落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

美しい牧場の堤

2016年12月04日 | movie
『淵に立つ』

金属加工工場を営む鈴岡(古舘寛治)のもとを訪ねてきた友人の八坂(浅野忠信)。殺人を犯して服役していたという彼を妻・章江(筒井真理子)に断りもなく住み込みで雇い入れる鈴岡だが、オルガンを教えたことで娘の蛍(篠川桃音)はあっという間に八坂に懐き、いっしょに教会に行くようになった章江と八坂の距離も縮まっていき・・・。
第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で審査員賞を受賞。

人間生きてれば、人にはいえない秘密のひとつやふたつくらい誰でももってるわけで。
なんでいえないかといえばたいていは恥ずかしいことだったり、罪悪感を感じることだったり、「臑の傷」の深さ大きさは人によりけりではあるけど、まあ全身心も身体もどこもかしこも完全無欠な人なんていないわけです。そうですね?そういう何かが、わたしにもあるし、あなたにもあるはずです。ない人なんかいない。
それを受け入れたり許したり、自分なりにうまくつきあっていけるかどうかというところが、社会に生きる人として求められるスキルでもあるわけで、だからおおかたの人は「そんなのしらないよ」的に何食わぬ顔で暮していける。お互いにそんなものがあることなんて忘れて、たまに目に入っても見えないふりをするのが世の中のルールとして、まるで何もかもなかったことみたいにして生きていける。

この物語は、そんな人間同士が互いに見て見ぬふりをしている影の部分を取り出して真ん中に置いて描こうとしている。
たとえば主人公の鈴岡夫妻は当初一見して夫婦には見えない。夫は妻にも娘にも無関心だし、妻も娘しか眼中にない。家はかたづいているし食事の支度も完璧で、工場の経営も夫婦ふたりでやっているはずなのに、彼らの間にはまるで見えない高い壁か深い溝でもあるかのように、はるかに隔たっている。そこにすらりとした浅野忠信がやってくる。常に白いワイシャツに黒く折り目のはいったパンツをきっちりはいて、礼儀正しく物静かな八坂の立ち居振る舞いは往年の高倉健そっくりである。案の定、章江はころっとよろめいてしまう。八坂に弱みを握られているらしい夫はそれを咎めだてしようとしない。そして起こるべくして悲劇が現出する。
設定上、法的に明らかな罪を犯した人物は八坂だけなんだけど、実際に罪を負うのは彼だけではない。そしてそれぞれの罪の重さは、ひとつひとつ取り出してみれば誰にでも心当たりがあってもおかしくないような、なんでもないような罪である。現実問題は別として、少なくとも当事者はそう思っている。にも関わらず、全員がその罪から逃げることができず、がんじがらめに縛られている。投げ出したい、自由になりたい、忘れたい、消し去りたいと切望しながら、そうはできないでいる。
鈴岡夫妻はその罪をふたり黙って背負うことで、夫婦として家族としての結びつきを強めていく。孝司(太賀)は顔も見たことのない父の罪を背負うことで、天涯孤独の自分の存在意義をつかみとろうとする。
イタいですね。痛々しい話ですまったく。

展開がなかなか読めなくて最後の最後まで手に汗握るサスペンスでありつつ、人間ってなんだろう、家族ってなんだろう、愛情ってなんだろうと、観ている間じゅういろいろいろいろ考えさせられる作品でした。濃いです。ここまで濃い映画ってなかなかないね。
出演者の演技がまた見事というか天晴れで、とくに前半と後半でまるで別人のように変化する筒井真理子の熱演にはホントにびっくりしました。筒井さんも夫役の古舘寛治も、ふだんは脇役として目にすることが多い俳優さんだけど、がっちり主役の今作の芝居の生々しさにはムチャクチャびっくりしました。
それにしても浅野忠信よ。この人はなんでしょうね。うますぎるよね。昔、浅野くんを演出したある監督(映画ではない)が「浅野くんの芝居がウマ過ぎて、自分の演出がウマいような錯覚に陥る」といってたのを聞いたことがあるんだけど、ほんとそれね。この作品ではもうとにかく不気味で薄気味悪いのに無駄にエロな殺人犯にしか見えないのよ。画面に出てくる最初から最後まで、台詞があってもなくても、顔が映ってても映ってなくても。そんな俳優いる?いないよね。あと、この作品では浅野氏は画面にまったく出てこないパートもけっこうあるんだけど、映ってないのにめちゃめちゃ存在感がある。不在の存在感。確かハタチそこそこで出た『幻の光』のときもそんなこといわれてたけど、今回もその異様な存在感がすばらしかったです。

