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世界遺産登録になぜ歓喜の声?国民は遺産から日本資本主義を学ぶべきだ。

2024-07-28 09:31:35 | 世界遺産

※下記は、2015年7月20日に投稿したものに加筆修正し、改めて投稿したものです。

 1889(明治22)年、2月11日、紀元節の日に大日本帝国憲法が発布された。東京大学医学部のドイツ人教師ベルツがその2日前(9日)の東京の様子を日記に書いている。

 「東京全市は、憲法発布をひかえてその準備のため、言語に絶した騒ぎを演じている。至る所、奉祝門、照明、行列の計画。だがこっけいな事には、誰も憲法の内容をご存じないのだ

上記のような状況が、世界遺産に登録された事でも、国民の間で生じている。

 2014年6月には群馬県の「富岡製糸場と絹産業遺産群」が、2015年の7月5日には新たに明治の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船、石炭産業がユネスコの世界文化遺産に登録された。

 富岡製糸場建設については、大蔵省の渋沢栄一の意見により、フランス製機械の導入、ブリュナなどフランス人技術者の雇用(お雇い外国人)、工女士族の子女の採用とされた。神聖天皇主権大日本帝国政府は生糸(製糸業)を輸出品の目玉として重要視し、富岡製糸場の工場長であった尾高惇忠は明治初期すでに「繰婦(製糸女工)は兵隊に勝る」と考えていた。又政府にとっての生糸政策の重要性は、黒田清隆内閣松方正義蔵相による1889年6月演説に、「天皇陛下が外国より軍艦を購入すべしとのたまいたる時、余は日本の軍艦はすべて生糸を以て購求するものなれば、軍艦を購求せんと欲せば、多く生糸を産出せんことを謀らざるべからずと上言したり」との言葉が表していた。日清戦争前、帝国政府は重工業が未発達で兵器用鉄鋼や軍艦を国内で生産できず、官営八幡製鉄所の稼働まで外国に鉄鋼や軍艦の注文をするしかなかった。そのための代金を得るために生糸が欠かせなかったのである。その生糸生産を担った女工労働については『あゝ野麦峠』に詳しい。

  その産業革命遺産に含まれる「長崎県の高島炭坑や端島炭坑福岡県の三池炭坑・三池港、福岡県の官営八幡製鉄所」について、韓国政府が「戦時中、朝鮮半島出身者に対する強制労働があった」とするのに対して、安倍自公政権が「強制労働ではなく徴用工」だと固執したため、審議での発言内容に激論があり、登録が難航したが、結果として、安倍自公政権は「徴用工」に関する説明を日韓両政府ともに「against  their  will」という英語を使う事で韓国政府と合意し、安倍自公政権声明で「1940年代、その意思に反して連れてこられ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者等がいた。また、第2次世界大戦中(韓国が日本の植民地時代)に日本政府としても徴用政策を実施していた事について理解できるような措置を講じる所存である。インフォメーションセンターの設置など、犠牲者を記憶にとどめるために適切な措置を説明戦略に盛り込む」と「負の歴史」も踏まえた情報発信をする事を約し、登録が決定した。

 しかし、登録決定翌日から、菅官房長官は、英語の解釈が韓国政府とは異なると知り、「強制労働ではない」と否定している。しかし、外村大東京大教授によれば、「暴力的な動員や過酷な労働を強いた事実は多くの研究で証明されている、意思に反した事が強制した事。言葉のごまかしは国際社会では通じない」という。

 「大日本帝国政府は、1939年から毎年、日本人も含めた労務動員計画を立て、閣議決定した。朝鮮からの動員数も決め、日本の行政機構が役割を担った。手法は年代により『募集』『斡旋』『徴用』と変わったが、すべての時期で概ね暴力を伴う動員が見られ、約70万人の「朝鮮人」が主に日本内地に送られた」「内務省が調査のため44年に朝鮮に派遣した職員は、動員の実情について“拉致同様な状態と文書で報告」「徴用は国民徴用令に基づき、国が責任をもって配置するもので国の栄誉を担う労働者だった。弔慰金や別居手当など援護もついた。日本人は戦争初期から徴用された。しかし、朝鮮人にこの制度が適用されたのは戦争末期の44年。徴用令を適用しないまま、多くの動員をした」

 「世界遺産」として登録を認められるという事は、その遺産がどのようなものであるかという趣旨を可能な限り明らかにする必要があると思う。それは、世界の人々にとって、未来の人類に対して伝えるべき価値のある遺物であると評価する物だからである。だから、各国の政府や国民の誇りを満足させたり誇示するためのものではない。そして、登録を認められた遺産を持つ国は、それを人類共通の大切な宝として継承するために、世界の人々を代表して保存・保護を責任を持って行わなければならないという事である。また、世界遺産に登録してもらうという事は、世界各国(少なくとも21の遺産委員会)に対し、当該国政府(安倍自公政権)の当該遺産に対する歴史認識が世界的普遍的なものとして共有できるものかどうかを判定してもらう、問う、という意味を持つものである。そして、安倍自公政権は今回、結果として歴史認識に問題がある、という事が明らかになったという事である。

 韓国政府朴政権がもし、世界遺産登録に「反対表明」をしなければ、安倍自公政権はもちろん地元の人々や多くの国民は、韓国との歴史について何も触れずに歓喜の声をあげていただろう。メディアもその事を伝えるだけであっただろう。安倍自公政権にとっては朴政権を腹立たしく思っただろうが、国民にとっては隣国との友好を深める上で学ぶ事があったのではないか

 しかし、日本国民は安倍政権もメディアも話題にしない隠していると言ってもよい事を知るべきだ。それは何か。その当時、日本人労働者はどのような環境条件下で働かされていたかという事だ。韓国朴政権は日本国民に、その事を知るキッカケを与えてくれたと理解したい。

 ここでは特に高島炭坑」と「三池炭坑で日本人がどのような労働環境労働条件下で働かされていたかについて紹介しよう。まず、「高島炭坑については、1888(明治21)年、政教社の松岡好一が雑誌『日本人』(主幹・三宅雪嶺)に発表した「高島炭坑の惨状」と題するレポート(高島炭坑坑夫虐待事件)を紹介しよう。「高島炭坑」は、1874年から工部省の管轄下にあったが、同年民営化により、後藤象二郎の所有となり、1881年に三菱会社が買収し経営した。レポートによると、坑夫の直接管理は納屋頭をもうけてそれに当たらせていた。

