『シズコズ ドーター』キョウコ・モリ著
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12歳の有紀を残して、母静子は自ら命を絶った。ほどなく父はかねてからの不倫相手と再婚するが、母を失った悲しみを新し?「家庭に癒されることのない有紀は、孤独の中で亡き母との濃密な愛の日々を反芻する。神戸と兵庫の田舎を舞台に、四季の花々に彩られた苛酷な少女時代を描く。
なんで『シズコズ ドーター』なのか?『静子の娘』じゃいかんのか?大体なんでまた日本人が英語で日本を舞台にした小説を書くのか?
その経緯は編集後記で簡単に著者の略歴として触れられています。神戸生まれ、12歳で自殺によって母を亡くし、父は間もなく再婚。20歳で渡米・移住し以降アメリカで執筆活動を続ける。本書の日本語訳を自ら拒んだ・・・。
つまりこの小説はフィクションでありながら著者本人の体験をかなり濃く反映した物語なのです。そりゃしんどいな。うん。
読み始めてすぐ、「なんかこの話読んだことがあるなぁ」と感じました。最愛の人を失った悲しみと無念を残された者同士分かち合い、互いをその悲劇から立ち直らせようとする人々の物語。
そう、『ノルウェイの森』ですね。
特にこの小説の舞台が神戸で、風景や季節の風物が印象的にちりばめられた情景描写、過分に感情的な表現を抑制した静かな文体が村上春樹のそれを連想させたせいもあるかもしれません。
『ノルウェイの森』で自殺するのは主人公“僕”の唯一の親友キズキ。ふたりは神戸で穏やかな高校時代を過ごすが、キズキはある日突然死んでしまう。傷心のまま進学した“僕”とキズキの恋人・直子は東京で再会する。
直子は結局恋人の死から立ち直れずやはり死を選ぶことになりますが、母を失った有紀は強く逞しくしなやかに成長していきます。その道のりは長く険しくページをめくれどめくれどせつないシーンの連続です。有紀本人も「どんなに愛していてもいつか別れなくてはならないなら、愛することに価値なんか無い」と考え、父も継母も思春期に覚える筈の恋をも拒否し続けます。
でも人が生きていく限り後ろを向いてばかりはいられない。生きていくには人は前を向いて顔を上げて歩いていかなくてはならないし、そんな道程で互いに手を取りあって歩ける人を持つことは素晴しい。
さびしい少女時代を乗り越え、死んでしまった家族の愛を糧に青春へ羽ばたいていこうとする生命力の強さが、美しく描かれた物語です。
作中では静子がなぜ死んでしまったのか、具体的な理由は描かれていません。『ノルウェイの森』のキズキもそうでした。周囲の人は、愛する人がなぜ自ら死を選んだのか理解出来ず、それぞれに自分を責めて苦しみます。
本来、死のうとする人の本当の気持ちなんて他人には分かりようもないのかもしれません。家族にも愛する人にも理解されない、まして言葉と云う不完全な形で表現出来ないほどの深い絶望があるから、そしてその絶望は他人にどうか出来るようなものではないから、人は死を選ぶのかもしれない。
そう云えば『自殺死体の叫び』(上野正彦著)に、高齢者の自殺理由に「病苦」とよく書かれるけれど、アレはほとんどが遺族の都合にあわせたウソだと云うような記述がありました。本当の理由なんか警察の調書に書きたがる遺族はまずいない。大抵の遺族は世間体を慮って「病苦」で片づけたがるし、やがてはそれが「事実」とされてしまう。それが今現実を生きている遺族のためだと誰もが信じている。
今もアメリカに住む著者が、有紀のように人を愛することに価値を見い出せるような人生を送っていればいいなと思います。
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12歳の有紀を残して、母静子は自ら命を絶った。ほどなく父はかねてからの不倫相手と再婚するが、母を失った悲しみを新し?「家庭に癒されることのない有紀は、孤独の中で亡き母との濃密な愛の日々を反芻する。神戸と兵庫の田舎を舞台に、四季の花々に彩られた苛酷な少女時代を描く。
なんで『シズコズ ドーター』なのか?『静子の娘』じゃいかんのか?大体なんでまた日本人が英語で日本を舞台にした小説を書くのか?
その経緯は編集後記で簡単に著者の略歴として触れられています。神戸生まれ、12歳で自殺によって母を亡くし、父は間もなく再婚。20歳で渡米・移住し以降アメリカで執筆活動を続ける。本書の日本語訳を自ら拒んだ・・・。
つまりこの小説はフィクションでありながら著者本人の体験をかなり濃く反映した物語なのです。そりゃしんどいな。うん。
読み始めてすぐ、「なんかこの話読んだことがあるなぁ」と感じました。最愛の人を失った悲しみと無念を残された者同士分かち合い、互いをその悲劇から立ち直らせようとする人々の物語。
そう、『ノルウェイの森』ですね。
特にこの小説の舞台が神戸で、風景や季節の風物が印象的にちりばめられた情景描写、過分に感情的な表現を抑制した静かな文体が村上春樹のそれを連想させたせいもあるかもしれません。
『ノルウェイの森』で自殺するのは主人公“僕”の唯一の親友キズキ。ふたりは神戸で穏やかな高校時代を過ごすが、キズキはある日突然死んでしまう。傷心のまま進学した“僕”とキズキの恋人・直子は東京で再会する。
直子は結局恋人の死から立ち直れずやはり死を選ぶことになりますが、母を失った有紀は強く逞しくしなやかに成長していきます。その道のりは長く険しくページをめくれどめくれどせつないシーンの連続です。有紀本人も「どんなに愛していてもいつか別れなくてはならないなら、愛することに価値なんか無い」と考え、父も継母も思春期に覚える筈の恋をも拒否し続けます。
でも人が生きていく限り後ろを向いてばかりはいられない。生きていくには人は前を向いて顔を上げて歩いていかなくてはならないし、そんな道程で互いに手を取りあって歩ける人を持つことは素晴しい。
さびしい少女時代を乗り越え、死んでしまった家族の愛を糧に青春へ羽ばたいていこうとする生命力の強さが、美しく描かれた物語です。
作中では静子がなぜ死んでしまったのか、具体的な理由は描かれていません。『ノルウェイの森』のキズキもそうでした。周囲の人は、愛する人がなぜ自ら死を選んだのか理解出来ず、それぞれに自分を責めて苦しみます。
本来、死のうとする人の本当の気持ちなんて他人には分かりようもないのかもしれません。家族にも愛する人にも理解されない、まして言葉と云う不完全な形で表現出来ないほどの深い絶望があるから、そしてその絶望は他人にどうか出来るようなものではないから、人は死を選ぶのかもしれない。
そう云えば『自殺死体の叫び』(上野正彦著)に、高齢者の自殺理由に「病苦」とよく書かれるけれど、アレはほとんどが遺族の都合にあわせたウソだと云うような記述がありました。本当の理由なんか警察の調書に書きたがる遺族はまずいない。大抵の遺族は世間体を慮って「病苦」で片づけたがるし、やがてはそれが「事実」とされてしまう。それが今現実を生きている遺族のためだと誰もが信じている。
今もアメリカに住む著者が、有紀のように人を愛することに価値を見い出せるような人生を送っていればいいなと思います。