『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』 池上正樹/加藤順子著
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いじめられっ子で友だちもあまりいなかった私は、小さいときから学校が好きではなかった。
学校生活(小中学校)にいい思い出はひとつもないし、だから思い入れも何もない。思いだしたくもないくらい惨めだった子ども時代の、ろくでもない舞台背景以上でもなければそれ以下でもない。
だから、震災復興ボランティアとして被災した地域を訪問して、学校という存在が地域にとってどんなにたいせつなものなのかを初めて知った。
最初に被災地で活動したときに寝泊まりしたのは石巻専修大学のグラウンドだった。その後、登米市旧鱒淵小学校の校舎に滞在して活動したこともあった。気仙沼市小泉中学校では、被災された方々の仮設住宅への引越しが終わった後に、避難所として使用された体育館の清掃に参加した。南三陸町歌津中学校でもお掃除をお手伝いした。気仙沼市小原木小学校ではお祭りのお手伝いをさせていただいた。
東北で、数えきれないくらいたくさんの学校にお世話になった。災害によってズタズタに破壊された地域の復興の要になっていたのは、やっぱり学校だった。
子どもたちが勉強し、成長の過程を友だちと共有する場所。行政と教職員にきちんと管理された、いちばん安全な場所。学校があるから地域の人はそこで子どもを生み育てることができる。地域社会の未来を担う場所。音楽会や運動会など、学校行事は地域のイベントでもあった。多くの地域で学校は災害時の避難場所にも指定されてもいた。避難生活が長引けば、学校は生活の場にもなった。
そんな学校の中で、戦後他に例がないという惨劇を引き起こしたのが、石巻市大川小学校だ。
確か、初めてその姿を見たのは震災から1ヶ月余り過ぎた4月末ごろだったと思う。雄勝町に炊出しの食事を届けにいく北上川沿いの堤防道路を右に折れる交差点から、その無惨な建物が見えた。地盤沈下で辺り一帯が湖のように冠水し、瓦礫が散乱したままの、泥だらけの学校。目の前の新北上大橋は津波で倒壊し、辺りには、そこに町があったことなど到底想像つかないほどに破壊しつくされ水浸しになった瓦礫が、累々と折り重なっていた。まだ遺体の捜索中でもあり、学校のある釜谷地区そのものが通行止めになっていたのを覚えている。
それから半年後の秋、福地体育研修センターで写真洗浄のボランティアをしたときのことは忘れられない(当時の投稿)。大川小学校から4キロほど川上にあり、もともとは1970年に閉校した大川第二小学校の体育館だった場所だ。その古びた小さな体育館いっぱいに、近隣で瓦礫の中から見つかったさまざまな品々が集められ、綺麗に洗って泥を落として並べられ、持ち主が引き取りにくるのを待っていた。
その中でもひときわ目を引いたのが、無数のランドセルの列だった。ランドセルだけではない。お揃いの何台ものピアニカやリコーダー、運動靴、野球のグローブ、バレーボール、制服、体育着、帽子。子どもたちの学用品、大切に使っていたであろう学校の備品の数々。いうまでもなく、津波に襲われた大川小学校から流失した品々だった。そしてそれらの持ち主の多くはもう、愛用の品を迎えにくることがなかった。
大川小学校周辺の瓦礫はそのころにはかたづけられていて、校門の前に無数の花束が手向けられていた。
あの日、地震直後に子どもたちは教職員の指導のもと校庭に避難し、全校児童108人中30人が迎えに来た家族と帰宅したか、当日欠席していて難を逃れている。保護者が帰宅を促しても「学校にいた方が安全だから」とその場に残った子どもたちもいた。教頭を始めとする教職員たちはラジオなどで津波が襲来することを知っていたが、なぜか50分以上も避難せず校庭に留まっていた。
地図を参照していただければすぐわかることだが、大川小学校の校舎は北上川と小渕山の山裾に挟まれた三角形の土地の先端に位置している。つまり川に向かってたって振り向けば、すぐ手の届くところに山=高台があった。子どもたちは日常的にこの山で遊んだり実習をしたりして登っていた。「山に逃げよう」と訴えた子どもも、教師もいたという。実際に山に登ろうとして叱られ、連れ戻された子もいた。
そこへ、2階建ての校舎を越えて、津波が襲いかかった。
そして校庭にいた78人のうち74人の児童と、校内にいた11人の教職員中10人、そしてスクールバスの運転手も犠牲になった。校舎の時計は、3時37分を指して止まっている。85人が命を奪われたその瞬間だ。