納屋頭は各地方の博徒その他に依頼し、ほとんど誘拐同様の手段にて雇入れたれば、目下本坑に従事する坑夫は皆その姦計に陥りたるを悔い、悲憤激昂せざるものなし。……坑夫中過度の労力に堪えずして休憩を請い、或は納屋頭、人繰(人夫頭)の意に逆らう者ある時は、見せしめと称して後手に縛し梁上に釣り上げ、足と地と咫尺するに於いて打撃を加え、他の衆坑夫をしてこれを観視せしむ。余(松岡好一)これを聞く、1884(明治17)年の夏この島にコレラ病の侵入するや、3千の坑夫中その大半、即ち1500余名はこの病のために死せりと。炭坑社はその死せる者と未だ死せざる者とを問わず、発病より1日を経れば之を焼き場に送り、大鉄板上に於いて5人もしくは10人づつ焚焼せり。むべなるかな、高島に3回の暴動起こりし事。その1回の如きは竹槍蓆旗を以て炭坑舎を焼き尽くし、機関を破壊し、まさに由々しき大事に至らんとせしが、早くもその警報長崎に達し、警部巡査及び分営軍人の出張ありてわずかに鎮撫せしといえども、舎員の死傷は少なからざらしと。この暴動にや恐れけん、以来炭坑舎は撃剣に熟達せる者を雇入れ、坑内坑外の取締をはなはだ厳にせり。……」(明治文化全集)

 また、吉本襄によると、「……納屋頭より坑夫に与えられる賃金は採掘高によって定められていたが、食事代、納屋賃、道具代その他の名目で納屋頭に中間搾取され、坑夫にとっては働けば働くほど借金ができる仕組みになっていた。その待遇は毎日12時間という長時間労働で、坑内には35度以上という灼熱の場所もあった。食事は少量のご飯とおかずで、納屋には冬でさえ1枚のふとんも用意されていなかった逃亡を企てると、甚だしきに至りてはこれを縛って逆さまに懲役台に釣り下げるといった残酷な刑罰が加えられた」という。

 納屋制は「高島炭坑」に特別あったものではなく、筑豊・北海道などの諸炭坑に当時は広く見受けられた。同じようなものに「飯場制」「人夫部屋」「監獄部屋などがあった。

 1873(明治6)年、官営化した「三池炭坑」では、「囚人労働」が行われた。1888(明治21)年民営化により、三井所有、1908年には三池港完成。官営時代に坑口の近くに「三池集治監を設けて、九州各地の長期刑囚を集め、坑内労働をさせていた。三井払い下げ後もこの囚人労働の使用は継続した。団琢磨は、「坑内作業の囚徒の脱走を防ぐために坑口に鉄砲を持った監視人が立っていた……囚徒の暴動を鎮圧するために囚徒を竹槍にて刺し殺した」と語っている。暴動は73年から5年間連続して起こった。昭和の初期まで継続された。囚人労働が納屋制労働と比較して有利な点は、その労働力の確保をより安価により大量に行えた事である。

 金子堅太郎は、「彼ら囚人はもとより暴戻の悪徒なれば、その苦役に堪えず斃死するも、尋常の工夫が妻子を遺して骨を山野に埋めるの惨状と異なり、また今日のごとく重罪犯人多くしていたずらに国庫支出の監獄費を増加するの際なれば、囚徒をしてこれを必要の工事に服せしめ、もしこれに堪えず斃れ死してその人員を減少するは、監獄費支出の困難を告げる今日に於いて、万止むを得ざる政略なり。また尋常の工夫を使役すると囚徒を使役するとその賃金の比較を挙げれば、北海道に於いて尋常の工夫は概して1日の賃金40銭より下らず、囚徒はわずかに1日18銭を得るものなり。しからば即ち囚徒を役する時は、この開鑿費用中工夫の賃金に於いて過半数以上の減額を見るならん。これ実に一挙両全の策というべきなり。……よろしくこれら囚徒を駆って、尋常の工夫の堪えるあたわざる困難衝に当たらしむべきものとす」と語っている。金子は伊藤博文にかわいがられ神聖天皇主権大日本帝国憲法作成に協力し、農商務大臣、司法大臣となり、伯爵となった。

 当時の日本の資本主義を象徴する姿は、最新の文明技術(外国人技師を雇い機械導入)と奴隷的労働(労働者は土地を失って流浪する農民や被差別部落民らで、残酷な苦役を強制)の結合というものであった。今日の国民は、我々の祖先がどのような歴史を生きていたのかという事を知り、そこから学び、受け継ぐ事を忘れている。その祖先の生き様や思いこそ「歴史遺産」として受け継がなければいけないと思う。安倍自公政権はそのような国民の遺産を受け継ぐ事にはまったく関心をもたない。価値観が異なるからである。国民は安倍自公政権の価値観に取り込まれないようにしなければならない。魂を売ってはならない常に彼らは飴(金)で国民の魂(心)を取り込もうとしている

 安倍自公政権は、こういう機会を逃さず利用して、翼賛体制化したメディアを使って、国民意識の統合(挙国一致の意識)を醸成していこうとしている。五輪の場合も同じ意図をもって国民意識を馴らしていく取り込んでいくのである。「国旗国歌」を強制するのもそういう効果を与える支配の道具なのです。それを嫌う国民には非国民」というレッテルを張り、精神的に弾圧していき、生きてゆきにくくするのである。 

