落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

スライディングでみてきたよ

2006年09月08日 | movie
『トランスアメリカ』
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※ネタバレ部分は伏せ字になってます。

おもしろかった。ハートウォーミングでふつーに笑えるコメディ映画でした。あまりにすんなり観れてしまって逆に拍子抜けするくらい。
トランスセクシュアルの父と生別れの息子の再会の物語というとどうしても重い難しい映画を想像しがちだけど、これはまったくそういう話ではないです。てゆーかふつーに考えたらそうなっちゃう話を、あえてつとめて重くなくまとめようとしているフシがある。
なのでところどころにややムリもある。展開はしばしば強引だしかなりご都合主義的に感じる部分もままある。けどハリウッド映画じゃそんなの当り前じゃんか、といってしまえばそれまでである。確かによくできてるとはちょっといいにくいかもしれない。でもおもしろいかおもしろくないかといわれればちゃんとおもしろいし、ちゃんと楽しい。

映画としての完成度はべつとして、トランスセクシュアルとその周辺の抱える問題の現実を娯楽作品に表現した物語としては、なかなかわかりやすくすっきりまとまってはいると思う。
主人公ブリー(フェリシティ・ハフマン)は自分自身を欺き続けていた過去を直視することができないでいる。もっとひらたくいえば、生まれたときは生物学的には男性だったという事実を受け入れられず、どうにかそのことから目を背け続けている。彼女が女性になりたいのは、自分はほんとうは女性であるはずという自覚と同時に、男性として生まれた現実から逃げたいという部分もある。
生別れの息子/トビー(ケヴィン・セガーズ)の人物描写も興味深い。継父の性的虐待、実母の自殺、ニューヨークでの男娼生活というとどうしようもなく悲劇的な不良少年をイメージしてしまうが、けっこう素直で天真爛漫としていて、動物や子どもが好きで17歳にもなってサルのぬいぐるみをかわいがったり、まったく見も知らない実父に憧れたり恋しがったりする純真無垢なところもある。人間そこまで単純じゃないよ、ってことなのか。

クライマックスでトビーはブリーに肉体関係を迫り、やむにやまれずブリーは自分が実父であることを告白する。劇中では最もセンセーショナルな場面だ。親の愛情を受けてこなかったために愛情感覚が稚拙なうえに性的にルーズなトビーは、ブリーの不器用ながら真摯な優しさを本能的に肉親のあたたかさとして感じながら、それに対する反応の表現を他に知らなかったのではないだろうか。心のどこかでブリーを肉親=父親ではないかと感じながら、いやそんなはずはない、そうは思いたくないという人情もよくわかる。一見滑稽なようだが、不幸な彼の生い立ちを思うとかなりせつないエピソードでもある。
道中で会ったトランスセクシュアルの人々を「いい人たち」と評しながら、ブリーもそうだと知ると反射的に「フリーク(化け物)」といってしまうトビーの言葉に、マイノリティの上にのしかかるものの重さと差別の複雑さがよく表れている。

主演のフェリシティ・ハフマンはこの映画で物凄い数の映画賞を獲ってるけど、もうホントに文句なく名演です。どっからどーみてもトランスセクシュアルにしかみえない。しかもおもしろいし。まさに体当たりです。これぞ女優魂でしょう。
トビー役のケヴィン・セガーズがまたかわいいんだな。ブリーの母親(フィオヌラ・フラナガン)がトビーを孫としてやたらネコ可愛がりするんだけど、その気持ちすごいわかるよ。ハンサムだもん。セクシーだしさ。いろいろととんでもないものを背負った少年の役をアッサリあっけらかんと演じてるとこがよかったです。
先住民のおじさん/カルヴィン(グレアム・グリーン)もかっこよかったなあ。
映画全体としては想像してたよりも印象はやや薄いかもしれないけど、ブリーやトビーや周囲の人々など登場人物のキャラクターの個性は相当濃かったです。あとテーマ曲「Travelin' Thru」はやっぱ名曲だと思いました。