それとこの物語、ほとんどすべてのパートで、登場人物たちが行こうとする方向、向かおうとしている方向といちいち逆の方に逆の方に話が転がるようにつくられている。だから場面転換のたびにへっ?なんでっ?とつり込まれていく仕掛けが強引で、観る方にものすごい集中力を要求してきます。
観終わってぐったり疲れたけど、かなりひさびさにずっしりもっちり身の詰まった映画を観たなという気分にもなりました。そういうの、悪くないです。



衝撃はない

2016年12月04日 | movie
『FAKE』
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作曲家・佐村河内守氏の作品が18年間にわたって新垣隆氏という別の現代音楽家によって作曲されていたという、2014年のゴーストライター騒動のその後を取材したドキュメンタリー。
カメラは主に佐村河内さんの家のダイニングでずっとまわっていて、画面には、事件をおもしろおかしく茶化したり新垣さんが素人くさい笑いをとっているバラエティ番組や雑誌記事を観たり、国内外のさまざまなメディアの取材を受けたりしている佐村河内さん本人と、彼を支えるパートナーがずっと映っている。

ふたりはほとんど外出すらしない。
黒いカーテンを引き、照明も最低限しか点けない暗い室内で、ころんとふとった猫一匹と、ひたすら静かに淡々と暮している。にも関わらず映画がただ淡々としているわけではないところがさすが森達也でございます。
森さんは佐村河内さんの聴覚障害にまず言及し、「聴覚障害が嘘なのか事実なのか」を医学的に客観的に立証しようとする。そこには医師の診断書もあるし、実際に似た障害をもつ人の証言もある。森さんが劇中でいうとおり、聞こえるか聞こえないかは個人の感覚でしかないのだから、実際は他人にはわからない。そのうえで、佐村河内さんの感音性難聴がいったいどんな障害なのかを、観客に伝わるようにしっかりとらえようとしている。
それを立証したうえで、佐村河内さんの音楽についてもがっちり伝えている。この部分は実は森さん自身の取材ではなく、他のメディアの峻烈なインタビューを通じてたどりついた部分ではあるけど、観客の耳に届く形で映像にとらえられたのはやっぱり、ジャーナリスト・森さんの手腕によるものなんだろうとは思います。まあさすがです。

それだけの事実をきちんきちんと整理してならべて、佐村河内さんがいったい誰に対して何を欺こうとしたのか、そしてメディアはそれをどう「消費」したのか、失敗した個人に対する社会の残酷さと理不尽さが問わず語りに語られる。まーキツい。醜悪そのものです。
その対比となるのが、佐村河内さんの家族、主にパートナーのかおりさんの存在である。
事件によってすべての友人を失ったという佐村河内さんだけど、傷つけたくないから離婚してくれと申し出た彼に、かおりさんは何もいわずに寄り添い続けている。メディア取材には手話通訳を務め、外出時は耳の聞こえない佐村河内さんを介助をする。
穏やかであまり感情を出さないかおりさんだが、たたずまいのすべてに、パートナーを愛し慈しみたいせつに思う心があふれていて、とてもとても感動的だった。画面の中心はあくまで佐村河内さんなんだけど、そのそばにじっと彼女がいて、森さんを含めた第三者の厳しい言葉も全部そのまま正確に訳したり、来客のたびにかわいらしいケーキでせいいっぱいもてなそうとする姿をみていると、佐村河内さんが社会的にどんな人間であっても彼女にはまったく関係がなくて、そんなふうに愛される人にはきっと、他の誰にもわからない何かがあるんだろうなという気がしてくる。
その「何か」の価値までは、残念ながらわからないんだけど。