 登録が決まる世界遺産委員会の取材陣は例年、日本が突出して多い。地元にはテレビカメラが入り、喜びに沸く人々の姿をテレビに映し出していた。メディアが無理矢理に煽っている事が見え見えで、これを見て違和感を覚えた。世界遺産に登録してもらうためになぜ必死になり、登録決定すればするでなぜ歓喜の涙まで流す必要があるのか疑問に思う。最近日本では、観光振興の目玉とするために世界遺産登録をめざす自治体が多くなっているらしい。よく使われる言葉で「経済効果」「町おこし」のキッカケにしたいようだ。つまり、金儲けのために遺産登録に参加するということだ。そのためその遺産から何を受け継ぐのかは明確ではないし、考えてもいないか、金儲けに都合のよい事だけを利用するだけで、本来の意味での「遺産」の意識に乏しいようだ。安倍自公政府でさえも登録申請する時点では、「19世紀から20世紀初頭、製鉄や造船、石炭産業の重工業分野に西洋の技術を導入し、日本が短期間で近代産業国家になった道筋を示している」と位置付ける程度で、日本の近代化を誇りたいためと、景気上昇に利用するとか、商売上得か否か、儲かるか否かの視点だけから判断しており、商売感覚でしか考えていないのである。政府はもちろん国民の多数が精神的貧困、文化的貧困という状態で、文化や思想信条、宗教より金儲けが大事のようなのである。だからこれまで安倍自公政府にそこを見透かされて、経済政策とその政府に翼賛するメディアに足元をすくわれてきたのです。60年安保闘争の後(池田勇人、高度経済成長政策)も、バブル政策も、現在のアベノミクス政策も同じである。国民はずっとエコノミック・アニマルとしての生き方を続けてきたのです。生き続けさせる政策に取り込まれてきたのである。これに気がつかなければ本当の幸せを手に入れる事はできないと思う。つまり、生き方を変える必要があるという事です。その第1歩は安倍政権の政策には必ず裏があるから、疑ってかかり、たやすく同調せず、何を狙っているのかを考えてみる事だ。

  メディアは今回の韓国の動向について「過ぎた政治介入」の見出しで「華やかな世界遺産で影の歴史的な事実を強調するのは難しい」「お互いに支持を得ようと繰り広げた外交攻勢」「日韓両国は得たものはなく」「過ぎたる政治介入として世界は教訓にすべき」と締めくくっているがこれはあまり杜撰なまとめ方であろう。「世界遺産登録」の意味付けが浅すぎる、喧嘩両成敗的発想でかたずける(メディアの傲慢)べき問題ではない。メディアは又「なりふり構わぬ言動が目立った。具体的な被害数を途中から使わなくなるなど根拠の不確かな主張もあった」ともいうが、これには呆れてものが言えない。なぜなら、意思に反して連れてきた神聖天皇主権大日本帝国が「人数を明らかにしていない事こそが問題で誠実ではないからだ。敗戦時に戦争関連資料の焼却処分をしている事自体、後ろめたい事をしたという証拠だ。日本側が連れてきたのだから日本側がその数字を明らかにするのが筋だろう。第3者感覚で批判だけして、自分の意見を中途半端に明確にしないのは無責任である。両者を煽る効果しか生まない。メディアは安泰でも、物事の解決の力にはならない。メディアは「客観的ではない」という事が垣間見える。それを悟られないようにしようとしても。揉ましておく事解決させない事がメディアにとっては金儲けのもととなるからであろう。 

 安倍自公政権は自民党政権であるが、その自民党から「(外相会談で協力を合意したのに)約束が違う」とか「韓国側は(世界遺産委員会で)『強制労働』を主張するとの合意反故を(事前に)言ってきた。完全なる外交上のルール違反だ」と批判しているが、これは自分たちの思惑通りにいかないために、韓国を批判非難しているというだけではないのか

※日本政府は世界遺産登録の際、なぜ構成遺産を戦前の1910年までに限定したのかは不明。

※小出裕章・佐高信『原発と日本人─自分を売らない思想』より

 「自分で物事の是非を判断せず、不都合が起きたら“だまされた”で済ませてしまう国民にも大いなる責任があるのではないか」

 「私たちには騙された責任、そして2度と騙されない責任がある」

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潜伏キリシタン遺産の世界遺産登録は経済効果のためか、国民は学び継承すべき教訓に目覚めよ

2024-07-28 09:20:23 | 世界遺産

 潜伏キリシタン遺跡世界遺産に登録された事を多くのメディア(テレビ各局など)が取り上げている。その取り上げ方は不思議な事に一律で共通しており、登録された事に大喜びをしている事と、その喜びの理由を「経済効果がある」という言葉ひと言で言い表している点に大きな特徴がある。そこには世界遺産に登録されるという事に対するメディアの価値観が端的に現れていると言って良い。これまでの、特に文化遺産に関して言えば、文化遺産を物として外見的な捉え方をするだけであり、それを通してそれを生み出した人々がどのように生きたのか(それはその人たちに対し権力者がいかに対応したのかという事も含むが)やその人々の価値観や思想を理解し、現在の私たちや未来を生きる子孫にとって貴重な教訓にしようとする姿勢態度はかけらも感じさせないものである。それは世界遺産についてお世辞にも真の意味を理解しているとはいえないものである。これは日本国民の最大の欠陥である。

 以下に、神聖天皇主権大日本帝国政府が、長崎浦上村の「潜伏キリシタン」に対してどのような姿勢態度で臨んだのかという事について、農民・高木仙右衛門について紹介するのでそこから教訓を得てほしい。

 「潜伏キリシタン」が国際的問題に発展したきっかけは、1864年12月29日にフランスの力で落成した大浦天主堂(フランス寺)で、65年3月17日に浦上村信徒が名乗り出た事に始まる。当時まだ政権を握っていた幕府は67年7月15日浦上村の信徒約70名を逮捕したが、幕府は政治面でも軍事面でもフランス公使ロッシュに頼っていたため徹底的な弾圧はできなかった。それを示す史料として、その時逮捕された浦上村農民である高木仙右衛門『覚書』がある。それによると幕府長崎奉行・河津伊豆守が仙右衛門に対し改宗を説諭したのに対し、「信教の自由」を訴え「改宗」を拒否したため改宗させられないまま結局「村預け」として釈放している。しかし、帝国政府はそうではなかった。

 帝国政府の「潜伏キリシタン」に対する政策は幕府とは異なり過酷を極めた。1868年3月7日、外国事務係、長崎裁判所(長崎奉行所の後身)参謀に着任した井上馨は「物情騒然たる維新の際、浦上一村をあげてキリシタンである事を騒乱分子として危険視」した。そのため、3月15日、「五榜の掲示」により「キリシタン」を禁じた。そのためそれ以後、外国公使団から「キリシタン禁制高札」の廃止を申し入れられ、「切支丹」と「邪宗門」を書き分ける小手先の改訂をするが、浦上村「潜伏キリシタン」に対しては徹底した弾圧を推進した。