祈りよりも

2006年09月05日 | movie
『ユナイテッド93』
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すごいよくできてます。いささかよくできすぎてて却って落ち着かないくらい。観ている間中、「これはどこまでがノンフィクションでどこからがフィクションなのか」が気になって気になって仕方がなかった。
あの日、ハイジャックされた4機のうちのユナイテッド航空93便だけが、本来のターゲットには到達せずに墜落したことは事実だ。そして離陸が遅れたためにテロ計画も遅れ、ハイジャックに気づいた乗客が地上の家族との電話から自分たちの乗っている飛行機がどうなるのかを知り、「何か」をしようとしたらしいことまではわかっている。
だが実際に機内で何が起こったのかは誰も知らない。テロリストも含めた乗員乗客全員が死亡したからだ。映画にはテロリストに抵抗した乗客たちがコクピットにまで侵入し操縦桿を奪い返そうとするシーンが描かれているが、公式調査では彼らはコクピットに入ることはできなかったという結論が出ている(劇場用パンフレットには別のことが書いてあるが)。それもまた「事実」とはべつの話ではあるのだが。
この映画をみていて落ち着かないのは、推測に基づいた創作部分が、生きた証言者がいるノンフィクションのパート─各地の管制塔・航空局・防空指令センター。それぞれのパートには当時勤務していた本人も数人出演している─にも増してリアルに描写されていて、一見あたかも両者が同等に「現実」であるかのように感じさせられるからだ。
しかし映画は映画だ。どんなにリアルにみえても、目撃者のいない再現ドラマはあくまで再現ドラマでしかないはずだ。この映画を観た人間がハッキリ意識すべきなのは、93便の乗客でも誰でも、テロの犠牲者をむやみやたらにヒーロー視することの危険性ではないだろうか。
彼らがヒーローであろうがなかろうが、テロリズムはテロリズムでしかないし、亡くなった人は永遠に亡くなったままだ。生きている人間たちが、勝手な理想を亡くなった人に押しつけるべきではないと、ぐりは思う。

観ていて悲しくて悲しくて、何度も何度も涙が出た。
我々はあの日彼らがどうなったのかを知っている。でも画面の中の彼らはそれを知らない。乗務員にとっては日常の職場だった飛行機、乗客たちにとっては仕事先や旅行先や家庭に向かう交通手段にすぎなかった飛行機、それが巨大なミサイルに代わろうとは、それまで誰に想像できただろう。そんなこと思いつくのは頭のおかしいテロリストだけだ。そういう人間が世の中にいることを、我々は今では知っている。まさに、あの日を境に世界は変わってしまった。
実は日本人はこれよりも前に、公共交通機関が無差別殺人の道具になり得ることを知っていた。1995年の地下鉄サリン事件。ぐりはこの映画を観ている間、地下鉄サリン事件をモチーフにやはりセミドキュメンタリー形式で撮影された是枝裕和の『ディスタンス』を思いだしていた。あの映画はテロそのものではなく実行犯遺族のその後を描いているが、地下鉄サリン事件もアメリカ同時多発テロ事件も、狂信の果てに「世界を救うため」に実行された点は同じである。『ディスタンス』に登場する実行犯たちも、真剣に「世界を救おう」としていた。暴力で解決するものなどこの地上のどこにも存在しないというのに。
『〜93』は冒頭、テロリストの祈りの声から始まる。劇中でも、テロリストも乗客もそれぞれの神に必死に祈り続けていた。おそらく彼らはそれまでの一生でそれほど強く激しく祈ったことはなかっただろう。それほど、祈りの声はせつなく、絶望的だ。
結局はどの神にも彼らの祈りが聞き届けられることはなかった。聞き届けられたのは、彼らが家族に向けて発した「愛している」という電話越しの声だけだった。
つまるところは、どれだけ神に祈っても、ほんとうに相手に届くのは生きた人間に対する愛の方だということだ。世界を救うのは神でも暴力でもない。
できることなら、そのことをもっとハッキリ表現して欲しかった。

あと例によってテロリストの台詞に字幕があったりなかったりするのはどーゆーことなのか。やはりイスラム過激派が登場する『ミュンヘン』もそうだったけど、そこすっごい疑問でした。

アメリカ同時多発テロ事件(ウィキぺディア)