落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

The Black Death happened. The Earth is round, the ice caps are melting, and Elvis is not alive.

2018年01月03日 | movie
『否定と肯定』

1996年に作家でホロコースト否定論者のデイヴィッド・アーヴィングが著作『ホロコーストの否定:真実と記憶への増大する攻撃』で彼を批判したデボラ・リップシュタットと出版社ペンギンブックスを名誉毀損で訴えたイギリスの裁判「アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件」を描く。
リップシュタット著『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる戦い』をもとに映画化。

原題『Denial(否定・否認・拒否・拒絶)』。
イタいですね。最近の日本の状況を鑑みるに、ぜんぜんシャレにならない話ですね。もう全編イタすぎました。
アーヴィングの論法は昨今の日本の歴史修正主義者(というかネトウヨ)とまったく同じ、どうでもいいようなディテールのほんの一部分の齟齬をさも一大事のようにとりあげて騒ぎたてて、問題全体を完全に拒否しようとする。論法そのものに無理がありすぎるんだけど、なんでかメディアってそういう妄言大好きだよね。この映画でも「穴が無ければ、ホロコーストも無い("no holes, no holocaust")」なんてワードがもてはやされるシーンが出てくるけど、日本社会ではそのバカバカしさを再評価する機会すらないまま、歴史修正主義の嘘がどんどん“真実”として市民権を獲得していっている。そのことに危機感を持つ人もいない。

この作品の清々しいところは、全編にわたってあくまでもリップシュタット側の視点だけで描かれているところ。昨今の日本メディアが踊らされる客観性やら両論併記の欺瞞なんかきれいさっぱりガン無視です。リップシュタットはユダヤ人だけど、そういう彼女のパーソナリティなど裁判の背景部分についてもほとんど何の説明もない。ほぼ完全に裁判そのものだけ(リップシュタット側の弁護団の活動描写含む)で物語を成立させている。にも関わらず、ホロコーストの歴史や法廷戦略の枝葉末節にもとらわれることなく、歴史修正主義者にどう立ち向かうべきかという姿勢だけに徹底してフォーカスして表現している。
非常にシンプル。ストレートです。

もし日本でこういう裁判が行われたらどうなるんだろう、と思うとこわくなる。
映画には、「世の中には否定してはいけないものがある」という台詞があったけど、果たして日本にそういうことをはっきりといえる、闘える言論人はいるのだろうか。そしてそれを支持するメディアは存在するのだろうか。
最近はそういう裁判はないけど(2000年代には南京事件で逆の名誉毀損で裁判が日本で行われた。最近の記事はこちら)、それこそ裁判すら行われないままに歴史修正主義は着々と日本社会に浸透していっている。政府までおおっぴらにそれを認めて憚らず、政策にまで発展させようとしている(沖縄タイムス「近現代史の検証 自民が活性化へ/『修正主義』警戒 波紋も」)。

何年か前、ヘイトスピーチが始まったばかりのころ、「どうせあんなの非常識なバカが騒いでるだけ」「実害なんかない」「無視しておけばいい」といった人たちはいま、この現状をどう思っているのだろう。せめてその言葉にどれだけの人がより傷つけられたかくらいは、省みてくれているのだろうか。
まあそんな楽観主義の責任がとれる人なんか現実にいないんだよね。けどそんなの「しょうがない」でかたづけられない。かたづけた結果がどうなるのか、もう考えたくもありませんけど。

関連レビュー:
『手紙は憶えている』
『サウルの息子』
『ヒトラーの贋札』
『ハンナ・アーレント』
『戦場のピアニスト』



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Love that guy. Do what he says.

2018年01月03日 | movie
『gifted/ギフテッド』

船の修理人フランク(クリス・エヴァンス)、片眼の猫フレッドと暮らすメアリー(マッケナ・グレイス)は小学校1年生。
担任教師(ジェニー・スレイト)はメアリーが難しい数学問題をいとも簡単に解くことに驚き、校長とともに私立の専門校への転校を勧めるがフランクもメアリーも拒否する。弟に愛娘を託して命を絶ったメアリーの母で天才数学者のダイアンは、あくまでも彼女に“普通の人生”を望んでいたが・・・。
『(500)日のサマー』のマーク・ウェブ監督作品。

じつをいうと数学が大の苦手です。
小さいうちから珠算教室も通ったんだけど、数学が得意な母親からは「私の子なのになんでこんなことができないんだろう」と罵倒されながら大きくなった。
大人になって幼児教育雑誌の編集者になり、数学の美学を幼児にもわかるように表現する出版物を手がけたときには、もろに日本の数学教育の矛盾を感じたもんです。学問っておもしろいよ、キレイでしょ、不思議でしょって、なんでポジティブな面から教えようとしないでただ苦行ばっかり強制するんだろう。運動部が大昔にやめたうさぎ跳びとかといっしょじゃんね。しんどいだけでなんにもいいことない。しんどいことをやりきった達成感に価値がないとはいわないけど、達成感なんかしんどいことばっかりやんなくたって得る方法いくらでもあるやん。

御託はまあこのくらいにしておきまして。
この映画そのものは数学なんか一ミリもわかんなくたってちゃんと楽しめます。ハイ。数学は単なるモチーフのひとつで、テーマは母娘の葛藤だから。
フランクは母イヴリン(リンゼイ・ダンカン)からメアリーをまもろうと必死に格闘する。姉ダイアンが求めて得られず、命をかけて娘に望んだ“普通の人生”をメアリーにまっとうさせるためだ。だがイヴリンはその意味など一顧だにしない。才能を最大限に駆使して世界をあっといわせる名声を手にすること、それ以外に生きる価値など彼女にとってはないも同然なのだ。
確かに“普通の人生”では名誉やお金はなかなか手にははいらない。しかし、世界をあっといわせる名声があればすなわち豊かな人生を送れるという保証もない。ダイアンとフランクは、どちらを選ぶにせよメアリー本人の意志で人生をつかみとってほしいと願った。
果たして子どもの幸せを願うほんとうの愛情とは、いったいどちらのことをいうのか。

映画では名声に囚われたイヴリンとフランク(とダイアン)の攻防がアメリカの司法制度や社会環境という装置をつかって、非常に効率的に表現されている。
両者の葛藤の間には、現代社会で形骸化(観念的なブランド化、類型化といってもいいかもしれない)しつつある家族愛や、ささいな日常のなかの喜びの捉え方のギャップが、まるで国境の無人地帯のように広大に横たわっている。
おそらくイヴリンは最後まで、フランクやダイアンがたいせつにしようとしたものの重みなど理解できなかっただろうし、将来的にも理解できるようになるとは思えない。
でもその無理解を単純に不幸だともいえない気がする。血を分けた肉親であれ、理解できないことや信じられないことは世の中にいくらでもある。たったそれだけで、人の幸不幸を決めつけられるものでもない。
ほんとうに大事なことなんて、人それぞれ違ってて当たり前で、その是非を他人にどうこういえるもんでもない。
そのことだけでも「とりあえずそういうことにしておこう」と引き下がれる余裕も、人の生き方にはあっていいんではないでしょうか。