『家畜』 フランシス・キング著 横島昇訳
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決して実ることのない想いに身を焦がし、報われない相手に魂を捧げつくした挙句にズタズタに傷ついてしまう、そんな恋愛は誰にでもひとつやふたつ経験があるだろう。
ぐりにもありますよ。もちろん。すっげー昔だけど。青春時代よね。ほほほ。
そういうちょっと身におぼえのある読者にとってはかーなりイタイ物語です。これ。
時代は1960年代のイギリス。半ば成功した40代の作家トムソン氏は近所の女友だちの家に下宿しているイタリア人留学生にひとめ惚れしてしまい、大家が彼の生活態度を煙たがっているのをこれ幸いと自宅へひきとって同居を始めるのだが、問題の男は故郷に妻子がいるだけでなくたいへんな女好きだった。やがて彼は年端もいかない若い愛人を下宿にひっぱりこむようになり、彼女と彼との奇妙に緊迫した三角関係に主人公は懊悩する。
主人公が独身の中年イギリス人、相手が色事に達者なのが国民性ともいえるイタリア男という設定が類型的といえば類型的ではある。ストーリーも初めから結末がわかっているようなものだ。
でもこれものすごくおもしろいです。異様に緻密な人物描写と、その内面を鋭く克明に赤裸々に抉り出していくような、ときに冷酷ともいえるような筆致の確実さはもうまさに天晴れのひとこと。よくもここまで細かくかつストレートに描けるものだと思う。語彙がどうとか表現方法がどうとかいう問題ではない。対象に迫る力強さこそがすばらしいのだ。
絶対に叶わない恋に苦しみ、自ら差し出せるものを何もかも差し出して相手の足下にひたすら跪く主人公。いい年をして、社会的地位も信用もあるまともな大人がすることではない。誰がどうみてもみっともない。
けど恋をしている人間のすることなんてみんなみっともないものだ。そういう意味では彼はまことに潔い。自分の欲望や感情から逃げず、目を背けることもせず、ただただ忠実であろうとしている。ふつう人間そこまで正直にはなれない。みんな我が身かわいさにもっと小ずるく立ち回ったり卑怯になったりするものだ。それもまた恋ゆえなのだが、それを主人公はあえてしようとしない。みっともないならないまま、きたないならきたないまま、恋心のままに相手にすべてを与え続ける。
最初読んでいるうちは彼のこのみすぼらしいまでの献身がうざったく感じられるのだが(『リプリー』のマット・デイモンのウザさを想像していただきたい)、慣れてくると今度は相手のイタリア男の身勝手さが目についてくるのがまた不思議だ。主人公が恋に囚われながら恋に醒めてくるのと同時に、若く美しくセクシーだった素敵な人が、うわっつらだけ優しくて理知的に見えて単にあさはかで利己的なだけの哀れな貧しい人間にみえてくる。
それでも主人公は彼を思うことをやめられない。彼の不完全さをも愛しく懐かしく思う。そこが悲しい。なんのとくにもならない、まるで意味もなくどこへ行くあてもない恋を諦められない、それが人間の性というものなのだろうか。
この小説は恋愛小説ではない。
題材は恋愛だが、著者がほんとうに描き出そうとしているのは、恋愛によって浮かび上がる人間の愚かさや矮小さと、そこに反映される純粋さではないだろうか。そうでなければ、彼らの恋がこれほど苦しいばかりなのはあまりにせつなすぎる。
タイトルの“家畜”とはニーチェの「彼らは狼を犬にし、さらに人間そのものを、人間の最良の家畜にしたのだ」という言葉によるという。果たして“家畜”とは、イタリア男の虜になった主人公か、不倫の恋に溺れた愛人か、はたまた中年男の献身にほだされて自ら泥沼にはまったイタリア男なのか。
この物語は著者本人の実体験に基づいているそうだ。このため初版は作中人物のモデルになったさる著名人の訴訟と妨害によって改訂を余儀なくされ、オリジナル版の邦訳が出版されるまでに実に37年という歳月を要した。だが作品にはそうした経年による古さや綻びはいっさい見受けられない。それこそがこの作品が文学史に残る傑作といえる所以ではないかとぐりは思う。
