いた」というように、こうだからこうなった、というありのままの事実をいったん受け止めてみる。

三次元的には これがいちばんムリのない見方なのかな、と。


。。。で、ここで終わっちゃうと うっかりしたらただの正当化にもなりかねないんですが(^_^;)


そこからちょっと離れた高みに上って、客観的な視点から 改めて本来の自分に問いかけてみる。

で、あなたはどういう自分でありたいの?

戦ったり仕返ししたりっていうことを続けたい?

それともそこから離れて もっと幸せな自分を実現したい?


怒りの真っ只中にいるときは、直観も働かないし 冷静な思考も出来ない。

こんな問いかけも イライラを募らせるだけで まるで耳に入らない。

でも、すべてが多層構造なんだって見えてくると、こんなふうな捉え方が出来ちゃうんですね♪

いったん混乱の渦から脱け出して、もっと明るく前向きなところから見直せる



実は今回、心の乱れの最中に体調崩して 帰りが一日延びちゃったんだけど、そのおかげで怒りをコントロールできないイライラから脱け出して仕切り直し、晴れやかな氣分で戻ってくることが出来ました。

やっぱり 万事うまく出来てるなぁ、起こることすべてに意味があるんだなぁって つくづく思います(^^)










分別はきっちりと。。。ゴミの話ではありません(笑)

2012年03月14日 12時34分56秒 | ふと思うこと
もうだいぶ前のことですが、ある人に「自分の問題と そうでないものをきちんと分けて考える」という話を聞いて、大いに感銘を受けたことがあります。

それ以来、いつも心の片隅にこのことを置くように習慣付けてきましたが、これ ほんと大事なことですね。


この仕分けがきっちり出来なかった頃の自分は、人の問題まで我が事として背負い込んでは、答えの見えない悩みに四苦八苦してた氣がします。

たとえば、誰かにうれしくないことを言われたりされたりしたとき、以前の私は「なんて嫌な人」「腹立つ~」と どこまでも相手に意識が貼り付いて そこから離れることが出来なかった。

これは(私なりの分け方で言えば)三次元的視点。


でも、もうちょっと離れた上のほうから冷静に見れば、実は相手は関係ないんですね。

そういうことを言ったりしたりしてしまうのは 相手の問題で、私のじゃない。

そもそも相手は問題とも思ってないだろうし、どのみちその人のしたことには 「因果応報」とか「ブーメランの法則」とか言われるような力が作用して それ相応のものが返っていくのだから。

それが その人と天の決めた学びの道なのだから、その人をどうしようこうしようというのは私の役目じゃない。

相手をコントロールすること、変えることに執着したら、今度は私が横暴な人間になってしまうものね(^_^;)


じゃあ私にとっての問題とは何かといえば、その出来事や その相手との関係において どういう自分であろうとするか。

意識を向けるべきは どこまでも自分。



私が持ってるのは自分の答えだけ、なのにうっかり人の問題にまで首を突っ込むと、答えの見えない袋小路に迷い込んでアタマを抱えるハメになってしまう


親とのなんやかんやも この区別がはっきり出来ていれば、どんなにもつれていても 必ず道は開けるようです♪

ただ、前にも書いたように 昔ながらの根深い条件付けに引きずられて ときどきこんがらがって悩んじゃったりもするんだけど(^^ゞ


両親の抱えてる問題、母の心のもつれや 父の心身の負担などは、これまでに彼らが積み重ねてきた選択の結果。

自覚しようとしまいと、彼らが引き寄せたことなんですね。

こんなふうに言うと冷たく聞こえてしまうかなぁ。。。でもね、いい悪いは関係なく、ただシンプルに それが事実。

そこをしっかり見てないと、つい親の苦しみをなんとかしようと余計な考えを起こしてしまう。

でも、基本それは私のすることじゃない。。。私は 彼らの選択の自由・彼らの選んだ道に敬意を払って 少し離れたところから静かに見守るだけ。

もちろん その中で私の言うべきことするべきことがあると感じたときは それに沿って行動するよう心がけるけれどね。


彼らといっしょのとき 私が常に意識を置くのは、自分の内側を感じて 瞬間瞬間最善の選択をすること。

どういう自分でありたいか。どういう自分を表現するか。

その選択に喜びや誇りがもてるかどうか。

その道を進んで 幸せになれるかどうか。

ほんとうの望みが叶うかどうか。


ここに焦点を合わせ続けることで、怒りや恨みの念から 少しずつでも離れられる氣がします(^^)












またまたちょっと食べ物の話(^^)

2012年03月13日 22時55分11秒 | 紡ぐ暮らし
今夜の夕食は 「菜の花ペペロンチーノ」。

去年の春にやみつきになったメニューです♪




パスタを茹でるときに 残り時間1~2分というところで菜の花(軸の硬いところは細かく刻んでおきます)を加え、茹で上がったら一緒にザルにとり、鷹の爪とニンニクのみじん切りを炒め 塩と昆布茶で味付けしたオリーブオイルで和えれば出来上がり♪

