つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

3月1日はビキニ・デー(第五福竜丸事件):自公政権は国民の命と生活は二の次にし国民から核の恐怖と被害を覆い隠した

2024-07-17 23:17:55 | ビキニ・デー

※和歌山県南部の海岸線の国道42号線を和歌山市から新宮市へ向けて車で走っていると、太平洋熊野灘に流れ込む古座川河口に架かる橋の右岸に、そこに建てられている事を知らなければ気付かずに見過ごしてしまうように、第五福竜丸建造地を示す石碑が建てられている。

※2024年は第五福竜丸ビキニ被爆事件70年。1月22日は核兵器禁止条約発効3年目。原水爆禁止高知県民会議(旧総評系)と高知県原水爆対策協議会(共産党系)は1960年代に対立し別々に運動してきたのを解消し、原点に立ち返って共催する。中央組織も大所高所から見直し見習うべきだ。

※2020年3月30日、ビキニ環礁水爆実験で被曝した高知県の元漁船員やその家族ら12人が、被曝と健康被害の因果関係を認めず、労災保険にあたる船員保険を不認定とした全国健康保険協会(東京都)に対し、処分の取り消しを求めて高知地裁に提訴した。さらに2人を加えた計14人が同時にに対して計約760万円の損失補償を求めている。

※2020年2月20日、第五福竜丸元機関士・池田正穂さんが胃がんで死去した。87歳。7年ほど前から、小中学校での語り部を始め、毎年3月1日に焼津市で開かれる反核集会「ビキニデー」などでも証言してきた。

※2019年9月30日、厚労省の社生保険審査会が、によるビキニ環礁での水爆実験被曝がんなどを発症したとして船員保険の適用(労災認定)を訴えていた高知県の元漁船員ら11人に対し、再審査請求を棄却した。以下は、2016年2月20日に投稿したものを少し加筆修正し再投稿したものです。

 ここ数日の間に、あちこちで桃の節句(ひな祭り)の飾り付けを目にする事が多くなった。社会福祉協議会のデイサービスセンターでもお年寄りの手になるかわいい作品が部屋の片隅を飾るようになり心安らぐ雰囲気を作っている。しかし、この数日前の3月1日も国民にとって決して忘れてはならない日としなければならないと思う。

 3月1日は、「ビキニ・デー」と呼ばれる日である。1954年の3月から5月にかけて、米国は太平洋ミクロネシアのマーシャル諸島・ビキニ環礁で6回の核実験を繰り返した。キャッスル作戦:ブラボーである。その3月1日に、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」がその核実験に遭遇し、放射性物質の灰(死の灰)を浴びたのである。3月14日には被爆した乗組員23人は静岡県焼津市に帰港し、すぐ入院した。しかし、同年9月には無線長の「久保山愛吉」さんが死亡したのである。

 大阪市出身で、国際原子力機関副部長やウィーン大学名誉教授などを歴任した「西脇安」氏は、1954年にヨーロッパでいち早く被爆データを公表し、核兵器や放射能被害への世界の関心を高める事となった。

 核実験時、周辺海域には1千隻もの船がいたが、日本の第1次鳩山一郎自民党政府と米国アイゼンハウアー大統領政府は、日本に原子力を導入する時期と重なっていたので、被害の問題は日本のマグロ漁船「第五福竜丸」だけに限り幕引きを図った。日本政府は船体や水揚げされたマグロの放射能検査を止め、1955年1月には米国政府と「200万㌦の金額を法律上の責任と関係なく(賠償金ではなくという意味)慰謝料(見舞金)として日本政府に提供する」との文書を交わし、処理したのである。

 当時、「西脇氏」に対して、米国では雑誌が彼を「共産主義者」と決めつけ「西脇の計測器は日本製で性能が悪いから高い数値が出た」と書いた。また、「日本は大げさ」「漁師の負傷は大した事はない」と被害を過小評価する声が出た。

 日本自民党政府は、米国政府に対して、国民のいのちと生活を守るためにきちんとした謝罪と賠償交渉をしなかったのである。また、被害者に対しては口封じ金を与えるとともに、国民に対しては核に対する恐怖心を持たないようにするために、この事件を国民の記憶から消し去ろうとしたのである

