厚生省の指針に沿うと、「看取り」という言葉が使われなくなるかもしれません。
代わりに「人生の終焉活動の・・・」とかナントカという言葉を使うようです。
人生の終焉には、身体的拘束の適正化、褥瘡予防対策をメインに掲げて、心も身体も、穏やかに生涯を終えられる日本国でありたいのでしょう。
現在、日本の高齢者の一人暮らしが約650万人・・・年々増加する統計数値があります。
更には、2025年には、75歳に近づきつつある団塊の世代が約700万人。
・・・ベッド数も、施設職員も全く足りない状況です。
だからこそ、在宅介護・看護という声が大きくなります。
でも、他人様にお世話になるということは、「大きなお世話」と「お金」が必要になります。
・・・自分の老後は、自分の身は、自分で守らないとね。
認知症の徘徊人が、転倒して骨折・・その予防対策に「身体拘束」が必要となるかもしれません。
例えば、ベッドから降りられないように4本柵をする。
例えば、点滴ルートを抜去すると血だらけになります。
弄便(オムツ内に手を入れる)後、糞だらけの手指を口の中に入れて、その指の爪で歯糞を削り取る。
その予防のために手袋をする・・その「身体拘束」は、ある意味で「虐待行為」とも取れるのです。
こういう行為、光景を見るにつれて、日本の介護の現場は、崩壊寸前の状態だと感じてしまいます。
では、一般家庭で「こういう介護」が出来るかと考えると、「想像を絶するストレス」を抱えるのは間違いないと思います。
ちなみに、食事介助での「ご飯」に「おかず」を混ぜて食べさせるのは、嚥下障害予防という名目での「虐待の一部」とみなされるのです。
自分の力で「食べられなくなった身体状況」での延命治療(胃瘻けい管、鼻注けい管)は、ヨーロッパではほぼ否定されます。
一方、日本の高齢者の年金支給の額による収入状況によって、家族が延命治療を判断するポイントとなります。
生きているだけで、毎日毎日、年金が入ってくるという打算なのです。
「あなたの仕事は、このベッドの上で生きること」と介護する奥さんが、寝たきりのご主人に声掛けしていたことを思い出しました。
高齢者、障碍者、弱者への身体的拘束防止は、誰のためのもの?
人権重視という言葉で攻められると、「はて?」という難儀な心境に陥ります。
昨日は、瀬戸内海レモンケーキ、北海道のえぞやステーキ丼弁当をいただきました。
「いただきます」の意味を考えてしまいます。
・・・合掌をします。
どなたかが、ご飯、お菓子を作ってくれたのです。
だから、感謝をしつつ、合掌をして「いただきます」です。
・・・美味でした。
多くの植物、動物の命をいただきました。
それを、噛みしめて感謝、有り難いから、「ごちそうさま=ご馳走様でした」と言います。
ご馳走様と言える人生には、穏やかな場所、穏やかな日々の終焉時が大事だと考えます。
これから超高齢化社会となる日本、「いいことが」いっぱいおこりますように。
怒るではないよ!・・興るです。
健康長寿に関して、こんな手ぬぐいも頂戴しています。
健康と長寿の心得、いただきます。
感謝。