『否定と肯定』
1996年に作家でホロコースト否定論者のデイヴィッド・アーヴィングが著作『ホロコーストの否定:真実と記憶への増大する攻撃』で彼を批判したデボラ・リップシュタットと出版社ペンギンブックスを名誉毀損で訴えたイギリスの裁判「アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件」を描く。
リップシュタット著『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる戦い』をもとに映画化。
原題『Denial(否定・否認・拒否・拒絶)』。
イタいですね。最近の日本の状況を鑑みるに、ぜんぜんシャレにならない話ですね。もう全編イタすぎました。
アーヴィングの論法は昨今の日本の歴史修正主義者(というかネトウヨ)とまったく同じ、どうでもいいようなディテールのほんの一部分の齟齬をさも一大事のようにとりあげて騒ぎたてて、問題全体を完全に拒否しようとする。論法そのものに無理がありすぎるんだけど、なんでかメディアってそういう妄言大好きだよね。この映画でも「穴が無ければ、ホロコーストも無い("no holes, no holocaust")」なんてワードがもてはやされるシーンが出てくるけど、日本社会ではそのバカバカしさを再評価する機会すらないまま、歴史修正主義の嘘がどんどん“真実”として市民権を獲得していっている。そのことに危機感を持つ人もいない。
この作品の清々しいところは、全編にわたってあくまでもリップシュタット側の視点だけで描かれているところ。昨今の日本メディアが踊らされる客観性やら両論併記の欺瞞なんかきれいさっぱりガン無視です。リップシュタットはユダヤ人だけど、そういう彼女のパーソナリティなど裁判の背景部分についてもほとんど何の説明もない。ほぼ完全に裁判そのものだけ(リップシュタット側の弁護団の活動描写含む)で物語を成立させている。にも関わらず、ホロコーストの歴史や法廷戦略の枝葉末節にもとらわれることなく、歴史修正主義者にどう立ち向かうべきかという姿勢だけに徹底してフォーカスして表現している。
非常にシンプル。ストレートです。
もし日本でこういう裁判が行われたらどうなるんだろう、と思うとこわくなる。
映画には、「世の中には否定してはいけないものがある」という台詞があったけど、果たして日本にそういうことをはっきりといえる、闘える言論人はいるのだろうか。そしてそれを支持するメディアは存在するのだろうか。
最近はそういう裁判はないけど(2000年代には南京事件で逆の名誉毀損で裁判が日本で行われた。最近の記事はこちら)、それこそ裁判すら行われないままに歴史修正主義は着々と日本社会に浸透していっている。政府までおおっぴらにそれを認めて憚らず、政策にまで発展させようとしている(沖縄タイムス「近現代史の検証 自民が活性化へ/『修正主義』警戒 波紋も」)。
何年か前、ヘイトスピーチが始まったばかりのころ、「どうせあんなの非常識なバカが騒いでるだけ」「実害なんかない」「無視しておけばいい」といった人たちはいま、この現状をどう思っているのだろう。せめてその言葉にどれだけの人がより傷つけられたかくらいは、省みてくれているのだろうか。
まあそんな楽観主義の責任がとれる人なんか現実にいないんだよね。けどそんなの「しょうがない」でかたづけられない。かたづけた結果がどうなるのか、もう考えたくもありませんけど。
関連レビュー:
『手紙は憶えている』
『サウルの息子』
『ヒトラーの贋札』
『ハンナ・アーレント』
『戦場のピアニスト』
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1996年に作家でホロコースト否定論者のデイヴィッド・アーヴィングが著作『ホロコーストの否定:真実と記憶への増大する攻撃』で彼を批判したデボラ・リップシュタットと出版社ペンギンブックスを名誉毀損で訴えたイギリスの裁判「アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件」を描く。
リップシュタット著『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる戦い』をもとに映画化。
原題『Denial(否定・否認・拒否・拒絶)』。
イタいですね。最近の日本の状況を鑑みるに、ぜんぜんシャレにならない話ですね。もう全編イタすぎました。
アーヴィングの論法は昨今の日本の歴史修正主義者(というかネトウヨ)とまったく同じ、どうでもいいようなディテールのほんの一部分の齟齬をさも一大事のようにとりあげて騒ぎたてて、問題全体を完全に拒否しようとする。論法そのものに無理がありすぎるんだけど、なんでかメディアってそういう妄言大好きだよね。この映画でも「穴が無ければ、ホロコーストも無い("no holes, no holocaust")」なんてワードがもてはやされるシーンが出てくるけど、日本社会ではそのバカバカしさを再評価する機会すらないまま、歴史修正主義の嘘がどんどん“真実”として市民権を獲得していっている。そのことに危機感を持つ人もいない。
この作品の清々しいところは、全編にわたってあくまでもリップシュタット側の視点だけで描かれているところ。昨今の日本メディアが踊らされる客観性やら両論併記の欺瞞なんかきれいさっぱりガン無視です。リップシュタットはユダヤ人だけど、そういう彼女のパーソナリティなど裁判の背景部分についてもほとんど何の説明もない。ほぼ完全に裁判そのものだけ(リップシュタット側の弁護団の活動描写含む)で物語を成立させている。にも関わらず、ホロコーストの歴史や法廷戦略の枝葉末節にもとらわれることなく、歴史修正主義者にどう立ち向かうべきかという姿勢だけに徹底してフォーカスして表現している。
非常にシンプル。ストレートです。
もし日本でこういう裁判が行われたらどうなるんだろう、と思うとこわくなる。
映画には、「世の中には否定してはいけないものがある」という台詞があったけど、果たして日本にそういうことをはっきりといえる、闘える言論人はいるのだろうか。そしてそれを支持するメディアは存在するのだろうか。
最近はそういう裁判はないけど(2000年代には南京事件で逆の名誉毀損で裁判が日本で行われた。最近の記事はこちら)、それこそ裁判すら行われないままに歴史修正主義は着々と日本社会に浸透していっている。政府までおおっぴらにそれを認めて憚らず、政策にまで発展させようとしている(沖縄タイムス「近現代史の検証 自民が活性化へ/『修正主義』警戒 波紋も」)。
何年か前、ヘイトスピーチが始まったばかりのころ、「どうせあんなの非常識なバカが騒いでるだけ」「実害なんかない」「無視しておけばいい」といった人たちはいま、この現状をどう思っているのだろう。せめてその言葉にどれだけの人がより傷つけられたかくらいは、省みてくれているのだろうか。
まあそんな楽観主義の責任がとれる人なんか現実にいないんだよね。けどそんなの「しょうがない」でかたづけられない。かたづけた結果がどうなるのか、もう考えたくもありませんけど。
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