その日、保護者の多くは学校にいるのなら子どもたちは大丈夫だと信じ、自宅や避難所で子どもたちとの再会を待っていた。過疎の進んだ大川小学校の校区は広く、多くの子どもたちはスクールバスで通学していた。市街地や近隣の別の地域で働いていた保護者は地震直後に子どもを迎えにいける状況ではなかった。孤立した小学校に救助のヘリが向かっているという情報さえあった。だが待てど暮せど子どもたちは帰って来ない。
彼らが学校で起こったことを知ったのは震災2日後のことだった。泥水の中からみつかった子どもたちは苦しそうに目を閉じ、咄嗟に山肌にしがみつこうとしたのか、手の爪が剥がれた子もいたという。そんな子どもたちの遺体が、橋のたもとの三角地帯に並べられた。あの日、子どもたちが避難しようとしていた堤防の上の三角地帯だった。海抜の低い大川小学校からみれば堤防は確かに少し高くなってはいる。だがその向こうは川だ。なぜすぐ後ろの山に逃げなかったのか、どうして津波が来る川の方へ逃げたのか。そもそもどうして50分もの時間が校庭で無為に費やされたのか。
この本は2012年11月に刊行されているが、その時点でも、その後4年経ったいまも、はっきりしたことはわかっていない。なぜか。
まず校庭にいた当事者が5人しか生存していない。うち唯一生き残った教職員は震災直後の4月9日の保護者説明会を最後に、健康状態を理由にいっさいの証言を拒否しているため、文書や記録に残った彼の証言からしか状況を読みとることができない。だがその証言にも、当日この教諭本人に遭遇した目撃者が記憶している事実と大きくかけ離れた部分があり、真偽が疑われている。
残り4人は小学校の児童だが、一貫してメディアでの証言を続けて来た当時5年生の只野哲也くんを除く3人は、震災当初の石巻市教育委員会が実施した聞き取り調査以外に証言には応じていない。
ところがこの4人の子どもたちや保護者と帰宅して生き残った30人の聞き取りの記録にも、校長や教職員の証言にも、あまりに曖昧で不自然な部分が多すぎる。誰がどう見ても、都合の悪い事実を隠蔽し誤摩化そうとした形跡がありありとみてとれるのだ。
たとえば子どもたちは何人もが「山に逃げよう」と口々にいっていたことを証言し、保護者たちもそう聞いている。しかしあくまで市教育委はその事実を認めようとしなかったばかりか、子どもたちが避難を始めた時間までも誤摩化した。現場にいたのは児童と教職員ばかりではない。子どもや孫を迎えに来た親族や、避難して来た近隣住民もいた。つまり他にも目撃者がいたのだ。それなのに、学校の対応を正当化するために見え透いた嘘までついた市教育委など、誰も信頼できるはずがなかった。
この本が書かれた当時、遺族たちは決して学校や亡くなった教諭たちを責めようとはしていなかった。きっと誰もが最後まで子どもたちを必死にまもろうとしてくれていたはずと信じていた。
だが震災後なかなか学校に近寄ろうとせず遺体捜索にも立ち会わない校長の態度や、責任逃れにばかり拘泥する市教育委の姿勢が、絶望の底にいる遺族の心をさらに深く傷つけた。そして3年めの2014年3月、遺族23名が学校側の責任を追及し県と市を相手に損害賠償を求める裁判を起している。今年10月の一審判決では学校側が敗訴したが、県も市も判決を不服として控訴した。
大川小学校で子どもを亡くしても、遺族会に参加しない遺族もいれば訴訟にも関わっていない遺族もいる。石巻を離れ、被災地をあとにした方々もおられるだろう。学校があった釜谷や長面や尾崎など北上川河口付近の地域は津波と地盤沈下で壊滅し、人が住むことはできなくなった。インフラも復旧しなかった。地域のほとんどの子どもたちがいなくなり、学校も移転、ここに暮し続ける理由がなくなれば、去っていく人々を誰も責められはしない。
それでも真実が知りたくて、いまも必死に葛藤している遺族と生存者がいる。
なぜあの日、子どもたちが死ななくてはならなかったのか。助けられたはずの命がどうして失われなくてはならなかったのか、その事実をひもとくことこそが、未来の子どもたちの安全をまもる手だてになるからだ。
多くの遺族が撤去を求めた大川小学校校舎は、今年3月、存置が決定した。生存者である卒業生自身が「ここに同級生や先輩後輩が生きた証があるから」と訴えて存置にむけたはたらきかけもあった。
いま何を正当化しようとしまいと、子どもたちの命は二度とは戻らない。それなら、決して同じことを繰り返さない未来のために、できる限りのことをするのが、残された者の使命なのだろう。
その鍵を握る人物はひとりしかいない。彼が口を開いてくれるのを、おそらく誰もが心から待っている。
果たしてその日は、くるのだろうか。
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復興支援レポート
