『呼び覚まされる 霊性の震災学』 金菱清(ゼミナール)編
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2011年夏、宮城県気仙沼市唐桑半島のある漁港で養殖業者の皆さんのお手伝いをした。
牡蛎や帆立、わかめや昆布の養殖が盛んなこの地域は、津波ですべての養殖筏を失っていた。その養殖業復旧のために、筏を固定させる重りである「土俵」をつくる作業に参加させていただいた(当時の投稿)。
60キロの砕石を量って4,000〜6,000袋の土嚢に詰めて口を縛る単純作業を、10数名の漁業者と50数名のボランティアで黙々とこなす真夏の炎天下での重労働。熱中症予防に定期的に休憩をいれ、アイスキャンディーや飲料で日陰で涼をとりながらの作業だったのだが、そんな休憩中に、つい「こんなに大勢でこんな単純作業、歌とか歌えるといいですね」と口が滑ってしまった。
話していた漁師さんは気を悪くした風もなく、淡々と「俺たち、まだ歌える気持ちになれねんだ」と答えてくれた。
そこにいた漁師さんだけではない。そのころボランティアとして私が被災地で出会った人、目にした人、見渡す限り視界にいた人のすべてが、あの災害で親しい人やたいせつなものを失い、絶望に苦しんでいた。たとえ顔では笑って元気そうに振る舞ってはいても、その絶望は簡単には心を去ってはいかない。その現実感が、何度被災地を訪ねても、私にはどうしても理解できていなかった。理解したくてもできない、見えない壁のようなものがあったのも事実だ。以降、日を追うに連れて、簡単にわかった気になってはいけないという戒めの気持ちも生まれた。
そのときは不用意にたたいてしまった軽口にひどく後悔したが、この失敗談には後日談もある。
このときいっしょに作業をした漁師さんのわかめ養殖が復旧して初めての収穫シーズン、わかめの芯抜きといって茎を手で取り除く作業をお手伝いしたとき、そのうちのおかあさんが「わかめの学校」という「めだかの学校」の替え歌を歌ってくれたのだ(当時の投稿)。
「わーかーめーの学校はー、津本浜ー
だーれが生徒か先生かー?みんなで芯抜きしているよー♪」
漁師さんたちは私があの夏に土俵づくりに参加したことを覚えていて「あのときも来てくれてたでしょ」と声をかけてくれて、また会えたこと、夏以降もお手伝いを続けていることを心から喜んでくれた。半年以上も前の、50人以上いたボランティアの中のひとりだった私を記憶していてくれたことに涙が出るほど感動したし、活動を続けていてほんとうによかったと心から思った。
震災から2年めの3月のことだった。あれからもう4年。「わかめの学校」のおかあさんも、その後亡くなってしまった。
2011年3月11日に発生した東日本大震災の犠牲者は15,893人、行方不明者は2,556人(2016年12月9日時点/警察庁)。震災後の関連死で亡くなった方は3,472人(2015年9月10日まで/復興庁)。
数字というものは冷酷なもので、字にしてしまえばただの字でしかない。2万人を超える人があの災害でこの世から消えてしまったという重みは、その向こうに霞んで、現実味のないどこか遠くの出来事のように感じてしまう。その最期の瞬間までそこにあったはずの21,921の人生とその物語はどうなってしまったのだろう。
大勢の人が命を失い、家も街も故郷も地震と津波で跡形もなく破壊され、人知と文明のすべてが否定された大災害。だがあれから5年が過ぎて、被災地はようやく少しずつ復興に向かって動き出している。嵩上げ工事や防潮堤建設工事は佳境にはいり、被災された方々の復興住宅への転居も1年前から始まっている。あの地獄とも思えた大災害の面影は被災地から姿を消し、悲劇は時間の経過とともに着実に過去のものになりつつある。
そんな被災地で、東北学院大学が震災死の周辺について調査したのがこのレポートである。
メディアにはタクシードライバーの霊体験ばかりとりあげられていたが、実際には、震災犠牲者の慰霊碑や震災遺構、犠牲者の遺体の仮埋葬と回葬作業など、震災死に関わる8つのテーマを社会学の専門家である編者と学生がそれぞれに調査している。
