2017年11月30日の新聞は、「兵庫県は29日、初代総理大臣の伊藤博文が初代知事として執務した『初代県庁舎』を神戸市兵庫区の市有地に復元する計画案を明らかにした」と報じた。その『初代県庁舎』は1868年7月、明治政府が大坂町奉行所兵庫切戸町勤番所を使用して設置したもの。
復元目的は、来年7月で「県政150年を迎える記念事業」の一環で、県政の歴史や文化を学ぶ施設などとして活用するという。
このような目的の事業に対し、兵庫県民や神戸市民は異議申し立てをすべきではないのか。なぜなら、安倍政権が強引に、「明治の精神に学ぶ」という事を目的として、2018年に「明治150年記念事業」を実施しようとし、あらゆる形で、たとえば「福井国体」に「明治150年記念」の冠称をつけるなどのように、翼賛させる動きを推し進めているが、『初代県庁舎』復元は、安倍政府の事業に追従し翼賛するために実施する事業以外の何物でもないと考えられるからである。地方(自治)制度が戦前と戦後では、天皇主権下と国民主権下との違いから、その性格が大きく異なるにもかかわらず、その事を重要視せず無視し連続したものと捉えているとともに、天皇主権下においても制度変遷があるにもかかわらずそれをも無視する偏向した非科学的な歴史認識に基づいたこじつけ事業だからである。新聞の記事表現もその点においては、兵庫県や神戸市と同様の歴史認識を基づいており同類であるといってよい。そこには、兵庫県民や神戸市民、ひいては日本国民に対し、そのような戦前戦後を連続したものと捉える歴史認識に基づいて、伊藤博文を兵庫県の「初代」県知事であったと無理やり位置づけ、後には「初代」総理大臣ともなったと位置づけて顕彰し、それを誇りと感じる意識を植え付けようとする狙いを感じさせる。そのために、伊藤博文の多面的全体的な評価やイメージを、偏向した非学問的な認識に基づいて美化しようとする狙いを感じさせるとともに、神聖天皇主権大日本帝国政府の時代すべてを正当化するために都合よく歴史を書き変えようとする歴史修正主義(価値観の強制)の臭いも感じさせるからである。そして、そのような事に総事業費として県市民の10億円という巨額な税金を投じようとしているからである。県市民や国民にとってこれほど無駄で理不尽な行政議会の恣意的な目的による支出はない。
ちなみに、大日本帝国憲法には地方自治制度の規定はなかったのである。そして、簡単に言えば、今日のような地方自治制度は認められておらず、外見だけの形式的なもので、実態は中央集権的な色彩が強く、政府の統制が強く、政府による国民支配の単なる末端下請け機関であった。知事制度(地方制度)は内務大臣であった山県有朋が、ドイツ人顧問モッセの助言を得て、1890年5月に公布した府県制により確立したが、知事は選挙で選ばれたのではなく、内務省の官吏が天皇から任命されて政府から派遣されたのである。伊藤博文はその府県制以前の府藩県三治制の下で、1868年7月12日(慶応4年5月23日)から、1869年5月21日(明治2年4月10日)までの間、兵庫県知事(正確には知県事でもちろん公選ではない)を務めた。そして、在任中に県庁舎を勤番所から坂本村(現:神戸市中央区橘通)に移転したのである。
ついでながら、府県制確立当時の府議会議員はどのような人がなりどのような人が選んだのかについてみると、府議会議員の被選挙権を持つ人たちは、直接国税10円以上納入する35歳以上の男子で、選挙権を持つ人たちは、市会議員(直接国税2円以上納入する25歳以上の男子)と市参事会員(市会議員から選挙)、郡会議員(市議と同資格の各町村会で各1名選出した議員と地価1万円以上有する者)と郡参事会員(郡議から3名互選)たちであった。要するに地域の寄生地主などの経済的有力者たち同士の間で選び選ばれたという事である。その人たちはまた大日本帝国政府(為政者)と利害の一致する者たちでもあったのである。その資格条件を有さない圧倒的多数の国民(臣民)は、地方行政や政府の政治に関与する権利はまったく認められていなかったのであり、それに抗する行為は犯罪とみなされ警察権力の手が及ぶ対象となったのである。
これに対して戦後は、1947年5月3日施行の日本国憲法第8章で地方自治が地域住民の権利として保障され、1947年4月地方自治法の公布によって住民が地方自治に直接参加する事になったのである。憲法第92条【地方自治の基本原則】では「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める」としている。「地方自治の本旨」とは、住民自治と団体自治を内容とし、地域の住民自らが自分たちの要望に沿った政治を国からの干渉を受ける事なく実現する事である。同第93条【地方公共団体の機関、その直接選挙】では、①地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する(団体自治)。②地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員はその地方公共団体の住民が、直接これを選挙する(住民自治)、などと定めている。
このような歴史を考えれば、今日の我々の府県政のルーツが日本国憲法の施行とともにあると考える事は適切である。
であれば、県政の歴史と文化を学ぶ上で、何を大切に考え、何を受け継いで行くべきかも明確である。「県政150年を記念する」という考え方は日本国憲法を踏みにじるものであり、現在の国民の生活を否定するものであり、行政が守らなければならない憲法第99条【憲法尊重擁護の義務】「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」という趣旨に違反するものであり、兵庫県民、神戸市民、すべての国民はこれを断じて認めてはいけない。
記念事業を同じするなら「県政70年」を今年するべきであった。しかし、兵庫県や神戸市のような歴史認識は、安倍政権を翼賛して、沖縄県を除く全国の自治体行政に蔓延しつつある状況である。2017年11月24日に、全国知事会が改憲草案を公表したが、その一つが参院選で2つの県を1つの選挙区にする「合区」を解消するため、選挙区を都道府県単位にするように第47条の改正を明確に求めている。そして、それは安倍自民党が11月16日に憲法改正推進本部の全体会合で確認した内容とまったく同じなのである。この日の案では、「(参院議員は)改選ごとに各広域的な地方公共団体の区域(都道府県)から少なくとも1人が選出されるよう定めなければならない」との文言を第47条に追加するというものである。この内容は、2010年と13年の最高裁判決の「都道府県を選挙区の単位とする仕組みを維持しながら一票の格差の是正を図る事は著しく困難である」との指摘を無視したものであり受け入れる事はできない。
これは日本国が歴史の逆戻りをし、戦後これまで作り上げて来たものが壊されつつある事を意味している。国民はその事に気づかなければ息の根を止められてしまう事になる。
(2017年12月3日投稿)