菜の花の緑と黄色に 鷹の爪の赤がぴりっと加わって、目にも楽しい簡単料理です♪

奈良からの帰りに寄ったスーパーで 菜の花見つけて 今年もこれを作ろうといそいそ1パック買っちゃった♪




こちらは3月3日のひな祭りに実家で作った散らし寿司♪



今回もおでんやら餃子やらコロッケやらロールキャベツやらと ひたすら料理三昧だったけど、これが一番喜ばれたメニューかな☆

盛り付けは母が担当してくれました。

ハマグリの潮汁にも菜の花をあしらって 春らしく、ね♪



3月6日は 父の傘寿の誕生祝いで、朝から張り切って台所に立ちました。

お赤飯は 昔からおなじみの和菓子屋さんに頼み、父のリクエストのお煮しめと、鰆の塩焼きに茶碗蒸し、アサリの味噌汁。

作って並べるのに手一杯で 写真撮れなかったのが残念だなぁ。。。

お煮しめを作ったのは初めてだったけど、ビギナーズラックでしょうか、なかなかにいい出来栄え、と自画自賛(笑)



何があっても、食べ物を楽しく作れるうちはやっぱり大丈夫、な私なのです








多層構造で見ると世界が変わる♪

2012年03月13日 15時59分25秒 | 奈良・実家・家族
これ。。。もう書いてもいいよね。

今となっては 母が自力でこのブログを読みに来るなんて まずあり得ないもの。



3年前、母の姉と妹が相次いで亡くなり、そのショックが引き金になったのか、やがて母の記憶力の衰えがじわじわと進行し始めました。

それにつれて、もともとネガ思考で感情的にも決して安定してるとはいえなかったものが、その度合いが増してきました。

本人も 自分の記憶におかしなものを感じるようになった不安からか、以前ならまだかかっていた理性のブレーキが外れた状態で 身近な家族(主に父)に剥き出しの苛立ちをぶつけることが多くなりました。

心の衰えはやがてからだにも影響を与えるようになって、それまでそつなくこなしていた日々の家事労働が苦痛になり、それもまた苛立ちの一因となったようです。

昨年は 短期記憶がいよいよ怪しくなり、それを逆手にとって?とでもいうのか(笑)、自分に都合のいいストーリーを作り上げては信じ込んで、まわりを驚かせるようなことをあれこれやらかすようになりました。

私がGW前後の実家での手伝いから戻った直後、珍しく昔のお友達をお客様に迎えたもてなし疲れからか 突然父に対して妙な妄想にかられて怒りを爆発させ、二晩家から閉め出してしまったときは、父も私も弟も 唖然呆然もう大変(笑)

ついに三日目、電話での説得もまったく効果ないまま これ以上このままにはしておけないと 弟が休日返上で西宮から出張ってきて、半ば力づくで父を家に押し込むと、今度は母が飛び出していくという騒動に。。。まあ結局はちゃんと戻ってきましたが(^_^;)

その後、9月の台風被害で 私との連絡が数日取れなかったときも、父や弟は 母をなだめるのに並大抵ではない苦労をしたようです。

彼女の頭の中では、私が電話を無視して返事もよこさないという話になっちゃってたらしい。。。実際は 小学校に避難した直後にかろうじてまだ繋がってた携帯でちゃんと状況説明しておいたのになぁ

その後も記憶力の減退は徐々に進行し、それでも 家族の顔を忘れるとか ガスを点けっ放しにするとか 徘徊して家に帰れなくなる、というような 日常生活に支障をきたすほどのことはなく、知らない人が見たら何の異常も認めないだろうなぁという感じなのですが、内輪での感情の嵐はいよいよひどくなり、また生きる意欲も低下したようで 身の回りのこともかまわなくなり、家事の負担が父に大きくかかってくるようになりました。

厄介なことに 家事をきっちりこなして家族の面倒を見てきた、というのが 彼女の自己存在の唯一といっていい拠り所、しなければならないけどしたくないという矛盾を受け止められないまま 辻褄合わせにもならない辻褄合わせを無理やり作り上げては父に当り散らすという毎日で、父の話を聞くたびメールを読むたびに暗澹とした氣持ちになるのは避けられず(T_T)


何よりも困るのは、こんな状態であっても 母ががんとして医者にかかろうとせず、ヘルパーなどの外部助力も拒んでいること。

まあ記憶や感情の変化については そもそも本人が認めてないのだから仕方がないとしても、11月に訪ねたときは 持病の喘息が悪化したのか 常時セーセーいうようになっていて、立ち居振る舞いも見るからに苦しそうなのに、そちらについても絶対首を縦に振らない。

いまだかろうじて人らしい暮らしを保っていられるのは ひとえに父の頑張りのおかげなのですが、つい先日傘寿を迎えた父、現役の社会保険労務士で、慣れない家事の負担が仕事を大きく圧迫しているようなのです。