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いじめられっ子で友だちもあまりいなかった私は、小さいときから学校が好きではなかった。
学校生活(小中学校)にいい思い出はひとつもないし、だから思い入れも何もない。思いだしたくもないくらい惨めだった子ども時代の、ろくでもない舞台背景以上でもなければそれ以下でもない。
だから、震災復興ボランティアとして被災した地域を訪問して、学校という存在が地域にとってどんなにたいせつなものなのかを初めて知った。
最初に被災地で活動したときに寝泊まりしたのは石巻専修大学のグラウンドだった。その後、登米市旧鱒淵小学校の校舎に滞在して活動したこともあった。気仙沼市小泉中学校では、被災された方々の仮設住宅への引越しが終わった後に、避難所として使用された体育館の清掃に参加した。南三陸町歌津中学校でもお掃除をお手伝いした。気仙沼市小原木小学校ではお祭りのお手伝いをさせていただいた。
東北で、数えきれないくらいたくさんの学校にお世話になった。災害によってズタズタに破壊された地域の復興の要になっていたのは、やっぱり学校だった。
子どもたちが勉強し、成長の過程を友だちと共有する場所。行政と教職員にきちんと管理された、いちばん安全な場所。学校があるから地域の人はそこで子どもを生み育てることができる。地域社会の未来を担う場所。音楽会や運動会など、学校行事は地域のイベントでもあった。多くの地域で学校は災害時の避難場所にも指定されてもいた。避難生活が長引けば、学校は生活の場にもなった。
そんな学校の中で、戦後他に例がないという惨劇を引き起こしたのが、石巻市大川小学校だ。
確か、初めてその姿を見たのは震災から1ヶ月余り過ぎた4月末ごろだったと思う。雄勝町に炊出しの食事を届けにいく北上川沿いの堤防道路を右に折れる交差点から、その無惨な建物が見えた。地盤沈下で辺り一帯が湖のように冠水し、瓦礫が散乱したままの、泥だらけの学校。目の前の新北上大橋は津波で倒壊し、辺りには、そこに町があったことなど到底想像つかないほどに破壊しつくされ水浸しになった瓦礫が、累々と折り重なっていた。まだ遺体の捜索中でもあり、学校のある釜谷地区そのものが通行止めになっていたのを覚えている。
それから半年後の秋、福地体育研修センターで写真洗浄のボランティアをしたときのことは忘れられない(当時の投稿)。大川小学校から4キロほど川上にあり、もともとは1970年に閉校した大川第二小学校の体育館だった場所だ。その古びた小さな体育館いっぱいに、近隣で瓦礫の中から見つかったさまざまな品々が集められ、綺麗に洗って泥を落として並べられ、持ち主が引き取りにくるのを待っていた。
その中でもひときわ目を引いたのが、無数のランドセルの列だった。ランドセルだけではない。お揃いの何台ものピアニカやリコーダー、運動靴、野球のグローブ、バレーボール、制服、体育着、帽子。子どもたちの学用品、大切に使っていたであろう学校の備品の数々。いうまでもなく、津波に襲われた大川小学校から流失した品々だった。そしてそれらの持ち主の多くはもう、愛用の品を迎えにくることがなかった。
大川小学校周辺の瓦礫はそのころにはかたづけられていて、校門の前に無数の花束が手向けられていた。
あの日、地震直後に子どもたちは教職員の指導のもと校庭に避難し、全校児童108人中30人が迎えに来た家族と帰宅したか、当日欠席していて難を逃れている。保護者が帰宅を促しても「学校にいた方が安全だから」とその場に残った子どもたちもいた。教頭を始めとする教職員たちはラジオなどで津波が襲来することを知っていたが、なぜか50分以上も避難せず校庭に留まっていた。
地図を参照していただければすぐわかることだが、大川小学校の校舎は北上川と小渕山の山裾に挟まれた三角形の土地の先端に位置している。つまり川に向かってたって振り向けば、すぐ手の届くところに山=高台があった。子どもたちは日常的にこの山で遊んだり実習をしたりして登っていた。「山に逃げよう」と訴えた子どもも、教師もいたという。実際に山に登ろうとして叱られ、連れ戻された子もいた。
そこへ、2階建ての校舎を越えて、津波が襲いかかった。
そして校庭にいた78人のうち74人の児童と、校内にいた11人の教職員中10人、そしてスクールバスの運転手も犠牲になった。校舎の時計は、3時37分を指して止まっている。85人が命を奪われたその瞬間だ。
その日、保護者の多くは学校にいるのなら子どもたちは大丈夫だと信じ、自宅や避難所で子どもたちとの再会を待っていた。過疎の進んだ大川小学校の校区は広く、多くの子どもたちはスクールバスで通学していた。市街地や近隣の別の地域で働いていた保護者は地震直後に子どもを迎えにいける状況ではなかった。孤立した小学校に救助のヘリが向かっているという情報さえあった。だが待てど暮せど子どもたちは帰って来ない。