全部で180ページしかないなのでひとつひとつの調査レポートはあくまで学生の研究レポートの範囲を出ないし、完成度にもかなり幅はあるけど、被災地に暮らし、被災した方々に間近に寄り添って歩かなければ知ることのできない事実の数々に触れることのできる貴重な資料にはなっている。何度被災地に通おうと、いつか被災された方々の気持ちを理解できるようになるとは思えない私にとってはすごくありがたい本だった。
被災された方々にどれだけ親しく接しても、直接あの災害のことを訊ねることはなかなかできない。不用意に傷つけてはいけないという配慮ももちろんあるけれど、ご本人の中で整理がついて自分でお話したくなるようになるまで待つべきとも思っているからだ。実際、仲良くさせていただいている地元の方々が死んでしまった人たちのこと、あの日の体験を自ら口にして涙を浮かべるようになったのは、震災から2〜3年経ったあとのことだった。そこまで気持ちが落ち着いて、自分の中に災害との距離ができて初めて、悲しい、つらい、苦しいという感情が表情と言葉に出せるようになる。それほど深い絶望に、誰がどうやって踏み入ることができるだろう。
それほど悲しく、つらく、苦しい悲劇のなかのさらに最も悲しくつらく苦しい部分を、学術的に調査したこの研究のこれからがもっと知りたいと思う。このレポートでは宮城県石巻市・気仙沼市・塩竈市・名取市・南三陸町・山元町、岩手県山田町・宮古市、福島県浪江町のケースを取り上げているが、被災地はさらに広範囲にまたがっている。そして、人の記憶の中から災害の悲劇はどんどん薄れつつある。
でも薄れない人もいる。あの日のまま立ち止まった人、一歩が踏み出せない人、人生の半分をもぎとられたまま、どこにいけばいいのかわからなくなっている人もいる。
復興の名の下に忘れられようとしている2万の死と、その隣にいる人々の心を、このまま、見えないどこかに置き去りにしていいとは思えない。
自然の猛威のもとで、人がどれほど非力で愚かで脆い存在なのかということを記憶し続けるためにも。
復興支援レポート
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2011年夏、宮城県気仙沼市唐桑半島のある漁港で養殖業者の皆さんのお手伝いをした。
牡蛎や帆立、わかめや昆布の養殖が盛んなこの地域は、津波ですべての養殖筏を失っていた。その養殖業復旧のために、筏を固定させる重りである「土俵」をつくる作業に参加させていただいた(当時の投稿)。
60キロの砕石を量って4,000〜6,000袋の土嚢に詰めて口を縛る単純作業を、10数名の漁業者と50数名のボランティアで黙々とこなす真夏の炎天下での重労働。熱中症予防に定期的に休憩をいれ、アイスキャンディーや飲料で日陰で涼をとりながらの作業だったのだが、そんな休憩中に、つい「こんなに大勢でこんな単純作業、歌とか歌えるといいですね」と口が滑ってしまった。
話していた漁師さんは気を悪くした風もなく、淡々と「俺たち、まだ歌える気持ちになれねんだ」と答えてくれた。
そこにいた漁師さんだけではない。そのころボランティアとして私が被災地で出会った人、目にした人、見渡す限り視界にいた人のすべてが、あの災害で親しい人やたいせつなものを失い、絶望に苦しんでいた。たとえ顔では笑って元気そうに振る舞ってはいても、その絶望は簡単には心を去ってはいかない。その現実感が、何度被災地を訪ねても、私にはどうしても理解できていなかった。理解したくてもできない、見えない壁のようなものがあったのも事実だ。以降、日を追うに連れて、簡単にわかった気になってはいけないという戒めの気持ちも生まれた。
そのときは不用意にたたいてしまった軽口にひどく後悔したが、この失敗談には後日談もある。
このときいっしょに作業をした漁師さんのわかめ養殖が復旧して初めての収穫シーズン、わかめの芯抜きといって茎を手で取り除く作業をお手伝いしたとき、そのうちのおかあさんが「わかめの学校」という「めだかの学校」の替え歌を歌ってくれたのだ(当時の投稿)。
「わーかーめーの学校はー、津本浜ー