 1868年5月17日には大阪行在所(西本願寺)での御前会議で、浦上村「潜伏キリシタン」の処分を、「一村総流罪」(キリシタンを残さず分散して諸藩に預け改宗させる)と決定した。68年6月7日には太政官布達で浦上村「潜伏キリシタン」の流罪処分が発せられ、7月11日から中心人物114名を津和野藩(28名で高木仙右衛門を含む)、長州藩萩(66名)、福山藩(20名)へ移送し投獄した。70年1月始めには残った村民全員(流罪総人数約3380名)を富山以南の西国21藩に移送し投獄した。

 このような帝国政府の姿勢に対し、各国公使団は直ちに帝国政府に対し警告を発した。71年1月には英国代理公使ウイリアム・アダムズが、右大臣三条実美に対し浦上村「潜伏キリシタン」の待遇改善を申し入れた。それに対し帝国政府は3月にはその要求を受け入れた。さらに、71年12月23日から「岩倉遣欧使節団」が出発したが、訪ねる先の国々で抗議を受けた。72年3月4日には米国大統領グラントから信仰や良心の自由、キリシタン禁制を解く事の必要を勧告された。同年11月27日には英国外相グランウィルからヴィクトリア女王の言葉としてキリシタンの弾圧政策を指摘された。また、仏国外相レミュサやベルギー国蔵相モローや米国国務相フィシュからも抗議を受けた。

 このような事から帝国政府(三条実美)は73年2月24日、キリシタン禁制の高札を撤去するに至る。同年3月14日には太政官布達で「長崎県下異宗徒帰還」を命令し、浦上「潜伏キリシタン」も釈放した。高木仙右衛門はこの間弾圧を耐え忍び、7月9日に帰村できた。しかし、帝国政府はキリスト教を許可したのではなく黙認する事にしただけであった(この事は後の内村鑑三不敬事件でも明確である)。

 津和野藩で高木仙右衛門はどのように扱われどのように抗したのかについては、長崎市本原町お告げのマリア修道会墓地に存する「高木仙右衛門碑文」(1941(昭和16)年建立)に詳しい。そこには「……津和野の冬は寒気稟烈骨を刺す程なるに、翁(仙右衛門)等は単衣の儘にてその冬を過ごし、一枚の布団すら給せられず、一日僅か一合四勺の麥(麦)粥にその飢えを凌ぎ三日或は五日に一度は必ず白州に引き出されて説得を加えられても飽くまで屈せざりければ、三尺牢に閉じ込められて、具に辛酸をなむ、明治二年霜月二十六日の朝の如きは病臥中なりしにも拘らず素裸にされ、氷の張り詰めたる池の中に突っ込まれ、長柄の杓にて容赦もなく、冷水を浴びせられ次第に顔色は蒼黒く舌の根は硬ばり、言葉も自由ならずさすがの翁も今は是までなりと覚悟を定め、天を仰ぎ両手を合わせて一心に祈る、役人等もそれと気遣い命じて池より引き上げしむ、翁は牢内にありても毎日熱心に祈り金曜日毎に断食を行い身をも心をも天主にささげて拷問に堪えるべき力を懇請し、かくして六年の久しきに亘りてよく難萬苦に堪え以て終わりを全うする事を得たり、明治六(1873)年四月放免の恩典に浴し、無事浦上に帰還す、……」とある。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、天皇を神格化し神社信仰・神道を国教として、日本国民の思想的・宗教的統一を確立するために、仏教とキリスト教を弾圧したのである。

 そのような権力者に対して、浦上村の農民・高木仙右衛門は自己の信仰(思想の自由・信教の自由)を守るために命を賭けて抵抗したのである。

 大仏次郎は高木仙右衛門の事を『天皇の世紀』に、「政治権力に対する浦上切支丹の根強い抵抗は、目的のない『ええじゃないか踊り』や、花火のように散発的だった各所の百姓一揆と違って、生命を賭して政府の圧力に屈しない性格が、当時としては出色のものであった。政治に発言を一切許されなかった庶民の抵抗として過去になかった新しい時代を作る仕事に、地下のエネルギーとして参加したものである。新政府も公卿も志士たちも新しい時代を作るためにした事は破壊以外何もして居なかった。浦上の四番崩れは、明治新政府の外交問題となった点で有名となったが、それ以上に、権力の前に庶民が強力に自己を主張した点で、封建世界の卑屈な心理から抜け出て、新しい時代の扉を開く先駆となった事件である。社会的にもまた市民の『我』の歴史の上にも、どこでも不徹底に終わった百姓一揆などよりも、力強い航跡を残した。文字のない浦上村本原郷の仙右衛門は自信を以て反抗した農民たちの象徴的な存在であった。維新史の上では無名の彼は、実は日本人として新鮮な性格で、精神の一時代を創設する礎石の一個となった。それとは自分も知らず、その上間もなく歴史の砂礫の下に埋もれて、宗教史以外の歴史家も無視して顧みない存在と成って、いつか元の土中に隠れた。明治の元勲と尊敬された人々よりも、真実新しい時代の門に手を掛けた者だったともいえるのである」と評している。

 日本国民は、浦上村「潜伏キリシタン」から何を教訓として学ぶべきなのか。

(2018年7月投稿)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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世界文化遺産「軍艦島」徴用の説明センターを安倍政権は東京設置。韓国政府の遺憾表明は当たり前だ!!

