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昨日、群馬県で小学生の女の子が、同じ団地の隣人に殺害されると云う事件がありました。
容疑者の自室からは少女のビデオやDVDが発見されていると云う報道もあります。
たぶん、世間ではこの報道を見て宮﨑勤幼女連続殺人事件を連想した人も多いのではないでしょうか。
その宮﨑勤の著書として98年に発行されたのが『夢のなか─連続幼女殺人事件被告の告白』です。
実際には、被告と編集部との書簡によるインタビューや裁判に関わった識者の評論をまとめた本で、被告自身の著作とは云いにくいです。
事件当時、非力な幼女を次々に殺害すると云う事件そのものの残忍さもさることながら、センセーショナルな「犯行声明文」や宮﨑被告がビデオのコレクターだったことが大きな話題を呼び、それまではほんの一部で使われていた内輪の表現だった“オタク”と云う言葉が一人歩きしたり、残酷なスプラッタホラーや幼児ポルノの存在が事件に深い関わりがあるかのような報道もさんざんされていました。
現に当時高校生だったぐりも、「宮﨑勤は小さな女の子が裸にされてバラバラに切り刻まれ、血飛沫や内臓が飛び出すようなビデオが好きな変質者」という風な印象を持ち、それが事実だと受け止めていました。
ところがこの本を読んでみると、そうした報道のほとんどが真っ赤なウソであることが分かって来ます。
例えば、何度も何度もメディアに登場した被告の部屋にぎっしりと積み上げられていた5783本のビデオテープのコレクションのうち、死体などが登場する残虐なシーンを含むもの=ホラーと警察が規定したものは39本、少女が登場するもの=ロリータと警察が規定したものは44本と云う数字が裁判で明らかになっている、と云う記述があります。この規定はあくまで警察の判断なので、見る人が違えばその本数はまた変わって来るでしょう。ちなみに他で最も多いのは被告自身が幼少時代に見ていた子ども向け番組を録画したものだそうです。
5783分の83=約1.4%。数字だけを見れば、被告が「小さな女の子が裸にされてバラバラに切り刻まれ、血飛沫や内臓が飛び出すようなビデオ」の世界に現実感が失くなるまで陶酔していたとは考えにくいんじゃないかと思います。
なので被告の“オタクで異常性愛者”と云うイメージはほぼ報道によって捏造されたと云っても過言ではないようです。
また、インタビューを読む限りではその真偽を一切問わないとすれば、被告が決して「成熟した正常な大人」ではないことがハッキリと分かります。
何が正常で何が異常かと云う線引きこそ非常にあやふやなものですが、このインタビューでは被告の異常性は疑う余地が全く無い。そして、彼の成育状況にはかなり大きな欠陥があったにも関わらず、家族や学校など周囲の人間が誰ひとりそれに何の対処もしなかったことが彼の人格障害を生み出したかあるいは助長させ、事件に至る大きな要因となっていると云うことが「裁判で明らかになっている」と書かれている。
ビデオの内容に関しても家族のことに関しても裁判で明らかにされているにも関わらず、それがきちんとした形で、それまでの「宮﨑勤=オタクで異常性愛者」と云う報道を矯正する形で報道された形跡はありません。少なくともぐりの記憶にはない。みなさんはどうでしょう。
先日読んだ『桶川女子大生ストーカー殺人事件』でも思いましたが、実は報道とは、事実かそれに近い情報を伝えるモノではないらしいですね。
新聞だって週刊誌だって売上げがかかってるしテレビだって視聴率がいちばん大事です。商売ですから。
そのためには分りやすかったり、視聴者の興味をそそるような刺激的な要素が大切になる。そうすると自然に同時代の流行に沿う形に表現が歪められていく。桶川の場合は“被害者はコギャル”、宮﨑勤の場合は“容疑者はオタクの異常性愛者”と云う風に表現した方がより分りやすく刺激的な報道になる。
それが、事実とは明らかに異なっていたとしても、一旦分りやすく刺激的な情報が流れてしまった後では、どれだけ正確な情報が公開されたところで誰もそんなもの見向きもしません。
ぐりは宮﨑勤がオタクであろうがなかろうが、死刑になろうがなるまいが、そんなことはどうでもいいです。
でも、なぜ宮﨑勤や酒鬼薔薇聖斗が無抵抗な子どもを殺害しなければならなかったのか、子どもたちはなぜ殺されなければならなかったのか、そのことに、社会全体が真剣に正面から向き合わない限りは、去年長崎男児殺害事件が起き、昨日群馬での事件が起きてしまったように、宮﨑被告のような人間はまた現れ、同じような事件が繰り返されるだけだと思います。それではあまりに救いがなさ過ぎる。
そんな未来を避けるために、報道は報道のあり方、社会的存在意義をしっかりと考え直すべきだし、受け止める側の我々にもそれ相応の姿勢が必要だと思います。