だーれが生徒か先生かー?みんなで芯抜きしているよー♪」
漁師さんたちは私があの夏に土俵づくりに参加したことを覚えていて「あのときも来てくれてたでしょ」と声をかけてくれて、また会えたこと、夏以降もお手伝いを続けていることを心から喜んでくれた。半年以上も前の、50人以上いたボランティアの中のひとりだった私を記憶していてくれたことに涙が出るほど感動したし、活動を続けていてほんとうによかったと心から思った。
震災から2年めの3月のことだった。あれからもう4年。「わかめの学校」のおかあさんも、その後亡くなってしまった。
2011年3月11日に発生した東日本大震災の犠牲者は15,893人、行方不明者は2,556人(2016年12月9日時点/警察庁)。震災後の関連死で亡くなった方は3,472人(2015年9月10日まで/復興庁)。
数字というものは冷酷なもので、字にしてしまえばただの字でしかない。2万人を超える人があの災害でこの世から消えてしまったという重みは、その向こうに霞んで、現実味のないどこか遠くの出来事のように感じてしまう。その最期の瞬間までそこにあったはずの21,921の人生とその物語はどうなってしまったのだろう。
大勢の人が命を失い、家も街も故郷も地震と津波で跡形もなく破壊され、人知と文明のすべてが否定された大災害。だがあれから5年が過ぎて、被災地はようやく少しずつ復興に向かって動き出している。嵩上げ工事や防潮堤建設工事は佳境にはいり、被災された方々の復興住宅への転居も1年前から始まっている。あの地獄とも思えた大災害の面影は被災地から姿を消し、悲劇は時間の経過とともに着実に過去のものになりつつある。
そんな被災地で、東北学院大学が震災死の周辺について調査したのがこのレポートである。
メディアにはタクシードライバーの霊体験ばかりとりあげられていたが、実際には、震災犠牲者の慰霊碑や震災遺構、犠牲者の遺体の仮埋葬と回葬作業など、震災死に関わる8つのテーマを社会学の専門家である編者と学生がそれぞれに調査している。
全部で180ページしかないなのでひとつひとつの調査レポートはあくまで学生の研究レポートの範囲を出ないし、完成度にもかなり幅はあるけど、被災地に暮らし、被災した方々に間近に寄り添って歩かなければ知ることのできない事実の数々に触れることのできる貴重な資料にはなっている。何度被災地に通おうと、いつか被災された方々の気持ちを理解できるようになるとは思えない私にとってはすごくありがたい本だった。
被災された方々にどれだけ親しく接しても、直接あの災害のことを訊ねることはなかなかできない。不用意に傷つけてはいけないという配慮ももちろんあるけれど、ご本人の中で整理がついて自分でお話したくなるようになるまで待つべきとも思っているからだ。実際、仲良くさせていただいている地元の方々が死んでしまった人たちのこと、あの日の体験を自ら口にして涙を浮かべるようになったのは、震災から2〜3年経ったあとのことだった。そこまで気持ちが落ち着いて、自分の中に災害との距離ができて初めて、悲しい、つらい、苦しいという感情が表情と言葉に出せるようになる。それほど深い絶望に、誰がどうやって踏み入ることができるだろう。
それほど悲しく、つらく、苦しい悲劇のなかのさらに最も悲しくつらく苦しい部分を、学術的に調査したこの研究のこれからがもっと知りたいと思う。このレポートでは宮城県石巻市・気仙沼市・塩竈市・名取市・南三陸町・山元町、岩手県山田町・宮古市、福島県浪江町のケースを取り上げているが、被災地はさらに広範囲にまたがっている。そして、人の記憶の中から災害の悲劇はどんどん薄れつつある。
でも薄れない人もいる。あの日のまま立ち止まった人、一歩が踏み出せない人、人生の半分をもぎとられたまま、どこにいけばいいのかわからなくなっている人もいる。
復興の名の下に忘れられようとしている2万の死と、その隣にいる人々の心を、このまま、見えないどこかに置き去りにしていいとは思えない。
自然の猛威のもとで、人がどれほど非力で愚かで脆い存在なのかということを記憶し続けるためにも。
復興支援レポート