2024-07-28 09:11:31 | 世界遺産

 安倍自公政府は2020年6月15日、ユネスコの世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」を説明する施設「産業遺産情報センター」の一般公開を始めた。しかし、元島民の「徴用工差別はなかった」とする証言などを展示しているため同日、韓国外交省が「施設」が朝鮮半島出身者に対する「強制労役の事実」を歪曲して伝えていると冨田大使に抗議をするとともに、報道官名で、展示内容は「歴史的事実を完全に歪曲する内容を含んでおり遺憾である」との抗議声明を出した。

※以下は2017年12月10日に投稿したものに加筆修正し改めて投稿したものです。当時の状況を知る事ができると思います。

 2015年7月5日に世界文化遺産に登録された長崎市の軍艦島(端島炭坑)など「明治日本の産業革命遺産」に関し、安倍自公政権は2017年12月1日、登録の際に日韓両政府間でなされた約束の履行方法として、東京に新設する総合情報センター(インフォメーションセンターの事か?)で「徴用の歴史を紹介する」、つまり、「戦時中に朝鮮半島出身の労働者が軍艦島などで働いた事を含め、多様な情報を発信する」とする方針ユネスコに報告した。

 それに対し韓国・文政府外交省報道官は同月5日、「遺憾」の意を表明し、「日本は国際社会に約束した通り、強制労働の犠牲者を記憶にとどめるための措置を、誠実に速やかに履行する事を求める」と述べた。また、朝日新聞によると、韓国外交省関係者、「(歴史を紹介する)施設が東京に設置される事を含めて、様々な問題がある」と述べている。さらに韓国ハンギョレ新聞など韓国メディアでは「日本が軍艦島の朝鮮人強制労働についての説明資料を現地から1200㌔も離れた場所に置く」と批判している。

 なぜ、韓国政府や、韓国メディアや韓国国民からこのような受け止め方をされるのであろうか。安倍自公政権はどのような約束をしたのであろうか。そして今回の安倍政権の方針は、韓国側から見てその約束をどのように違える内容であるという事なのであろうか。当時を振り返ると、

 産業革命遺産に含まれる「長崎県の高島炭坑や端島炭坑、福岡県の三池炭坑・三池港、福岡県の官営八幡製鉄所」について、韓国政府が「戦時中、朝鮮半島出身者に対する強制労働があった」としたのに対し、安倍自公政権が「強制労働ではなく徴用工だ」と固執したため、審議での発言内容に激論があり、登録が難航したが、結果として、安倍政権は「徴用工」に関する説明を日韓両政府ともに「against  their  will」という英語を使う事で韓国政府と合意し、安倍自公政権は声明で「1940年代、その意思に反して連れてこられ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者等がいた。また、第2次世界大戦中(韓国が日本の植民地時代)に日本政府としても徴用政策を実施していた事について理解できるような措置を講じる所存である。インフォメーションセンターの設置など、犠牲者を記憶にとどめるために適切な措置を説明戦略に盛り込む」と「負の歴史」も踏まえた情報発信をする事を約束し、登録が決定している。

 この経過から見れば、韓国側とすれば「安倍政権にごまかされた」という受け止め方をしても仕方がないと思える。「約束」を誠意を持って履行しようとしているとは言い難いが、みなさんどうでしょう。

 しかし、このような事になるであろう事はすでに予想可能であった。なぜならそれは、登録決定の翌日の時点で、菅官房長官が、英語の解釈が韓国政府とは異なると知り、「強制労働ではない」と否定発言をしていたからである。なお、それに対しては、外村大東京大教授が暴力的な動員や過酷な労働を強いた事実は多くの研究で証明されている。意思に反した事が強制した事。言葉のゴマカシは国際社会では通じない」とメディアを通して述べていた。

 今回上記のような方針を公表する事によって安倍自公政権は、登録時の「約束」は「口先だけ」であった事を暴露するとともに、どのような事実を突きつけられようと、「戦時中、朝鮮半島出身者に対して強制労働をさせた事実」を絶対に認めたくない認めないという意識世界(価値観、歴史認識=歴史修正主義)に生きているという事を改めて暴露する事になったという事である。

 ちなみに、神聖天皇主権大日本帝国政府は、1939年から毎年、日本人も含めた労務動員計画を立て、閣議決定した。朝鮮からの動員数も決め、日本の行政機構が役割を担った。手法は年代により『募集』『斡旋』『徴用』と変わったが、すべての時期で概ね暴力を伴う動員が見られ、約70万人の「朝鮮人」が主に日本内地に送られた。内務省が調査のため44年に朝鮮に派遣した職員は動員の実情について『拉致同様な状態』と文書で報告していた。徴用は国民徴用令に基づき、国が責任をもって配置するもので、国の栄誉を担う労働者だった。弔慰金や別居手当など援護もついた。日本人は戦争初期から徴用された。しかし、朝鮮人にこの制度が適用されたのは戦争末期の44年であった。徴用令を適用しないまま多くの動員をしたといわれる。

 安倍自公政権はわがままのし放題を憲法改悪によって正当化しようとしている。主権者国民は可能な限り早く退場させなければ、主権者国民にとって日本国は安心して生きていけない国、住みたくない国になってしまうだろう。

※別稿「世界遺産登録になぜ歓喜の声?遺産から何を学ぶべきなのか?」(2015年7月20日投稿)などもあわせて読んでください。

(2020年6月16日投稿)

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安倍自公政権は「明治の産業遺産」について世界遺産委での韓国政府との約束を反故にするな。近鉄は生駒トンネル建設事故死の朝鮮人労働者慰霊碑建立

2024-07-28 09:00:44 | 世界遺産

 2019年12月1日までに安倍自公政権は、世界文化遺産に登録された長崎市の軍艦島など「明治日本の産業革命遺産」に関する保全状況報告書をユネスコに提出した。安倍自公政権は、2015年の世界遺産委員会では「意思に反して連れて来られ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者がいた事を認め、当時の徴用政策について理解できるような措置を講じる」と表明していたが、今回触れていない。そのため、韓国政府は安倍自公政権に対し「朝鮮半島出身の強制労役の犠牲者を記憶に止める措置をとる事を約束した」と主張し、「約束通りの措置をとる」よう要求している。

 近畿日本鉄道の前身である大阪電気軌道会社生駒トンネル建設において、朝鮮人労働者が落盤事故により死亡している。

 1910年9月、大阪~奈良間に電車を走らせようと、大阪電気軌道会社が創立された。大林組の大林芳五郎らが創立委員となり、社長に広岡恵三、専務に七里清介、取締役に岩下清周らが就任した。大正時代の初期には、大阪~奈良間にはすでに国鉄(現JR関西線)が走っていたが、生駒山を迂回していたので、2時間近くもかかっていた。それを50分前後に短縮しようとした。この事業の最大の難関は生駒山であった。山をぶち抜くトンネル案と、ケーブルで山頂を越そうという案と、2つの案が出た。トンネルでは膨大な経費が必要なのでケーブル案に傾きかけた時、岩下が現地を見に行き「遊覧電車ならともかく、高速電車をケーブルにすると後世の物笑いになる。どんな事があってもトンネルにすべきだ」と主張した。