私が応援に行くたびに 「(母を)デイサービスに預けて解放された氣分」と喜ばれるのは なんともフクザツな思い。。。


とまあこんな次第で ちょくちょく実家に出向いてるわけなんですが(^^ゞ




実のところ、あちらに行くことや家事を引き受けること自体は どうってことはないんです。

家の仕事も 十津川の山道のドライブも大好きだし、氣ままな一人暮らしで自由もききやすいし♪


私を大きく消耗させるのは、昔ながらの母娘の軋轢。


以前カミングアウトでも書いたように、第一子であり長女である私の目から見て、母は幼い頃から横暴な人でした。

一見筋が通っているようでいて、その実自己正当化が激しく、いつもまわりの人間を無理やりコントロールすることで 心の平安を得ようとする傾向があり、親の庇護を受ける子の立場として、私は常に母の圧力に屈しざるを得ず、長年に渡って溜まりに溜まった怒りや恨みは半端ないものでした。


それを、とにもかくにも物理的に距離を置くことで 母から自分を切り離し、あちこちから助けをもらって内観・修正を重ねて、ようやっとここまで回復できたというのに。

今度は弱った自分を武器に またしてもワガママのし放題で私を振り回そうっていうの?

地雷を踏まれるたびに 反射的に怒髪天を衝いてしまい、そのあと悶々とする日々。


・・・・・な~んて書くと いかにもヒサンな親子関係なんですが。


これはあくまでも 三次元視点での話

ちょっと視点を変えてみると、まったく違った世界が見えてくるのです♪



もっと大きな存在の一部としての、魂としての視点から見るとね



その見方でいえば、私は生まれる前に ある意図を持って この両親を選んで生まれてきた。

いろいろと制限された存在として、その制限ゆえにできるさまざまな体験を重ね、自分を磨いて成長してゆく楽しみを味わうために。

愛や平和とおよそ対極のところにわざわざ身を置いたのは、そこから旅を始めることで 「ほんとうの自分ってこんなに素晴らしいんだぁ~」っていう喜びを知ることができるから\(^o^)/


この視点に立つと、「被害者意識」っていうのが足止め以外の何ものでもないことがよぉくわかります。


被害者の立場に立ち続ける選択っていうのは、

“私は幼い頃から親にひどい目に遭わされました

 背負わされたハンデが大き過ぎて 自分の力でそこから抜け出すことができません

 だから私は親を憎みます、恨みます”

って宣言してるのと同じことだから。


ここまで見えてくると、親を・親との関係をどうするかっていうのは もはや問題じゃないんだよね。

問題は 私がどういう道を選ぶのか。

無力な被害者として 恨み続け 戦い続ける?

それとも、すべてを「飛び越えるために置かれたハードル」と受け止め、クリアして成長する?


こう訊かれて後者を選ばない人ってまずいないと思うんだけど。

私ももちろん☆

ただね、わかっていても 悲しいかな昔のクセで ついつい前者に引っ張られちゃうのが私の未熟なところ(笑)

実家に行くたびに 何回かはわちゃ~ってなって、それでもそのたびに学習して 懲りずにまたまたチャレンジ、それがここしばら頻繁になってる奈良行きの真相(笑)なのです♪

だから、消耗しても それだけの値打ちはあるわけ(^_-)


多層構造の 低い次元とちょっと上の次元を行ったり来たり、そんな中でも徐々に前進の手応えを感じているきょうこの頃です


















家族ってね、親子ってね、ほんとにね(笑)

2012年03月12日 23時54分44秒 | 奈良・実家・家族
先月28日から またまた奈良の実家に行ってました。

3月1日か2日に行くはずが急きょ繰り上がったので 慌しい出発で、道すがら写真撮る余裕も 今回はまったくなし(^^ゞ


昨日の夕方から晩にかけて戻ったんだけど、行きにはまだ見当たらなかった梅の花があちこちでほころんでるのを見かけて、季節は着実に進んでいるんだなぁ、と♪

けさ聞いたウグイスの鳴き方も 出発前よりずっとうまくなってたしね(笑)



実のところ 今の私にとって、実家行きは決して楽しい選択とは言えません。

にもかかわらず 毎度毎度行くことを選ぶのは、それだけの値打ちがあるから。



滞在中に見たテレビ番組で、剛力彩芽ちゃん・・・だっけ? 活き活きと可愛らしいタレントさんが、「お父さんお母さんありがとう、大好きです」と晴れやかな笑顔で言うのを見て、こういう親子関係もあるんだなぁと感嘆させられました。


今の自分にこの境地は とてもじゃないけどハードル高過ぎ(^◇^;)


家族って、親子って、つくづく面倒で厄介でややこしいもんだと思う(笑)

でも、それだからこそ そのもつれの中から氣づかせてもらえることもいっぱいあるんだよね♪



今回も 内観の材料をしこたま抱えて帰って来ました

大好きな自分の暮らしに戻りつつ、これから時間をかけて じっくり吟味させてもらおうと思います