彼らが学校で起こったことを知ったのは震災2日後のことだった。泥水の中からみつかった子どもたちは苦しそうに目を閉じ、咄嗟に山肌にしがみつこうとしたのか、手の爪が剥がれた子もいたという。そんな子どもたちの遺体が、橋のたもとの三角地帯に並べられた。あの日、子どもたちが避難しようとしていた堤防の上の三角地帯だった。海抜の低い大川小学校からみれば堤防は確かに少し高くなってはいる。だがその向こうは川だ。なぜすぐ後ろの山に逃げなかったのか、どうして津波が来る川の方へ逃げたのか。そもそもどうして50分もの時間が校庭で無為に費やされたのか。
この本は2012年11月に刊行されているが、その時点でも、その後4年経ったいまも、はっきりしたことはわかっていない。なぜか。
まず校庭にいた当事者が5人しか生存していない。うち唯一生き残った教職員は震災直後の4月9日の保護者説明会を最後に、健康状態を理由にいっさいの証言を拒否しているため、文書や記録に残った彼の証言からしか状況を読みとることができない。だがその証言にも、当日この教諭本人に遭遇した目撃者が記憶している事実と大きくかけ離れた部分があり、真偽が疑われている。
残り4人は小学校の児童だが、一貫してメディアでの証言を続けて来た当時5年生の只野哲也くんを除く3人は、震災当初の石巻市教育委員会が実施した聞き取り調査以外に証言には応じていない。
ところがこの4人の子どもたちや保護者と帰宅して生き残った30人の聞き取りの記録にも、校長や教職員の証言にも、あまりに曖昧で不自然な部分が多すぎる。誰がどう見ても、都合の悪い事実を隠蔽し誤摩化そうとした形跡がありありとみてとれるのだ。
たとえば子どもたちは何人もが「山に逃げよう」と口々にいっていたことを証言し、保護者たちもそう聞いている。しかしあくまで市教育委はその事実を認めようとしなかったばかりか、子どもたちが避難を始めた時間までも誤摩化した。現場にいたのは児童と教職員ばかりではない。子どもや孫を迎えに来た親族や、避難して来た近隣住民もいた。つまり他にも目撃者がいたのだ。それなのに、学校の対応を正当化するために見え透いた嘘までついた市教育委など、誰も信頼できるはずがなかった。
この本が書かれた当時、遺族たちは決して学校や亡くなった教諭たちを責めようとはしていなかった。きっと誰もが最後まで子どもたちを必死にまもろうとしてくれていたはずと信じていた。
だが震災後なかなか学校に近寄ろうとせず遺体捜索にも立ち会わない校長の態度や、責任逃れにばかり拘泥する市教育委の姿勢が、絶望の底にいる遺族の心をさらに深く傷つけた。そして3年めの2014年3月、遺族23名が学校側の責任を追及し県と市を相手に損害賠償を求める裁判を起している。今年10月の一審判決では学校側が敗訴したが、県も市も判決を不服として控訴した。
大川小学校で子どもを亡くしても、遺族会に参加しない遺族もいれば訴訟にも関わっていない遺族もいる。石巻を離れ、被災地をあとにした方々もおられるだろう。学校があった釜谷や長面や尾崎など北上川河口付近の地域は津波と地盤沈下で壊滅し、人が住むことはできなくなった。インフラも復旧しなかった。地域のほとんどの子どもたちがいなくなり、学校も移転、ここに暮し続ける理由がなくなれば、去っていく人々を誰も責められはしない。
それでも真実が知りたくて、いまも必死に葛藤している遺族と生存者がいる。
なぜあの日、子どもたちが死ななくてはならなかったのか。助けられたはずの命がどうして失われなくてはならなかったのか、その事実をひもとくことこそが、未来の子どもたちの安全をまもる手だてになるからだ。
多くの遺族が撤去を求めた大川小学校校舎は、今年3月、存置が決定した。生存者である卒業生自身が「ここに同級生や先輩後輩が生きた証があるから」と訴えて存置にむけたはたらきかけもあった。
いま何を正当化しようとしまいと、子どもたちの命は二度とは戻らない。それなら、決して同じことを繰り返さない未来のために、できる限りのことをするのが、残された者の使命なのだろう。
その鍵を握る人物はひとりしかいない。彼が口を開いてくれるのを、おそらく誰もが心から待っている。
果たしてその日は、くるのだろうか。
大川小学校津波訴訟
大川小学校を襲った津波の悲劇・石巻
大川小学校の悲劇 検証・大川小学校事故報告 検証はまだ終わっていない 東日本大震災4年
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