 1911年6月19日、大阪上本町~奈良三条間の30.6㌔の鉄道敷設に着手した。同年7月4日から全長3388㍍、幅6.7㍍、高さ5.5㍍のトンネル工事が、東西から同時に始まった。当時、国鉄中央線の笹子トンネル(4.7㌔)が日本で最長であったが、これは単線狭軌で、複線広軌では生駒トンネルが最初の試みであった。1913年1月26日午後3時半頃、生駒トンネル東口から700㍍の坑内で、レンガを積み上げ中、落盤事故が発生し、153人が生き埋めとなり、19人が死亡した。

 生駒駅の北側にある浄土真宗西教寺では工事関係者の葬儀や法要が営まれた事から当時の追悼式の文書や工事期間中の過去帳が遺されている。生駒トンネル西口から下った浄土真宗称要寺(東大阪市日下町)境内には大阪電気軌道会社と大林組が建立した「招魂碑」がある。裏面には24名の傷病没名が刻まれ、その中に朝鮮人労働者の名がある。

 生駒駅から宝山寺への参道を登ると、右側にハングルのルビがふられた「宝徳寺」があるが、戦後外国人に対し認められた最初の宗教法人である。この寺は住職の趨南錫(故人)が生駒トンネル工事で酷使された同胞の話を知り、トンネル工事にゆかりのあるこの地に建てたものである。境内には1977年11月、地元の有志と近畿日本鉄道の協力し、本堂より一段高い敷地に「韓国人犠牲者無縁仏慰霊碑」を建立している。

 生駒トンネル工事の現場に朝鮮人労働者が働きに来ざるを得なかった背景の一つに「韓国併合」以前の朝鮮での鉄道工事がある。生駒トンネルの工事を請け負った大林組は当時のゼネコンとでもいうべき他の土木請負会社とともに、日露戦争(1904~05)を契機として朝鮮での鉄道工事に参入している。京釜鉄道(ソウル~釜山)の一部と臨時軍用鉄道の一部、さらにソウル~義州間の停車場や機関庫の工事を請け負い、以後の日本国内の請負工事に実績を上げていく。大林組と朝鮮人労働者との関係はこの時期から密接になり、生駒トンネル工事にも朝鮮人労働者が就労する事になったといえる。また、大林組は「韓国併合」後の日本国内での請負工事で、朝鮮人の労働力を最大限に利用し私益を上げていく。

 生駒トンネル工事の歴史は、単にならと大阪の地方史ではなく、これ以後に続く「朝鮮人強制連行・強制労働」の起点であり序章であるといえる。

 1914年1月31日未明、生駒トンネルは貫通し、4月30日に開業した。

 1964年7月、車両の大型化にともない、すぐ南側に新しい生駒トンネルが貫通し、50年にわたるお勤めを終えた。

(2019年12月12日投稿)

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安倍談話のあいまいさは歴史修正主義そのもの、人権を保障するための「未来への知恵・教訓」は得られない

2024-07-28 00:06:43 | 安倍政治

 2015年8月14日夜、安倍首相の戦後70年談話が発表された。記者会見の冒頭発言や談話の冒頭部分、談話読み上げ後の発言で、何度も強調した言葉に「歴史(の教訓)から未来への知恵を学ばなければならない」とあるが、談話の言葉からは「教訓」も「知恵」も学べない。なぜなら、学ぶという事は、物事を判断しそれに対して何らかの態度を示したり行動をするための糧情報とする事ができなければならないからだ。最初の部分では、明治維新から敗戦までの歴史であるが、いくつかの誰もが割とよく知っている歴史用語が使用されているが、故意に韓国(朝鮮や大韓帝国)や中国(清や中華民国)などアジアの国々との歴史を抜き落としているし、また歴史用語は並べただけなので、具体的に何が問題であったのかが理解できないし、なぜ「力の行使」によって解決する事になったのか、なぜ「国内のシステムはその歯止めたりえなかったのか」を明確にしなければ、未来を誤らないための「教訓」も「知恵」も学びようがない。読み方によっては欧米諸国が日本を戦争へ向かわせたようにも解釈できるし、必然的に侵略戦争ではないという解釈もでき得る。教科書のダイジェスト版にもならないし、誤った歴史認識を広めてしまう。教科書の文章の方がまだマシである。しかし、それが安倍政権の狙いであると考えられる事を押さえておかなければならない。

 この談話を出す意味は、時の首相が政府を代表して、現在は安倍首相が政府を代表して、時の日本政府がとった政策に対する認識を、国民に対して、世界に対して表明するという事のはずであるがそのような文章になっていない。今回は明治維新からの内容にしているが、日本政府のアジアへの侵略が「やむを得ないもの」と理解してもらうためなのか、西欧列強も「同じ事をしているではないか」と言いたいためなのか。また、「アジアで最初の立憲政治を打ち立てて独立を守り抜きました」とあるが、「アジアで最初」という事を誇りたいためか。それよりも天皇制政府はドイツ風憲法を制定するために、「自由民権運動」を警察軍隊という政府のもつ権力よる弾圧で潰滅粉砕したという経過が存在した事を明確にしなければならない。

 また、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけた」というのは、「日露戦争に勝利した」と言いたいのと「アジアやアフリカの人々のために良い事をした」と言いたいのであろうか。しかし、それは歴史の真実を捻じ曲げた誤った認識である。日露戦争中には韓国の意思を無視して軍事的威圧のもとに韓国侵略「韓国併合」への準備を着々と進めていく。また、第1次世界大戦中には中国侵略「21カ条の要求」を突きつけていく。

