Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

es [エス]

2009-10-27 | 外国映画(あ行)
★★★★☆ 2001年/ドイツ 監督/オリヴァー・ヒルシュビーゲル

「今日からあなたは××です」



今年見たDVDで印象に残っているのは、「ミスト」だったり「実録 連合赤軍」だったり。やっぱり、“集団狂気”って私の好物なんですよね。というわけで、本作を再観賞。

この「es」という作品は、きっかけの映画だと思います。観た方がそれぞれ、何かをじっくりと思考するきっかけを与えてくれる映画。確かにこの状況がどう打破されるのかというサスペンスとしての要素もあるのですが、そこに焦点を当てると後半の展開は弱いです。私の頭によぎったのは「役割」と「コンプレックス」の2点。

つくづく人間ってのは、「他人から役割を与えられること」をやすやすと受け入れてしまう生き物なんだと思います。「今日からあなたは○○です」と宣言されれば、何となくそうなってしまう。よく言えば、順応性が高いということかも知れません。どんな過酷な状況でも生命を維持する、サバイブするために、いかなる役割でも受け入れられる精神的メカニズムを持っているのかも知れません。

一方、「紀子の食卓」でも書きましたが、役割を演じていることは何かを全うしている錯覚を自分の中に発生させると思っています。私自身は全ての「役割」から解放されて生きたい。もちろん、理想論ですが。私は妻であり、母であり、とある業界でとある職種に付いている人間であります。しかし、他人からその役割らしくふるまいなさいと指示されるのはまっぴらゴメンです。でも、「看守」にしても「囚人」にしても、その役割を与えられると、誰しもすんなりその役割らしくふるまおうとするんですよね。そして、多少逸脱してもその役割からなかなか抜けることはできない。ミーハーな例えで恐縮ですが、漫画「陰陽師」の安倍晴明が言うならば、「名を付けることは呪いのひとつ」。しかも、私は「○○だ」という呪いを他人からではなく、自分で自分にかけ始めている。自分自身による催眠状態に移行しているからかも知れません。

では、その役割らしくふるまう、「らしさ」とは何か。看守らしさ、囚人らしさ、をそれぞれの人間がもともとイメージとして持っているから、そのように行動するわけですよね。本作を見ていて感じるのは、「らしく」行動すればするほど、個人の本質が置いてけぼりになっていくということです。私が「役割」に対して嫌悪感を持つのは、ここと関係あるかも知れません。何を発言し、何を行動するかを決定するに際し、その「役割」としてどうふるまうかを基準にしてしまう。では、育児放棄をしてしまう母親に対して「母親らしく」ふるまえ、と言うことは間違っているのかという話もあるかと思いますが、それは母親である前に、人間としての倫理観や愛と関わる問題ではないか…とまあ私は考えるのですが、長くなりそうなので、ここまでにしておきます。

さて、看守のベルスは、「体臭が臭う」と囚人から指摘されることで抑圧感情が爆発してしまいます。そして、臭うと指摘した囚人を排除することで自信を取り戻そうとする。結局、誰しも、ありのままの自分を受け入れて欲しいと思っている。自分は価値のある人間だ、ということを認めて欲しいという感情。それが、暴走すると他人の尊厳を奪うことをも何とも思わなくなってしまう。人間って、誰でもコンプレックスは持っているものですからね、私だってベルスになってしまう可能性がある。そう思うと心底ぞっとしてしまいます。看守になった途端に生き生きとし始めるキオスクの販売員もいます。彼の場合は、支配欲が彼の中の何かを変えたのでしょうか。いやはや、本当にネタの尽きない1本です。

あなたは本作を見終わって何について考えるでしょうか?誰かと語り合うという意味でも最適の作品。お勧めします。