ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

現代版姥捨山 

2012年10月18日 | 資本と社会の問題
地域と都市の移住・交流に役立つ情報や、田舎暮らしの魅力を発信するサイトがあります。

ニッポン移住・交流ナビ http://www.iju-join.jp/

移住・定住でも、二地域居住でも、風通しのよい楽しい生き方が求められています。

鳥取県智頭町の「疎開保険」のような仕組みも興味深いです。

ニッポンの老後人生。

各地で、現代版の姥捨山(病院、特養等々)という人工的な大きな四角い山がニョキニョキと現われています。

一度踏み入れて入山すれば、下山できる可能性は、不可能に近い状況です。

「家に帰りたい。帰りたい」という声や心が、間断無く聞こえてきます。

入山しないように、元気の気を心がけることが肝腎です。

自分で「歩ける」「食べる」が、元気の基本です。

老いた我が身を、優しく受け入れてくれるコミュニティ(家族や故郷、第二の故郷、第三の故郷)があれば、これほど幸福なことはありません。

昔も今も・・姥捨山は、とても悲しく切ないものです。

行ってみたい姥捨山、暮してみたい姥捨山、安心して逝ける姥捨山がある地域作りが、必要に迫られています。

ニッポンの新たな課題かもしれません。

疎開保険

2012年10月18日 | 資本と社会の問題
「郷には郷に従え」という古からの言葉もあります。

が、昨今の凶悪事件を読むにつれて、「逆らう」という強い気持ちも必要です。

とはいえ、この世は、生きるのには不安だらけ・・前門の虎、後門の狼。

・・笑顔だけでは、突破できない壁や門もあります。

強き者、財ある者のあとに従うのが、茨の道ではなく、細々とした畦道なのでしょう。

さて、今週は、新聞週間。

金木犀のように、ふと匂いが香り立つような読まされてしまう地方紙のコラムと出会うことがあります。

銀杏の豆を踏んだような、臭いのある全国紙のコラムと出会うこともあります。

かつては、全国紙と地方紙の間にあるコラムニストの筆力に関して:

プロ野球に例えるならば、1軍と2軍程度の技術力、力量のレベル差があると先入観のようなものを感じていました。

21世紀に入ると、圧倒的な読者部数の差異はあれど、そのレベル差はどんどんと縮まり、今は全く無いと言っても過言ではありません。

地方紙で長く働いてきたコラムニストたちの「がんばり」が、花を咲かせているような気がします。

プロのサッカー試合での各選手の働きを採点するシステムがありますが、テーマごとのコラム・ランキングというものがあれば、面白いかもしれません。

今日、面白く読んだのは、日本経済新聞の春秋コラムでした。

地方への移住を促すため、各自治体がさまざな戦略を立案していますが、鳥取県智頭(ちづ)町の知恵を絞った紹介記事が印象に残りました。

▼地震などで家を失ったら、年1万円の会費で1週間、町で宿と食事を保証する事業を打ち出した。災害がなければコメや野菜を贈る。契約者は大阪、東京を中心に350人に上るそうだ。契約者に限った疎開体験ツアーもある。名付けて「疎開保険」。▲

体育の日 描く力 

2012年10月09日 | 資本と社会の問題
今日は、息子の通う大学へ「保護者キャンパス見学会」に行って参りました。

食事まで、無料で用意されていました。

今、小生が学んでいる京都の大学よりも、施設も教室も豪華、充実していたのにも驚きました。

授業料も、高いはずです。



大学側からの説明のあった教育方針の言葉の羅列。

企業組織に貢献できる人材。

地域社会に貢献できる人材。

国際社会に貢献できる人材。

就職活動のガイダンス、インターナショナルな感覚養成、グローバルな人材育成・・等々。

30年以上昔、我々が大学生だった頃と全く変わり映えのない言葉でした。



養成育成よりも、自立が先です。

「働かせていただいています」

「学ばせていただいています」

多分、楽しく貢献できる人間が、よく寝て、朝もスッキリと起きられる日々を過ごすことができると思います。

自分の心にあるキャンパスに、どんな心象風景を描きたいですか?

それが、自分の人生航路になるのに違いありません。


マラソンコースと未亡人

2012年09月14日 | 資本と社会の問題
仏教のテキストを読んでいると、不思議なタイトルと巡り合い、読まされてしまうこともあります。

今回のタイトル「マラソンコースと未亡人」も、その通りでした。

「頓知話」で知られる室町時代の名僧一休さんや沢庵漬けの考案者でもある江戸時代の名僧沢庵和尚のようなユーモアを思い出します。

「人生はマラソンである」という言葉があります。

風雨もあり、晴天もあり、山もあれば谷もあり、奢り高ぶらず、苦難にくじけず、自分のペースを守り、ただ黙々と走り抜くと、よい結果が出るという譬え話です。

それでは、そのゴールは、どこになるのでしょうか?