◎韓国併合への道

 1904年2月8日に仁川・旅順のロシア艦隊を奇襲攻撃、10日に宣戦布告後の23日、韓国の「中立声明」を無視し、「日韓議定書」を押し付けた。第1条には「……東洋平和を確立するため、大韓帝国政府は大日本帝国政府を確信し施設の改善に関しその忠告を容れる事」とあり、国際法上からは「忠告」は「命令」と同じで、これによって韓国は事実上日本に従属する事になった。つまり、韓国が自主権の一部を放棄し、重要な国務に対し干渉する権利を日本に認めるとともに、国防を全面的に日本に依存する事とした。調印の際、韓国の強硬に反対する大臣は辞任させて調印した。同年5月の「対韓施設綱領」では、 ➀防備を全うする事、②外政を監督する事、③財政を監督する事、④交通機関を掌握する事、⑤通信機関を掌握する事、⑥拓殖を図る事、の6項目を打ち出した。この綱領は併合までに実現させた。同年8月には第1次日韓協約を結ばせ、「韓国は日本政府推薦の財政・外交顧問を任用する事。重要な外交案件は事前に日本政府と協議する事、とした。

 05年9月のポーツマス講和条約に先立ち、日本は韓国の植民地化に米英の同意を得るため、米国とは同年7月に桂・タフト協定を結び、米国が日本の韓国における支配権を認めるかわりに、日本は米国のフィリピンへの支配権を認める事を、英国とは同年8月に第2次日英同盟協約で、日本は英国のインド支配の安全を助ける義務を負うかわりに、英国は日本が韓国を保護する事を認める事を確認した。 日本は日露戦争をきっかけに、米英の「極東の憲兵」になる事により、韓国の植民地化を実行した。同年11月には伊藤博文が韓国皇帝皇宗に「この保護条約の原案は我が方で練りにねったものであるから……御承認のない時は現在よりもっと悪い状態になるであろう」と脅し、ソウル市内には日本軍が駐留し、駐留軍司令官を伴って閣議に出席し、大臣一人一人に締結の賛否を聞くという状況の下で第2次日韓協約(保護条約)を結ばせ(総理大臣と大蔵大臣は「絶対に否なり」とこたえ、外務大臣は黙秘したが承諾とされ、ほかの4大臣はしぶしぶ同意した)、韓国の対外関係は日本の外務省が処理(外交権の接収)、ソウルに統監府を設置し初代統監には伊藤博文が就いた。

 保護条約締結後、反対した総理大臣は職を追われ、抗議自殺をする廷臣も出た。

1907年、韓国皇帝皇宗は、オランダ・ハーグで開催されていた第2回万国平和会議に秘密使節を送り、日本の非道を訴えたが失敗。伊藤は保護条約違反として高宗を退位させ、純宗をたて、第3次日韓協約を結ばせ、内政権を接収し韓国軍隊を解散した。09年7月には日本政府は韓国を廃滅する方針を閣議決定。10年8月、日本の全憲兵・警察の厳戒の中で、第3代統監寺内正毅と韓国総理李完用との間で韓国併合条約締結。韓国を朝鮮と改称。朝鮮総督府を置き、寺内正毅が初代総督。総督は天皇に直属し、朝鮮での軍隊をも統率し、立法・司法・行政の一切の権力を握った。この権力で日本政府は朝鮮人民を支配し、すべての権利を奪い、植民地とし、その後のアジア大陸侵略の拠点とした。条約の前文には「相互の幸福を増進し、東洋の平和を永久に確保せん事を欲し……」とあり、第1条には、「韓国皇帝は……譲与す」。第2条には「……譲与を受諾す」とあり、韓国皇帝からの要望であるような表現であるが、これは日本政府の強要である事を隠蔽するものである。併合について日本国内では8月29日、官報で国民に発表。諸新聞は一斉に併合を祝した。東京市内は軒並みに日の丸が掲げられ、祝杯をあげた人々が記念の花電車に喜々として乗り込む姿があちこちで見られた。

◎21カ条の要求

 第1次世界大戦の勃発は日本政府にとって「大正新時代の天佑」といわれた。元老井上馨は、大隈重信首相に手紙で「今回欧州の大戦争は、日本の国運を発展させる大正の新時代の天佑なので、日本国は直ちに挙国一致の団結によって、この天の助けを利用しなければならない」と伝えた。1914年8月7日、英国は日本に対して、東シナ海で英国商船を攻撃するドイツ武装商船の捜索撃破を要請。日本政府は閣議を開き、加藤高明外相が「日本は日英同盟の義務によって参戦せねばならぬ立場にはない(東亜及びインドにおける領土権又は特殊権益が直接侵害されない限り、日本は参戦の義務を負うものではなかった)。ただ一つは英国からの依頼に基づく同盟の情誼と、一つは日本帝国がこの機会にドイツの根拠地を東洋から一掃して、国際上に一段と地位を高める利益と、この二点から参戦するのが良策」と説明し全面参戦決定。欧米列強の隙を衝いて、中国を日本の独占的な支配下に置く事が目的。英国は依頼を取り消したが日本政府は受け入れず、23日ドイツに宣戦布告。

 中国は「中立宣言」をしていた。開戦と同時に政府は、満蒙問題の一挙解決と、中国本部における利権獲得の準備に着手。同年1月18日、21カ条の要求を袁世凱大総統に突き付けた。第1号要求では「偏に極東における全局の平和を維持し且両国の間に存する友好善隣の関係を益々強固にする事を希望し」とある。日本政府は外国の干渉を恐れて秘密保持と一括交渉を要求したが公然化。日本政府の軍事力での威圧に対して袁世凱は主権侵害の条項(第5号要求)は交渉に応じられないと抵抗したため、日本政府は5月7日、第5号要求を保留としてその他の受諾を要求する最後通牒を突き付けた(回答期限9日午後6時)。日本政府は海軍艦隊を増派してアモイ、ウースン、タークーに終結させ、山東半島や南満州には陸軍部隊を増派して回答を待った。5月9日、袁政府はやむなく受諾、同月25日、諸条約・交換公文に調印。中国人民は5月7日と9日を「国恥記念日」とし抗議運動を展開。

 ※第5号要求

「中国政府の政府・財政・軍事顧問として日本人をおく事、……中国警察を日華合弁にするか、日本人顧問をおく事、中国軍隊の一定量の兵器を日本から輸入するか、日華合弁の兵器廠からの供給を仰ぐ事、など中国全体にわたる諸要求……」

