『桶川女子大生ストーカー殺人事件』鳥越俊太郎&取材班著
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神戸連続児童殺傷事件の加害少年A、いわゆる“酒鬼薔薇聖斗”が昨日、収容されていた医療少年院を仮退院しました。
事件当時14歳だった彼ももう21歳。改めて7年と云う歳月の重さを感じます。
ぐりは以前ある事情でこの事件について書かれた本を何冊か同時に読んだことがありますが、その時強く感じたのは「人が事実を事実として他人と共有しながら、あくまで個人として生きていくことの難しさ」でした。
例えば被害者の父の手記と、加害者少年Aの両親の手記には同一の出来事がそれぞれに書かれている箇所がいくつもあります。これは被害者である土師淳くんと少年Aが普段から家を行き来する間柄だったからで、それぞれの本にはそれぞれの親が感じたこと、覚えていることが当然書かれている訳ですが、それがことごとく異なった見解になっている。場合によっては180度違う、全く逆の見解として書かれている。ひとつひとつは些細なことだけど、こうした「事実を事実として受け入れ認めることの難しさ」の積み重ねが、形を変えて事件へと繋がっていくような気がしました。
ぐりはこの『淳(土師守著)』『「少年A」この子を生んで・・・・・・父と母 悔恨の手記』の2冊以外のルポルタージュも何冊か読みましたが、この2冊に関しては同時に読まれることを特にオススメしたい本です。2冊とも、親としての子に対する愛情にあふれた感動的な本です。愛してさえいれば何もかもが赦される訳ではないと云うことがこれほど悲しく感じられる本は、他に無いかもしれません。
この神戸連続児童殺傷事件以降、想像を絶して残忍な少年犯罪が続発し2000年に少年法が改正されるきっかけになりましたが(この法案成立に際し土師守氏も国会で参考人として答弁している)、一方で同じ年に成立したストーカー規制法のきっかけになったのが桶川女子大生ストーカー殺人事件です。
実はぐりもストーカー被害に遭ったことがあります。何年も前のことで、期間もそれほど長くなかったし、桶川の被害者ほど深刻な事態には至りませんでしたが、それでも何度も警察のお世話になりましたし、その時味わった恐怖感は今も忘れることが出来ません。これからも忘れられる日が来るとは想像しにくいです。
ストーカー被害の難しいところは、その苦しみ、恐怖が第三者に非常に伝わりにくいと云うことです。ただひとつ云えるのは、どんな人間にとっても健康で平和な生活が最も大切であり、何者にもそれを脅かす権利は断じてないと云うことです。たとえどんな事情があるにせよ、人が人を脅迫したり嫌がらせをしたりしても構わないと云う法はどこにもない。
この事件が起きた時、被害を訴えた猪野さん一家に対して警察は「嫌がらせを受けるにはそれ相応の理由があるに違いないのだから、そこに介入するのは警察の権限ではない」と云う姿勢でしか対応しませんでしたし、その結果として詩織さんが殺害されてしまった後も、マスコミは「あれだけ酷い殺され方をするには被害者の方にも理由があるに違いない」と云う見解の報道をしました。曰くブランド好き、男好き、派手好き、遊び好き、キャバクラ嬢だった・・・。これらの報道の多くは事実無根のデマでしかなかったにも関わらず、事件の謎が深まるに連れ報道はますます加熱していき、遺族は最愛の娘を奪われたばかりか報道被害によって著しく名誉を傷つけられると云う二重の災禍を背負うことになってしまいました。
この本では、テレビ朝日の『ザ・スクープ』と云う番組取材班の尽力によって、マスコミに対して固く心を閉ざしていた遺族の信頼を得て警察の初動捜査の不備と不正を告発し、さらにはストーカー規制法を成立させる原動力ともなった関係者たちの“戦い”の経緯がかなり分りやすく読みやすくレポートされています。
むしろちょっと分りやす過ぎる、ドラマティックすぎる印象も拭えませんが、それまでの警察、報道のあり方を大きく変えることになった“時代の分岐点”を知るには充分良い資料だと云えるかもしれません。
『桶川女子大生ストーカー殺人事件』、『淳』、『「少年A」この子を生んで』にはそれぞれ、ありふれた平凡な家庭が登場します。どの本の親も子どもを精一杯愛していたし、どの子どももどこにでもいる普通の子でした。
本当は、「どこにでもいるありふれた普通の家庭」なんて存在しないのかもしれません。そんなものは所詮夢幻なのかもしれない。現にこの3家族は、事件によってそれまでの生活を永遠に失ってしまった。でもそのきっかけは日常的な、ほんの些細なことだったし、そのために「ささやかな普通の生活」を奪われることになるとは当事者の誰もが想像もしなかった筈です。
逆に云うなら、ここに描かれたような事件は今や誰の身に起こっても不思議はない、今はそんな時代なのかもしれない。
イヤな世の中になった、と云う言い方はフェアではない。そんな世の中になるだけの理由が、これまでにも確かにあった筈なのに、我々がそれに気づこうとしなかっただけのことだと思います。
