落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

踏めない踏み絵

2018年01月22日 | diary
仏女優ドヌーブ氏、性的暴行の被害者に謝罪

過去にセクハラやら痴漢やらストーカーの被害にさんざっぱらあってきた私だけど、Metooには参加はしていない。といって反対なわけでもない。どっちかといえば賛同している。ただ少し距離をおいておきたいだけである。
なぜか。世の中には弱者の被虐体験を聞いて興奮する変態がいっぱいいるからである。まああまり詳しくは書きたくないので割愛しますが。とにかく思い出したくもない体験を言語化して、見ず知らずのど変態のマスターベーションの道具になるのはちょっととりあえず勘弁してもらいたい。

とはいえMetooがたいへん意義深い社会運動だということだけは断言できるだろう。
これまで人間の長い歴史のもと、性虐待は万国共通、被害者の罪とされてきた。いまでも世界にはレイプの被害者が厳しく罰せられる国がいくつもある(イスラム圏に多い)。よしんば罪に問われなくても、家族や親しい者ですら、隙があった、用心がたりなかったなど被害者の責任ばかりをあげつらい、被害について発言でもしようものなら「ふしだら」「はしたない」「非常識」などと後ろ指をさされる。場合によってはそれどころではすまないケースも珍しくない。精神的に追いつめられ、人生そのものを大きく損なう事態に陥ることもある。それがこわくて被害者は口をつぐみ、加害は闇に葬られ、犯罪者は好きなだけ再犯を繰り返せる。そして無反省に被害だけが拡大していく。
被害者を責めるということは、加害者以外の第三者によって被害が無限に再生産され続けることでもある。それも、無自覚に。Metooは、被害者自ら沈黙の蓋を開くことで、その負のスパイラルを食い止めようと始まったのではなかっただろうか。

当初Metooが実現しようとしたのは、決して魔女狩りやリンチ合戦などではなかったはずだとも思う。客観的にみれば、Metooそのものが魔女狩りやリンチ合戦なのではなく、そうした二次的な騒動はあくまで運動の副産物でしかない。かつ副産物そのものにも、やはり意味はあると個人的には思う。いずれにせよ加害者はこれまで告発を免れることで二重三重に被害者を貶め、不当に利益を得てきたことになるのだから。
誤解を恐れずにいえば、誰かの性的魅力について言葉や態度で表現することや、心ときめく相手にデートを申し込む行為自体が罪なのではない。そこにリスペクトがありさえすれば。だが相手がリスペクトを感じることができなかったら、それは簡単に「ロマンチックな/ハートウォーミングなコミュニケーション」ではなく「おぞましい虐待以外の何ものでもない下衆な暴力」と化してしまう。そして世の中には、その区別がつかない人がまあまあいるのだ。残念ながら。

ほんとうにほんとうに残念なことだけれど、すごくきちんとした、ちゃんとした、社会では尊敬に値する立場にいる人物だって、けっこう平気でそういうことをしてしまう。びっくりするくらい、あっさりと。
そしてそのことについて、私たちは今日も口をつぐんでいる。
卑怯なことはわかっている。とてもとてもよくわかっている。そんな自分の不甲斐なさを思えば、いつも涙が止まらなくなるほど悔しい。悲しい。
きっと人間は自分で思うよりずっとずっとずるくて、弱い。ひどいことだとわかっているのに、どうしてもその被害を解決するための一歩がなかなか踏み出せない。

だからこそ、一歩を踏み出した人には、最大のリスペクトをおくりたいと思う。
立派だよ。すごい勇気だよ。ありがとう。
それでいいではないですか。とにかく、とりあえずは。
少なくとも、私は、そう思う。


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