ところで森さんは猫が好きなんですかね。要所要所で佐村河内家のにゃんこがアップになるんだけど、これがまた可愛いんだよね。部屋が暗いせいもあって目がまんまるで。映画全体がだいぶストレスフルな内容なので、猫インサートにはかなり和みました。
このレビューを書くにあたって記者会見当時に書いた落穂日記を読み返したけど、けっこう森さんのスタンスと近い気がするな。気のせい?
しかしどっちにせよ、この事件はもう「消費」されて終わっちゃったコンテンツなんだろうね。そんなふうに個人の尊厳を「消費」する世の中、めちゃめちゃイヤだけどさ。ほんとやんなちゃうね。

関連レビュー:
『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う。』 森達也著
『放送禁止歌』 森達也著
『ご臨終メディア ─質問しないマスコミと一人で考えない日本人』 森達也/森巣博著
『言論統制列島 誰もいわなかった右翼と左翼』 森達也/鈴木邦男/斎藤貴男著



逃げ場のない地獄の扉

2016年12月04日 | movie
『太陽の蓋』
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2011年3月11日に発生した東日本大震災と、その直後の東京電力福島第一原発事故を描いた再現ドラマ。
説明不要ですね。何があったか大抵の人はわかってるし、劇中にとくに新しい情報はないです。
舞台は官邸記者クラブを中心に、官邸・記者の家・福島第一原発職員の家庭がかわるがわるに登場し、それぞれの視点から当時を時系列に振り返る形式になっている。
まだ寒かった早春の金曜日の午後。地震が起きて原発が緊急停止。津波が来て、原発が停電して冷却機能が麻痺する。世界でも誰も経験したことのなかった未曾有の危機を目前に、マスコミも官僚も政治家も、なすすべもなく混乱するのを、記者クラブのひとりの記者が狂言回しとなって語るという筋立てが、思ってたよりかなりシンプルでした。

この映画のいいところってホントにそこに集約されてるんだよね。
あのとき、ほんとうはどうすればよかったのか、誰が、何をすればよかったのか。そういうことにはいっさい言及しない。思いだしたくもないほど醜悪な大混乱を再現するのに無駄に強調もしないし、当時の街のパニックや被災の悲劇性を煽ったりもしない。北村有起哉演じる主人公・鍋島記者にしても、ただ闇雲に冷静なばかりでもない。
それでも、日本という国にいかに危機管理意識が希薄だったか、国民の安全をまもる立場にあるはずの組織がどれほど無責任だったかを、事実ベースではっきり明言してもいる。
私個人の目には、誰かを擁護したり逆にあからさまに卑下するような表現は避けられていた気がするけど、ここはおそらく観る人によって感じ方はわかれるんじゃないかと思うし、きっとつくり手側は、観客の受け止め方に任せたいと意図してそういう表現にしたんではないかなとも思います。ただ演じてるのはちゃんとヘアメイクしたプロの俳優さんだし、がっちり照明たいてプロが撮ってプロが編集した映像作品だから、実際よりは画としても物語としてもだいぶキレイにかっこよくなっちゃってるとは思いますが。
映画のスタンスがフラットなぶん、誰にとっても観やすい作品にもなってます。とはいえハードな内容ではあるけど、あのときのことを整理して振り返るには、なかなかすっきりまとまったいい映像作品です。すっきりまとめるのがいいのか悪いのかは別として。