昨日、群馬県で小学生の女の子が、同じ団地の隣人に殺害されると云う事件がありました。
容疑者の自室からは少女のビデオやDVDが発見されていると云う報道もあります。
たぶん、世間ではこの報道を見て宮﨑勤幼女連続殺人事件を連想した人も多いのではないでしょうか。
その宮﨑勤の著書として98年に発行されたのが『夢のなか─連続幼女殺人事件被告の告白』です。
実際には、被告と編集部との書簡によるインタビューや裁判に関わった識者の評論をまとめた本で、被告自身の著作とは云いにくいです。
事件当時、非力な幼女を次々に殺害すると云う事件そのものの残忍さもさることながら、センセーショナルな「犯行声明文」や宮﨑被告がビデオのコレクターだったことが大きな話題を呼び、それまではほんの一部で使われていた内輪の表現だった“オタク”と云う言葉が一人歩きしたり、残酷なスプラッタホラーや幼児ポルノの存在が事件に深い関わりがあるかのような報道もさんざんされていました。
現に当時高校生だったぐりも、「宮﨑勤は小さな女の子が裸にされてバラバラに切り刻まれ、血飛沫や内臓が飛び出すようなビデオが好きな変質者」という風な印象を持ち、それが事実だと受け止めていました。
ところがこの本を読んでみると、そうした報道のほとんどが真っ赤なウソであることが分かって来ます。
例えば、何度も何度もメディアに登場した被告の部屋にぎっしりと積み上げられていた5783本のビデオテープのコレクションのうち、死体などが登場する残虐なシーンを含むもの=ホラーと警察が規定したものは39本、少女が登場するもの=ロリータと警察が規定したものは44本と云う数字が裁判で明らかになっている、と云う記述があります。この規定はあくまで警察の判断なので、見る人が違えばその本数はまた変わって来るでしょう。ちなみに他で最も多いのは被告自身が幼少時代に見ていた子ども向け番組を録画したものだそうです。
5783分の83=約1.4%。数字だけを見れば、被告が「小さな女の子が裸にされてバラバラに切り刻まれ、血飛沫や内臓が飛び出すようなビデオ」の世界に現実感が失くなるまで陶酔していたとは考えにくいんじゃないかと思います。
なので被告の“オタクで異常性愛者”と云うイメージはほぼ報道によって捏造されたと云っても過言ではないようです。
また、インタビューを読む限りではその真偽を一切問わないとすれば、被告が決して「成熟した正常な大人」ではないことがハッキリと分かります。
何が正常で何が異常かと云う線引きこそ非常にあやふやなものですが、このインタビューでは被告の異常性は疑う余地が全く無い。そして、彼の成育状況にはかなり大きな欠陥があったにも関わらず、家族や学校など周囲の人間が誰ひとりそれに何の対処もしなかったことが彼の人格障害を生み出したかあるいは助長させ、事件に至る大きな要因となっていると云うことが「裁判で明らかになっている」と書かれている。
ビデオの内容に関しても家族のことに関しても裁判で明らかにされているにも関わらず、それがきちんとした形で、それまでの「宮﨑勤=オタクで異常性愛者」と云う報道を矯正する形で報道された形跡はありません。少なくともぐりの記憶にはない。みなさんはどうでしょう。
先日読んだ『桶川女子大生ストーカー殺人事件』でも思いましたが、実は報道とは、事実かそれに近い情報を伝えるモノではないらしいですね。
新聞だって週刊誌だって売上げがかかってるしテレビだって視聴率がいちばん大事です。商売ですから。
そのためには分りやすかったり、視聴者の興味をそそるような刺激的な要素が大切になる。そうすると自然に同時代の流行に沿う形に表現が歪められていく。桶川の場合は“被害者はコギャル”、宮﨑勤の場合は“容疑者はオタクの異常性愛者”と云う風に表現した方がより分りやすく刺激的な報道になる。
それが、事実とは明らかに異なっていたとしても、一旦分りやすく刺激的な情報が流れてしまった後では、どれだけ正確な情報が公開されたところで誰もそんなもの見向きもしません。
ぐりは宮﨑勤がオタクであろうがなかろうが、死刑になろうがなるまいが、そんなことはどうでもいいです。
でも、なぜ宮﨑勤や酒鬼薔薇聖斗が無抵抗な子どもを殺害しなければならなかったのか、子どもたちはなぜ殺されなければならなかったのか、そのことに、社会全体が真剣に正面から向き合わない限りは、去年長崎男児殺害事件が起き、昨日群馬での事件が起きてしまったように、宮﨑被告のような人間はまた現れ、同じような事件が繰り返されるだけだと思います。それではあまりに救いがなさ過ぎる。
そんな未来を避けるために、報道は報道のあり方、社会的存在意義をしっかりと考え直すべきだし、受け止める側の我々にもそれ相応の姿勢が必要だと思います。