しかし、この事件は「原水爆禁止運動が広がるきっかけとなった

1954年には、のちに「ノーベル平和賞」を受賞した科学者ロートブラッド氏は、西脇氏から被爆データを入手し、イギリス哲学者バートランド・ラッセル氏に伝えた。

1955年7月には、ラッセル氏は、物理学者アインシュタイン氏や湯川秀樹氏らと核時代における戦争の廃絶を訴える声明ラッセル・アインシュタイン宣言」を発表した。

 ※湯川秀樹……核の平和利用という理由で原発建設には賛成であったようで、初の原子力委員の一人になり、原発を推進する役割を果たした。又、敗戦までは、神国日本を奉じて戦争遂行に協力しており、「洞窟の奥に設置された巨大なサイクロトロンから発生させた中間子ビームがワシントンを破壊する」という「新春の夢」を新聞に寄稿していた。又、戦後には戦前の著作に手を加え出版していた。

1955年8月には、第1回「原水爆禁止世界大会」が開催された。

1957年7月には、核廃絶などを求める科学者による「パグウォッシュ会議」が始まった。

 それに反して、戦後日本の為政者(自民党系)たちは、一貫して、国民の立場に立った政治をして来なかった。そして、今日まで自民党核廃絶をめざす運動組織を有していないし、核廃絶運動を行った事がない。

たとえば、昭和天皇自民党政府は、1964年に来日したヴェトナム戦争の米国空軍参謀総長カーチス・ルメイに対し「勲一等旭日大綬章」を贈った。彼は一夜にして10数万人の死者を出した「東京大空襲」を含む日本への無差別空襲広島・長崎への原爆投下の指揮をした人物であった。このような人物に昭和天皇は「最高の栄誉」を授与しているのである。

 また、昭和天皇は1975年10月の皇居での記者会見で、中国放送の秋信利彦記者の質問に対し、次のように答えている。

秋信記者:天皇陛下にお伺い致します。陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市に行幸され、「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。我々はこの犠牲を無駄にする事なく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、以後昭和26年、46年と都合三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞いの言葉をかけておられるわけですが、戦争終結に当たって、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか、お伺い致したいと思います。

昭和天皇:原子爆弾が投下された事に対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中である事ですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ない事と私は思ってます。

同記者戦争責任についてどのようにお考えになっておられますか、お伺い致します。

天皇そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よく分かりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます

 また、2014年5月に来日したイスラエルのネタニヤフ首相と懇談した。宮内庁によると、ネタニヤフ氏は「イスラエルと日本には共通点がある」と述べ、いずれもおびただしい数の市民が犠牲となったホロコースト(ユダヤ人大虐殺)と、広島・長崎への原爆投下を挙げた。それに対して天皇陛下は「ホロコーストは大変に痛ましい事だったと思います」と語った。神聖天皇主権大日本帝国政府とナチスドイツは軍事同盟を締結していたにもかかわらず。

 最高戦争指導者である昭和天皇の言葉には、彼のものの見方考え方が表れているが、国民からすれば、一見自分自身の立場を理解できていなかったように思えますね。しかし、それは間違いなのです。彼は充分理解して発言していたのです。彼を「自分の立場を理解できていなかった」と思えるのは、天皇が国民と同じ思考様式・価値観を持っていると思い込んで見ているからです。彼(天皇家)にとっては「正常」な判断であると確信していたのです。彼にとって国民は自分の奴隷であったから。

 最後に、敗戦直後、昭和天皇はマッカーサー合計11回会見したが、マッカーサーが連合国軍最高司令官の地位を解任されて離日する前日に、最後の会見をした。その時昭和天皇はマッカーサーに「戦犯裁判(東京裁判、極東国際軍事裁判)に対して貴司令官がとられた態度に、この機会に深い謝意を表したい」と述べている事も国民は知っておくべきである。

