Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

ALWAYS 三丁目の夕日

2006-12-03 | 日本映画(あ行)
★★★ 2005年/日本 監督/山崎貴

「泣けたかどうかなんて、本当はどうでもいいこと」


レンタルずっと貸し出し中なんで、テレビで見ちまったよ。

「泣ける映画」=「いい映画」なんでしょうか。このところずっとそんなことを考えています。「この映画には泣かされた」と我々はよく言います。「泣かされた」という受け身表現には、「泣かそう」という相手が存在することを暗にほのめかしています。だから、「泣かされた」と表現する場合は、そういう相手の意図をわかっていて、その図式にのってやったと敢えて自ら告白している。

とどのつまり、「誰か泣かしてくれ」と観客は既に思っているわけですから、製作者側は「どうやったら涙が出るか」という事を考えればいいわけです。昨今の泣かせる映画には、すでに「泣かしの方程式」のようなものが関係者の中で存在していて、例えばそれは「さよなら」の声は何メガヘルツとか、主人公の涙は何粒流すとか、エンドロールの8分前に別れのシーンを持ってくるとか、これまでの無数の泣ける映画をデータベースにぶち込んで分析して出てきたようなものが存在しているのか、とかそんな風に思ったりする私はあまのじゃくです^^

じゃあ、この映画が悪い映画かというと、そうではありません。何より主人公の吉岡秀隆が初めて「純」に見えませんでした。吉岡君はこれまであまりにも「いい人」ばかりを演じてきて損していたんではないかと思うのです。今作で茶川を演じる吉岡君をみて私はとても新鮮でした。それから鈴木社長を演じる堤真一がとてもいいです。特にセリフ回しが絶妙でした。ぼそっとしゃべる一言や、間の取り方がとてもうまい。

個々のエピソードも短くきりっとまとめられていていい。深入りしすぎず、かといってあっさりし過ぎず。ひとつひとつのエピソードにしっかり感情移入できました。このあたりは、たくさんのパーツをうまくまとめたなあ、と脚本の良さを感じました。

そして、よくもここまで集めたなという昭和の小道具たち。まるで「昭和博覧会」のようでもあります。ここまでセッティングできた美術の方はスゴイです。ただ、その詰め込みようが、だんだん後半もうええやろ…という気分になってきてしまう。例えば、薬売りがやってきて切れた薬を補充している場面で母と息子が「今年はサンタさんが来るかな」といった会話をしているんだが、どうしてもどっかで薬売りを入れたかったんだろうという気がする。それから氷売りののピエール瀧。鈴木家が冷蔵庫を買ったため、捨てられた保冷庫をじっと見つめるシーン。これもね、何か違和感が残る。意味深にしすぎなんだな。

過剰な昭和ノスタルジィ感が物語を少し邪魔してしまった、と思う。次回作は腹八分目でいいんじゃないかな。「泣けた」というのは涙が出たという現象の表現であって、映画が発しているメッセージを受け取った表現とは言い難い。「泣ける」以外の褒め言葉をたくさんもらえる映画作りを作り手の人たちは、これから目指すべきなんじゃないだろうか。