答えは、火葬場の門でした。

ひたすら、火葬の門に向かって、我々は走っているのだそうです。

その門は、遠くにならない、近づくばかりです。

今日よりも明日、今年よりも来年と門が、どんどんと近づいてきます。

もう、そこに門が見えてきても、スピードを緩めることもできない、足踏みをすることもできない、後ろ向きに走ることもできないのが、人生のマラソンコースなのだそうです。

そして、これこそが「生きている」という事だそうです。

生きているというのは、門に入っていないこと・・つまり、死んでいないという事だそうです。

未だに死んでいない人を、未亡(死)人と言うようです。

未亡人という語には、女性の意味もなければ、結婚して夫に死別した意味もないようです。

ただ、未だ死んでいない人というだけの意味だそうです。

老若男女、生まれたばかりの赤ん坊も、すべて生きている者すべてが、未亡人なのです。

百人万人・・生き方は、さまざま多種多様ですが、「死」のみは、普遍の不変であり、必然です。

だからこそ、未亡人であることを自覚して生き抜くことを、仏教は、教えているとの事でした。

福となる生活

2012年06月06日 | 資本と社会の問題
人間にとって、かけがえのない幸せの場としての生活とは・・?。

豊かさや幸せと言えば、家族とのかけがいのない生活、取りも直さず生活の豊かさ、自由な時間、心温まる場、自分を取り戻せる時間と空間・・等々。

その一方で、生活は、厳しい現実がのしかかります。

豊かさは、「豊か」ではなく、「過剰」なのかもしれません。

モノがあふれていることが、豊かさではありません。

増大する生活費、ローン・借金の偏在、教育費・医療費負担、病気・介護への不安、すれ違いの家族との時間、先行きの不安、孤独等々・・こんな豊かさは、必要ないでしょう。

ただ、生活水準は、意識で決まるものではありません。

心構え、気持ち、意識をしっかりしていれば、豊かな生活が、保障されるものでもありません。

資本主義が発達して、賃金を頂く労働者社会となり、市場経済が拡大していきました。

賃金とは、労働力という個人の商品の価値です。

市場経済に、人間が従属されたことになります。

市場経済は、ますます進化してゆくものだと考えます。

貨幣交換(金と物との交換)社会の発展が、ますます利潤追求が第一となるならば、安定したゆとりのある生活も、ますます追い込まれてしまいます。

地球も金星も、太陽の表面を毎日横切って公転しています。

それなのに、地球から、金星が太陽の表面を横切る姿を拝める珍しい今日・・次は、105年後だとか。

福となる生活を過ごすには、いつまでも、学習と感謝のふたつの気持ちが大事だ・・と考えさせられる金環日食の今日です。

自由権と社会権

2012年06月03日 | 資本と社会の問題
今夜のNHKスペシャル「日本新生・・激論!雇用劣化を食い止めろ」を観ていました。

「まず働く」という自由観点から討論していましたが、「働きたくない、働けないという自由観点」が抜けているのでは?

雇用という面を考えてみると、資本家(経営)側と労働者(従業員)側は、対等な自由な契約であるはずなのですが、労働者側からの賃金、労働時間などの要望を満たす雇用契約などありえません。

現在の不安定な経済状況では、就職活動の求職者の要望よりも経営側が出す要望条件の方が、強いのです。

資本家と労働者という立場は、市民法上では、対等な関係になります。

しかし、契約の自由は、労働者側にとっては、形式的な自由であり、実際は、隷属的な関係です。

失業、低賃金、長時間労働、過労、貧困、生活困難・・これらを背景に、教育を受けられない、医療が受けられない、居住が確保できない、生活保護などの社会保障が必要となります。

歴史的にふりかえっても、自由を侵害して、抑圧してきたのは、支配層である国家権力でした。

自由を主張することが、犯罪とされて、弾圧、抑圧、隷属、強制、偏見、差別を受けたのが、人間の歴史です。

それゆえ、自由権の保障は、国家からの自由とも言われるのです。

自由権は、天から授かったものではありません。

支配層やその権力層との闘いの中で、自由を獲得する運動により、勝ち取ってきたのが、人間の歴史なのです。

現代においても、同じことが言えます。

自由権を発展させる社会を築くには、主体的な努力が、今尚、必要であるという歴史事実です。

日本国憲法第25条には、「すべての国民は、健康で文化的なを最低限度の生活を営む権利を有する・・」とあります。

幸福の追求権というものがあれば、それは、社会権だと考えます。

生存権、教育権、労働権、団結権・・社会的に弱い立場におかれる人間集団の権利を守るという観点からの社会権です。

病人、障害者、子供、高齢者・・全ての国民に保障しうる生存権、教育権、労働権、団結権・・つまり、社会権という社会福祉保障制度を整えるのが、日本新生の国作りなのでは?

幸福を実現する自由な生き方、自由な人生を望むならば、日本人固有の譲り合い、互いを尊敬しあう精神を掲げた社会権の理念を発展させる必要があります。

そんな社会権を備えた日本社会にならないと、いつまでたっても堂々巡りで、自由権に関する議論は、終わりません。

福祉と反福祉

2012年06月01日 | 資本と社会の問題
「もの」と「こころ」は、どちらかが大事だという比較問題ではありません。

豊かな生活には、「もの」は、必要です。

豊かな「こころ」にするために、「もの」が使われます。

ただ、「こころ」が、「もの」やお金の奴隷に成り得る事もあります。

「福祉」と「幸福」も無関係ではないにしても、同等ではありません。

「反福祉」と「不幸」も同様です。

反福祉の状況とは、貧困、差別、隷属、拘束、孤独、発達阻害、環境汚染、暴力、そして、戦争が例としてあげられます。

人々を苦しめ、人権を侵害している社会が、反福祉となります。

加えて、自由という名のもとの資本主義という社会制度です。

利潤獲得至上主義、競争主義を徹底すると、反福祉の社会状況に近づきます。

所得の再分配システムの社会不備は、所得格差、階層格差、貧富の格差を、より拡大します。

福祉とは、一人一人の人間が、何者をも怖れず、自分らしく生活できるということです。

人生に、自己実現を追求できるかということです。

福祉社会とは、何よりも自由権的基本権が、保障されていることを意味しなければなりません。

その条件は、民衆主義を基礎に人権が守られて、生活が安定して、平和のなかで生存できるということです。

福祉の対極となるのが、戦争という反福祉です。