 平成天皇や現天皇が、このような父親であり祖父である昭和天皇から何を学んできたか、昭和天皇をどのように評価しているかを国民に対して語っていないという事は、父親であり祖父である昭和天皇を否定していないという事であり、逆に肯定しているという事であると見なす事ができると言って良い。そういう平成天皇や現天皇を、「国民」が「国民の象徴」という立場に位置づけてきた、また、位置づける事を認めたというのが今日の日本国民の精神的状況なのである。国民にとってこのような状況は清算すべきものであろう。

 

 

 

 

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「戦後75年 被爆地往復書簡」(朝日新聞):二人に欠けていた長崎についての認識と憎むべき相手

2024-07-17 09:23:05 | 核兵器

 2020年8月4日の朝日新聞夕刊「戦後75年 被爆地往復書簡」を読んだ。その中で、広島の甲斐さんが「広島は軍都した。軍の施設があり、港から兵隊や物資が大陸に送られていったのです」と述べている広島についての認識は、なぜ原爆を投下されたのかを考える場合、また日本人が核兵器廃絶運動に理解を得る上で、非常に重要な認識だといえる。それは加害の認識であり、その事については、8月4日朝刊『オピニオン&フォーラム』「被爆建築 軍都の証人」で被爆者の切明千枝子さんも「広島は戦争のおかげで大きくなった街なんです。日清戦争の時なんか、大本営が広島にきたんですから」「被服支廠は、太平洋戦争に至るまでの日本の軍国主義のシンボル広島が軍都だった事、原爆被害を受ける前は加害の地であった事の証明です。そんな歴史も知らず、『原爆にやられた可哀そうな被爆地でござい』って平和を叫んでも、空しいものがある」と語っている認識と通じている。そして、拙稿カテゴリー「核兵器」の「核廃絶の本気度が疑われる『広島平和記念館』……」に書いたが、すでに広島の平岡敬元市長がそのような認識をもつ事の重要性を主張していたからである。そして、この加害の認識については長崎の本島等元市長も主張していたのです(上記拙稿参照)。

 しかし、甲斐さんは、長崎についてのイメージにはそのようなもの(加害)がないように語っている。そして、長崎の原田さんもその事を知らないのか、触れていない。しかし、二人は知らないのである。実は本島等元市長はきちんと主張していたのです。それは「長崎は原爆の被害を被ったわけですが、実は大橋という所に兵器工場があり、そこでは日本で作られる魚雷の実に8割を生産していました。そして、その工場で作られた魚雷が実際に真珠湾攻撃などで使用されたわけですから、やはり外に向かって戦争責任があり……」(2002年8月4日第2回『大東亜聖戦大碑』の撤去を求める全国集会で講演)というものです。そして、2020年8月5日朝日新聞戦後75年 被爆者は託す4⃣」でも、山口美代子さんについて「戦時中、長崎には魚雷や防雷具などを作る兵器工場があった。長崎県立長崎高等女学校3年生だった山口さんは、長崎市の三菱兵器大橋工場に動員され、魚雷の部品の図面を複写していた」としているのである。長崎も加害の街だったのです。二人がこの事実を知っていたら、もっと違った内容の語らいになった事だろう。

 そして、二人は戦争も核兵器をなくすためには、原爆を投下された事について、ともに「米国」に対する「憎しみ」「悲しみ」を「越え」る事の大切さを共感し、「知り、行動し、平和を作っていく」事の大切さで意気投合しているが、その目的を達成するためには先ず知らねばならない事がある。それは米国に2発の原爆投下を実行させた神聖天皇主権大日本帝国政府為政者投下前後時点の意識や対応であり、そこから教訓を得る事である。主権者国民は「憎しみ」や「悲しみ」は神聖天皇主権大日本帝国政府へ向けるべきなのである。そして、安倍自公政府に対し、大日本帝国政府の罪を認めさせ謝罪させるとともに、戦後、今日に至るまでの自民党の「核」に関する様々な事故事件などに対する姿勢についても、その罪を認めさせ謝罪させる取り組みを行う事こそ先ず必要であろう。その事なしに原爆(核兵器)の被害者だとして世界の人々に対し「悲惨さ」「酷さ」だけをどれほどの量どれほどの時間訴えても、自分本位にしか理解されず、筋が通った主張とは言えないために、真に心に響かず共感を得る事はできないのである。

(2020年8月7日投稿)

 

 

 

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