広島平和記念資料館の「芳名録」に記した各国指導者の「言葉」について、香川剛広氏は、「核兵器のない世界を目指すという理想に向けた思い、ヒロシマの心が、指導者たちに確実に伝わったのではないか」としているが、指導者たちの「言葉」を安易に思い込みで断じてはならない。それはその「言葉」が「核軍縮に関する広島ビジョン」の内容と一致するものではないからである。「広島ビジョン」について香川氏自身は、「核兵器をはじめ各国とのギリギリの調整の中では文言交渉は難しかったのだろう」、と岸田首相は自身の本当(核兵器禁止?)の「意志」を反映させるため努力したが十分にできなかったかのような主張をしているが、これまでの岸田自公政権の主張からみれば、国民からすればそれは誤った評価であると考えざるを得ない。加えて香川氏は、「外務省では(核兵器禁止条約を)署名、批准すれば、日米安保条約の義務に反するという解釈が基本だ」と、さも国民もその事を理解をすべきであると強いるように主張しているが、この主張は「平和文化センター」の役割と「理事長」の職責に照らして相応しくないのではないか。
そして、ヒロシマの役割として、「市民レベルで海外との交流を通じて被爆の悲惨さを伝えていく事。そして平和のための地道な活動、協力を草の根レベル、市民レベルで広げていく事だ」と主張しているが、これは今日分かり切った「おざなり」の教科書的主張であり、これまでの反核運動や近年の核兵器禁止運動と何ら変わらぬ、誰もがすでに認識し実践してきている姿勢認識に過ぎない。
そして結論のように、「独裁者に対抗するには、市民の声をもっともっと強くしないといけない。道が遠いようでもそれが王道」と主張するが、この「独裁者」とは誰の事を指すのかをなぜ明確にしないのか納得できない。なぜなら国民から見れば、独裁者は他国に存在するのではなく、日本の「自公政権」、現在では「岸田自公政権」であるといってもよいからである。岸田自公政権が、戦前の独裁者であった神聖天皇主権大日本帝国政府が起こした侵略戦争と同様の過ちを二度と繰り返させないために、その政治姿勢に対抗抑止する必要に迫られている状況にあるからである。市民国民は、「日本国憲法」の「前文」にある「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こる事のないようにする事を決意」すべき状況に陥っているからである。この事を理解できず「独裁者」を「明確」にしていないのであれば、「広島平和文化センター理事長」の資格はないだろう。
(2023年6月1日投稿)