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神戸連続児童殺傷事件の加害少年A、いわゆる“酒鬼薔薇聖斗”が昨日、収容されていた医療少年院を仮退院しました。
事件当時14歳だった彼ももう21歳。改めて7年と云う歳月の重さを感じます。
ぐりは以前ある事情でこの事件について書かれた本を何冊か同時に読んだことがありますが、その時強く感じたのは「人が事実を事実として他人と共有しながら、あくまで個人として生きていくことの難しさ」でした。
例えば被害者の父の手記と、加害者少年Aの両親の手記には同一の出来事がそれぞれに書かれている箇所がいくつもあります。これは被害者である土師淳くんと少年Aが普段から家を行き来する間柄だったからで、それぞれの本にはそれぞれの親が感じたこと、覚えていることが当然書かれている訳ですが、それがことごとく異なった見解になっている。場合によっては180度違う、全く逆の見解として書かれている。ひとつひとつは些細なことだけど、こうした「事実を事実として受け入れ認めることの難しさ」の積み重ねが、形を変えて事件へと繋がっていくような気がしました。
ぐりはこの『淳(土師守著)』『「少年A」この子を生んで・・・・・・父と母 悔恨の手記』の2冊以外のルポルタージュも何冊か読みましたが、この2冊に関しては同時に読まれることを特にオススメしたい本です。2冊とも、親としての子に対する愛情にあふれた感動的な本です。愛してさえいれば何もかもが赦される訳ではないと云うことがこれほど悲しく感じられる本は、他に無いかもしれません。
この神戸連続児童殺傷事件以降、想像を絶して残忍な少年犯罪が続発し2000年に少年法が改正されるきっかけになりましたが(この法案成立に際し土師守氏も国会で参考人として答弁している)、一方で同じ年に成立したストーカー規制法のきっかけになったのが桶川女子大生ストーカー殺人事件です。
実はぐりもストーカー被害に遭ったことがあります。何年も前のことで、期間もそれほど長くなかったし、桶川の被害者ほど深刻な事態には至りませんでしたが、それでも何度も警察のお世話になりましたし、その時味わった恐怖感は今も忘れることが出来ません。これからも忘れられる日が来るとは想像しにくいです。
ストーカー被害の難しいところは、その苦しみ、恐怖が第三者に非常に伝わりにくいと云うことです。ただひとつ云えるのは、どんな人間にとっても健康で平和な生活が最も大切であり、何者にもそれを脅かす権利は断じてないと云うことです。たとえどんな事情があるにせよ、人が人を脅迫したり嫌がらせをしたりしても構わないと云う法はどこにもない。
この事件が起きた時、被害を訴えた猪野さん一家に対して警察は「嫌がらせを受けるにはそれ相応の理由があるに違いないのだから、そこに介入するのは警察の権限ではない」と云う姿勢でしか対応しませんでしたし、その結果として詩織さんが殺害されてしまった後も、マスコミは「あれだけ酷い殺され方をするには被害者の方にも理由があるに違いない」と云う見解の報道をしました。曰くブランド好き、男好き、派手好き、遊び好き、キャバクラ嬢だった・・・。これらの報道の多くは事実無根のデマでしかなかったにも関わらず、事件の謎が深まるに連れ報道はますます加熱していき、遺族は最愛の娘を奪われたばかりか報道被害によって著しく名誉を傷つけられると云う二重の災禍を背負うことになってしまいました。
この本では、テレビ朝日の『ザ・スクープ』と云う番組取材班の尽力によって、マスコミに対して固く心を閉ざしていた遺族の信頼を得て警察の初動捜査の不備と不正を告発し、さらにはストーカー規制法を成立させる原動力ともなった関係者たちの“戦い”の経緯がかなり分りやすく読みやすくレポートされています。
むしろちょっと分りやす過ぎる、ドラマティックすぎる印象も拭えませんが、それまでの警察、報道のあり方を大きく変えることになった“時代の分岐点”を知るには充分良い資料だと云えるかもしれません。
『桶川女子大生ストーカー殺人事件』、『淳』、『「少年A」この子を生んで』にはそれぞれ、ありふれた平凡な家庭が登場します。どの本の親も子どもを精一杯愛していたし、どの子どももどこにでもいる普通の子でした。
本当は、「どこにでもいるありふれた普通の家庭」なんて存在しないのかもしれません。そんなものは所詮夢幻なのかもしれない。現にこの3家族は、事件によってそれまでの生活を永遠に失ってしまった。でもそのきっかけは日常的な、ほんの些細なことだったし、そのために「ささやかな普通の生活」を奪われることになるとは当事者の誰もが想像もしなかった筈です。
逆に云うなら、ここに描かれたような事件は今や誰の身に起こっても不思議はない、今はそんな時代なのかもしれない。
イヤな世の中になった、と云う言い方はフェアではない。そんな世の中になるだけの理由が、これまでにも確かにあった筈なのに、我々がそれに気づこうとしなかっただけのことだと思います。