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決して実ることのない想いに身を焦がし、報われない相手に魂を捧げつくした挙句にズタズタに傷ついてしまう、そんな恋愛は誰にでもひとつやふたつ経験があるだろう。
ぐりにもありますよ。もちろん。すっげー昔だけど。青春時代よね。ほほほ。
そういうちょっと身におぼえのある読者にとってはかーなりイタイ物語です。これ。
時代は1960年代のイギリス。半ば成功した40代の作家トムソン氏は近所の女友だちの家に下宿しているイタリア人留学生にひとめ惚れしてしまい、大家が彼の生活態度を煙たがっているのをこれ幸いと自宅へひきとって同居を始めるのだが、問題の男は故郷に妻子がいるだけでなくたいへんな女好きだった。やがて彼は年端もいかない若い愛人を下宿にひっぱりこむようになり、彼女と彼との奇妙に緊迫した三角関係に主人公は懊悩する。
主人公が独身の中年イギリス人、相手が色事に達者なのが国民性ともいえるイタリア男という設定が類型的といえば類型的ではある。ストーリーも初めから結末がわかっているようなものだ。
でもこれものすごくおもしろいです。異様に緻密な人物描写と、その内面を鋭く克明に赤裸々に抉り出していくような、ときに冷酷ともいえるような筆致の確実さはもうまさに天晴れのひとこと。よくもここまで細かくかつストレートに描けるものだと思う。語彙がどうとか表現方法がどうとかいう問題ではない。対象に迫る力強さこそがすばらしいのだ。
絶対に叶わない恋に苦しみ、自ら差し出せるものを何もかも差し出して相手の足下にひたすら跪く主人公。いい年をして、社会的地位も信用もあるまともな大人がすることではない。誰がどうみてもみっともない。
けど恋をしている人間のすることなんてみんなみっともないものだ。そういう意味では彼はまことに潔い。自分の欲望や感情から逃げず、目を背けることもせず、ただただ忠実であろうとしている。ふつう人間そこまで正直にはなれない。みんな我が身かわいさにもっと小ずるく立ち回ったり卑怯になったりするものだ。それもまた恋ゆえなのだが、それを主人公はあえてしようとしない。みっともないならないまま、きたないならきたないまま、恋心のままに相手にすべてを与え続ける。
最初読んでいるうちは彼のこのみすぼらしいまでの献身がうざったく感じられるのだが(『リプリー』のマット・デイモンのウザさを想像していただきたい)、慣れてくると今度は相手のイタリア男の身勝手さが目についてくるのがまた不思議だ。主人公が恋に囚われながら恋に醒めてくるのと同時に、若く美しくセクシーだった素敵な人が、うわっつらだけ優しくて理知的に見えて単にあさはかで利己的なだけの哀れな貧しい人間にみえてくる。
それでも主人公は彼を思うことをやめられない。彼の不完全さをも愛しく懐かしく思う。そこが悲しい。なんのとくにもならない、まるで意味もなくどこへ行くあてもない恋を諦められない、それが人間の性というものなのだろうか。
この小説は恋愛小説ではない。
題材は恋愛だが、著者がほんとうに描き出そうとしているのは、恋愛によって浮かび上がる人間の愚かさや矮小さと、そこに反映される純粋さではないだろうか。そうでなければ、彼らの恋がこれほど苦しいばかりなのはあまりにせつなすぎる。
タイトルの“家畜”とはニーチェの「彼らは狼を犬にし、さらに人間そのものを、人間の最良の家畜にしたのだ」という言葉によるという。果たして“家畜”とは、イタリア男の虜になった主人公か、不倫の恋に溺れた愛人か、はたまた中年男の献身にほだされて自ら泥沼にはまったイタリア男なのか。
この物語は著者本人の実体験に基づいているそうだ。このため初版は作中人物のモデルになったさる著名人の訴訟と妨害によって改訂を余儀なくされ、オリジナル版の邦訳が出版されるまでに実に37年という歳月を要した。だが作品にはそうした経年による古さや綻びはいっさい見受けられない。それこそがこの作品が文学史に残る傑作といえる所以ではないかとぐりは思う。