大半の政府関係者は公人なので劇中実名で登場してるんだけど、東京電力は東日電力と会社名が変更されていて、会社の人間も役名つきでは画面にはでてこなかったのが惜しかったです。許可出なかったんだろうね。そういう許可が出るまで、あといったいどれくらい時間がかかるんだろう。それが出ないうちは、絶対にこの事故は過去のものにはならない。いまもずっと続いてる。その事実を、誰もが決して忘れるべきではない。そのことも、鍋島記者がさまざまな立場の人びとから見聞きするメッセージとして、ちゃんと語られてます。
最後、エンドロール観てたら河合弘之弁護士が協力でクレジットされてました。劇場用パンフレットに河合さんのコメントが載ってるらしいけど、完売で読めず。気になります。いまも菅直人元首相といっしょにこの作品の上映イベントには登壇されてるとのことですが。

当時総理補佐官で映画にも登場する寺田学氏のレビュー


(ブラウザによっては一見視聴不可みたいな表示になってますが、クリックすればちゃんと再生されます)

He knew exactly what he was doing.

2016年12月03日 | movie
『手紙は憶えている』

妻を亡くした認知症のゼヴ(クリストファー・プラマー)は同じ老人介護施設の入居者でアウシュビッツの生存者であるマックス(マーティン・ランドー)との約束を果たすために施設を抜け出し、収容所で家族を殺害した敵に復讐する旅に出る。身体は元気でも記憶障害がひどくなったゼヴの頼りはマックスの指示書=手紙のみ、しかもターゲットの“ルディ・コランダー”なる人物はひとりではなく・・・。
『アララトの聖母』で自身のルーツである民族浄化を描いたアトム・エゴヤンがホロコーストを題材にしたサスペンス。

もう毎回書いてますけどアトム・エゴヤンがとにかく好きで。
前情報いっさいなしで映画館に行くこと4回目、やっと観れました。いままで毎回完売で。でも今日は空いてたね。なんでやろー。前作の『白い沈黙』を見逃したので、今作はとりあえず観ときたかった。
うん、期待通り。おもしろかった。
アトム・エゴヤンの作品て地味なんだよね。ぱっと観て万人が「おおっ」ってなるようなタイプの映画じゃない。もちろん「全米が泣いた」とか「世界震撼」とかそんなインパクトも正直ない。けど、観終わってからじわじわじわじわ来て、だんだんずしーっと来る感じ。
この作品に関していえば、従来の作風からすると相対的にはまだ派手めかもしれない。クライマックスが。脚本が本人じゃないせいもあると思うけど。

年齢的にも肉体的にも死期に近づいているゼヴとマックスの復讐劇は、ただその設定だけでもかなりせつない。
被害者である彼らが老いるのと同様に、加害者もまた老いている。ナチであったことを隠し世間を欺いて暮らした長い長い人生の最後に、70年前の罪を糾弾される方とする側と、それをとりまく周囲の人間の間に流れる感情の色の複雑さ。いかに社会的にその罪が風化しようとも、当事者の中で、それは決して消えることがない。なかったことにもできないし、忘れることもできず、償うことも購うこともできない。その厳然たる事実を、ラストシーンのマックスの涙が能弁に語る。
グローバライゼーションとともに世界中で右傾化が進み、ヘイトクライムと民族テロが横行するこの時代にこそ、この物語は描かれる意味があったんだろうなと、強く思う。ルーツを理由に人間が憎しみあい傷つけあうことの不毛さを、老人ふたりの悲愴な復讐劇で表現したかったんだろうなと。

しかし主人公を含めて登場人物の大半が老人とかおっさんばっかり(たまに子ども)なんつうロードムービー、つくろうってだけでもかなり勇気あるよね。地味ってこれ以上地味になりようがないよ。究極に地味。
物語自体はすごくおもしろかったんだけど、ストーリー展開が単純で一本調子だったのがちょっと。もうちょいなんか工夫が欲しかったです。ゼヴがよぼよぼすぎて、やることなすこといちいち危なっかしいからサスペンス、なんてズルすぎますて(笑)。
クリストファー・プラマーってもともとピアノやってたんだね。劇中の演奏シーンは全部自分で弾いてるそうですが、見事でした。超ヨロヨロなおじいちゃん演技もスゴかったけどね。

それにしてもあのラストはホントにびっくりしたわ。そんなのありか。まあありか。映画だもんね。気になる方は映画館へGOしてくださいませ。