落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

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2006年05月25日 | movie
『ネバーランド』
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幼稚園の発表会で『ピーター・パン』を上演したことがある。
ぐりの役はタイガー・リリー。インディアンの酋長の娘で、海賊に誘拐されて岩に縛りつけられワニに食べられそうになっているところをピーター・パンに助けられる。確かピーター・パン役は幼馴染みのむーちゃんという男の子だった。むーちゃんはぐりにザリガニ釣りや縄跳びや逆上がりを教えてくれた子だ。海賊の船長役は大柄ないじめっ子でセイイチくん。この子とぐりはしょっちゅう喧嘩ばかりしていた。
映画『ネバーランド』は19世紀末から20世紀初めのイギリスで活躍した劇作家ジェームズ・バリ(ジョニー・デップ)が、デイヴィズという不運な一家との友情を通して傑作『ピーター・パン』を生み出す過程を、夢と幻想と苛酷な現実とを織りまぜて描いた物語だ。

バリは空想好きな少年のまま大人になってしまったような男だが、人は誰もが彼のような部分をもっている。だが大人になればそうした子どもの部分は胸の奥に隠して、現実と戦わなければならない。大人として社会に対して果たすべき義務をもつうえで、「子ども」は未熟なだけの厄介な要素でしかない。
大人になること/大人であることを少年時代に否定してしまったバリにとって、自分の中の「子ども」を封じ、大人として大人の社会を生きるのは孤独だったかもしれない。しかし人はみな、「大人」の仮面をかぶり「子ども」を胸の奥に秘めて孤独でないふりをして暮している。彼だけではない。
バリは「子ども」でいることを否定しようとするデイヴィズ兄弟に出会って、そのことに気づいたのだ。
「大人」でいることを受け入れられないバリと、「子ども」でいられない子どもたち、という対比。

物語としてはとてもよくできていると思う。実はこの映画は史実にアレンジを加えてコンパクトにまとめてあるらしい。そのあたりは公式HPとBlog jazz lifeさんのレビューに詳しいです。
そこまではよかったのだが、主人公が子どもたちとの交流によって成功を導きだす心あたたまる物語のはずが、どうにもこうにも映画全体のトーンが暗すぎてみていてしんどい。デイヴィズ家の背負った不幸が重過ぎるのだろうか。父親を失ったとはいえ、あんな幼い子ども全員が「死」がどういうものなのか、彼らのようにしっかりと理解しているものだろうか。理解していたとしても、もう少し展開の明暗にメリハリがあってもよかったような気がする。シルヴィア(ケイト・ウィンスレット)とバリとの関係もやや堅苦しすぎる。人物の相関関係が硬直していて窮屈なのだ。
豊かな想像力によって誰の心も自由であれるはず、というストーリーのコンセプトと、映画の世界観が微妙にズレている。バリとデイヴィズ家の友情が悲劇的であったことは事実のようだが、それにしてももう少しバランスのとれたアプローチはなかったものか。上品な文芸映画にしたかった気持ちはわかるんだけどねえ。
ときどき挿入される幻想シーンが非常に美しい。緑豊かな公園や山荘も綺麗。子役もみんなかわいい。とくにピーター役のフレディ・ハイモアとジョージ役のニック・ラウドの演技は素晴しかったです。