落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

不幸の科学

2006年09月15日 | book
『ブレンダと呼ばれた少年』 ジョン・コラピント著 村井智之訳
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1965年、カナダ・ウィニペグで一組の一卵性双生児の男の子が生まれた。名前をブルースとブライアンという。
生後8ヶ月になるころ、仮性包茎が原因で尿が出にくい状態になったため、ふたりは包皮除去手術を受けることになった。手術中の事故でブルースはペニスのほとんどを失うという大火傷を負い、一方のブライアンは結局手術を受けないまま包茎は治癒した。
性器を失くした息子をどう育てるか苦悩した若い両親は、当時世界的にマスコミの注目を浴びていた性科学者のアドバイスに従ってブルースに性転換手術を受けさせ、女の子として育てることにした。ウーマンリブ全盛の時代、今も一部で頑なに信じられている「性は生まれより育ちによって規定される」という主張で広く支持を集めていた科学者にとって、またとない絶好の人体実験の被験者となった双子はその後どうなったのか。両親と科学者の生立ちから被験者本人や彼らに関わった人々への詳細な調査とインタビューがまとめられた医学ルポルタージュが、本書『ブレンダと呼ばれた少年』である。

「性は生まれより育ちによって規定される」というこの実験の起点となった説は、現在医学的に完全に否定されている。というか、本書を読めばわかることだが、この学説そのものにほとんど裏付け可能な根拠が実在しなかったことが証明されているのだ。日進月歩で進化する医学界ではごく当り前のことかもしれない。しかし重要なことは、そうした医学の進歩ではなくて、この説を唱えた科学者が医師免許を持たない心理学者であり、彼の名声によってこの説の不十分さと実験の失敗が長い間秘匿されてきたことだ。
そう、ブルースに施された性転換手術と女の子として育てていく治療はものの見事に失敗し、彼本人と家族の生涯を目も当てられないほど残虐に破壊した。それなのに、それなのに、この一大スキャンダルが医学界とマスコミから無視され続けている間に、同じ悲劇が他の同じような状況に陥った何人もの子どもたちの身に起きていたのだ。
文字通り、ブルースの一生はめちゃくちゃになってしまった。この本の原書が出版された2000年の時点では、デイヴィッドと改名したブルース─女の子だったときはブレンダと名乗っていた─は女性と結婚し3人の継子の父となり自立した社会人としてたくましく生きていた。しかしその後仕事に失敗したうえ離婚し、2004年に38歳の若さで自殺してしまった。弟のブライアンはその2年前にやはり自殺している。ふたりの自殺の経緯は不明だが、アイデンティティを否定する残酷な人体実験を強要された孤独な子ども時代が、彼らの死に何の関係もないとは誰にもいえない。

ぐり個人は「性は生まれより育ち」という説をまったく支持しないわけではない。
ぐりがセクシュアリティやジェンダーをテーマとする議論に興味をひかれるのは、ぐり自身がひどい男女差別意識のなかで育ったからだ。ぐりの両親はとくに男女差別意識の強い人々ではなかったが、他の親族はほんとうにほんとうにひどかった。たとえば、ぐりには両親の両家あわせて従兄弟が80人近くいるのだが(ちゃんと勘定したことはないけど大体そのくらい)、女の子で大学に進学したのはぐりのうちの三姉妹のみである。他は高校にも行かなかったか、行って専門学校止まり、成人後実家の援助なしに自活している従姉妹はひとりしかいない。他は早くに主婦になるか、ずっと家事手伝いをしている。みんなが「女の子は嫁にいって子を生めばよし」「女の子に学は必要ない」としか考えていなかったからだ。
いうまでもないがぐりもぐりの妹たちも両親も、そいう考え方にはいっさい共感することができない。てゆーか個人的には今どきこんな考え方が現実にありえるのかも理解できないんだけど、同じ血縁でも家庭環境によってここまで人生観が変わるんだから、「性は生まれより育ち」という説があながち真っ赤な嘘ともいいきれないです。ハイ。

つーか男であるとか女であるとかってどこで決まるんだろうか?
ぐりはペニスがあるから男で、ないから女、あるいはないなら女にしちゃおう、という問題の心理学者ジョン・マネーの発想そのものがおかしいと思ったです。
大体、この本に出てくるどの論文にもペニスや睾丸を除去して女の子として育てられた症例はいくつもあるけど、逆に肥大したクリトリスを補完して男の子として育てられた症例はひとつもない。ペニスがあるから男、ないなら女なんて決め方は乱暴すぎる。あえて強いていうなら、ペニスがあるから男、ヴァギナがあるから女、どっちともいえない状態なら(もちろん性器も身体の一部なので、他の部位と同じく未発達/奇形の状態で生まれる子どももいる)とりあえずペンディング、ではなぜいけないのか。
人間とチンパンジーのDNAはわずか2%しか違いがないという説がある(否定論もある)。要するにカンタンにいっちゃえば人間とチンパンジーは遺伝子的にはほとんど同じ生き物だ。チンパンジーは雌の子も雄の子も同じように育てられる。人間の子どもみたいに、男の子にはバットやグローブ、女の子にはお人形やままごと道具、なんて別のオモチャを与えられたりはしない。それでも時期が来れば雄の子は雌を求めるし、雌の子は雄を求めるようになる。子どもは勝手に雌になったり雄になったりする。
人間はチンパンジーよりも生物学的にも社会的にも微妙に複雑な生き物だから、そう単純にはことは運ばない。けど医学的な知識のないぐりにもいえることは、そもそも男らしさや女らしさというのは生物学的背景とともに文化的環境的要素も大きく、その概念も個人や環境によって大きく異なるもので、医学的にも社会的にも本人の意志と関係なく一方的に押しつけられるべきものでは決してない、ということだ。セクシュアリティ/ジェンダーとは、本書の原題通り「自然がつくったままの姿('As Nature Made Him')」そのまま、まっすぐに育まれるべきものなのだ。それがいちばんハッピーではないですか?

本書の主人公・ブルース=ブレンダ=デイヴィッドの人生がこと細かく描かれた文面は、それこそページをみている両目を鋭い刃で思いっきり抉られるような痛みを伴うほど、異様に苛酷で無惨なものだ。涙が出るなんてなまやさしいものではない。実際読んでいて何度も何度も目をつぶって痛みを堪えなくてはならなかった。こんなひどいことができるほど、医学って科学ってそんなにエライものなんですかね?わからない。
逆にいえば、それだけの犠牲の上に、我々が享受している医学と科学の進歩は成り立っているともいえるのかもしれない。少なくとも、この本では「絶対的な学説」とそれに翻弄される世論の恐ろしさは非常によくわかる。
ところで、この巻末の解説とやらはカンペキ蛇足ですよね(2005年扶桑社版)?あたしゃこーゆー鬼のクビでもとったよーなエラソーな言説がいちばんクソだと思うよ。なんか激しく勘違いしてますよね。このヒト。