 そのほかにも台湾出兵(侵略)や日清戦争による台湾の割譲、江華島事件に始まる朝鮮への侵略など多くの東アジア諸国に対する侵略行為が行われた事についての言及がないというのは、その事については日本政府は「正当な事」と解釈しているという事なのであろうか。「談話」は安倍首相の歴史認識を示しているという事であろう。つまり歴史修正主義という考えの持ち主で、狙いはこれまでの歴史的事実を自分に都合良く解釈しなおしてつなぎ合わせ、日本国民の歴史認識を又歴史教科書を作り変えてしまおうとしているという事なのだろう。安倍氏のお友達の「つくる会」系の育鵬社出版の教科書が今年大阪市でも採択されたが、さらに全国的に普及させるために採択増加運動をしているようだが。この採択ルールには非常に不信感を抱いているがここでは触れない。

 歴史から学ぶという事は、誰が(誰と)いつどこで誰と(誰に対して、誰から)何をどのようにした(された)のかという点について真実を知り、そこから知り得た事実を現在を生きより良い未来を築くための「教訓」「知恵」として生かす事なのである。

 安倍首相のいう「歴史から学ぶ」の意味がこの談話の内容かと思うとやはり、その地位に立つ資格はないと言わざるを得ない。また、国民に向かって物申す資格もないと言わざるを得ない。早く退陣してもらいたい。国民や世界の人々は、戦争によって人生を家族を生活を社会を歪められ壊され苦難を強いられてきた、もっと解決救済が急がれる切実で具体的な事実に対し、政権の認識を明確に表明する事を望んでいた。発表に至るまでに国民はもちろん世界の人々の気持ちを振り回してきたのだから。

 満州事変は1931年9月18日、奉天(瀋陽)郊外の柳条湖付近で、関東軍(板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐らが立案・実行)が満鉄の線路を爆破し、中国軍の仕業であるとして軍事行動を起こした事に始まる。(1932年1月8日、昭和天皇は関東軍の軍事行動を讃える勅語を発表)。第2次若槻内閣は不拡大方針を声明したが、関東軍は戦線を拡大。次の犬養内閣は、中国との直接交渉を目指し、軍部の独走や欧米との摩擦を最小限に抑えようとしたが、32年3月1日には軍部は「満州国」建国を宣言。承認を渋っていた犬養首相は海軍将校と右翼グループによるテロにより32年5月15日射殺された(5・15事件)。その時のメディアはすべて関東軍の行動を称賛した。そして、犬養射殺から1ヶ月後、衆議院は満場一致で満州国承認を可決した。32年2月、中国の訴えを受けていた国際連盟の「リットン調査団」が来日したが、報告書が出る前の32年9月には「日満議定書」を交わし、日本政府は満州国を承認。33年5月31日には関東軍代表と中国国民政府軍代表とが「塘沽停戦協定」を締結し、中国に満州侵略の既成事実を認めさせ、満州国を中国本土から事実上分離、34年3月1日には溥儀を皇帝とする満州帝国を成立させた。

 ※関東州の租借権、南満州鉄道(長春~旅順)とそれに付属する権利は、日露戦後のポ ーツマス条約で、清国(中国)政府の承認が必要とされていたが、日本政府は清国の抵抗を押し切り「満州に関する日清条約」(北京条約)を締結し強奪した。

 ※昭和天皇の関東軍の軍事行動を讃える勅語

「先に満州において事変の勃発するや自衛の必要上関東軍の将兵は果断神速寡よく衆を制し速やかにこれを芟討、爾来艱苦をしのぎ祁寒に堪え各地に蜂起せる匪賊を掃蕩しよく警備の任をまっとうし或は嫩江チチハル地方に或は遼西錦州地方に氷雪を衝き勇戦力闘以てその禍根を抜きて皇軍の威武を中外に宣揚せり、朕深くその忠烈を嘉す、汝将兵ますます堅忍自重以て東洋平和の基礎を確立し、朕が信倚に応えん事を期せよ」(関東軍よ、よくやった、即刻の判断に基づいてためらう事もなく敵をやっつけて、わが皇軍の強さを世界中に見せつけたのも喜ばしい事だ)

 ※メディアの関東軍に対する称賛 『東京日日新聞1931年10月27日』

「満州・蒙古(モンゴル)における日本の特殊権益は“日本民族の血と汗の結晶”」と擁護・宣伝し、戦争熱を煽り、軍事行動を支持した。」

 ※リットン報告書(1932年10月1日に日中両国に通達された。)

「日本軍の武力行使は自衛のためでなく侵略行為であり、不戦条約に違反し、中国の主権を侵している。満州国が住民の自発的な運動によるものとは認められない。日本軍が匪賊と称している者も、大部分が祖国防衛のための行動である」と認定。「単なる現状回復ではなく日中間に新しい条約を締結させ、満州における日本の本来の権益を確保させる事や、満州には中国の主権の範囲内で広範な自治を認める自治政府をつくり、その政府に日本人を含む外国人顧問を任命する方向で解決を図るべきだ」と報告。

 ※日本の国際連盟脱退

「連盟は1932年11月21日から報告書の審議に入り解決策の試案を作成したが、その審議中に関東軍は満州国の領土をさらに拡大するために熱河省に侵略した。33年2月の臨時総会で、日本の満州国承認の撤回や日本軍の満鉄付属地内への撤兵などの勧告案を42対1の賛成多数で採択した(反対は日本、タイは棄権)。日本全権松岡洋祐はこれを拒否し、会場から退場。1933年3月27日に連盟脱退を通告(1935年5月発効)。同日、天皇は脱退に関する詔書を発布した。36年のワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約失効で、日本の国際的孤立は決定的となった。」

 談話の中段の部分では、その主語が「我が国は」、「私たちは」となっているが、先にも述べたが、首相談話としてはおかしいし、間違っている。彼は無理矢理に国民を自分と同じ立場に抱き込むために故意に使用していると考えられるが、不愉快である。我々は、国民と安倍政権とは別の物である事を明確にしておかなければならない。侵略戦争は天皇制政府が加害者として行った事であり、国民は被害者でありながら加害者にされてしまったのである。政府(政権)と国民の責任の程度と内容は異なる。彼の論法は敗戦処理内閣である東久邇宮内閣の「一億総ざんげ」論法をとっている。国民はその論法を認める事はできない。

 米国、豪州、欧州諸国に対し、「支援」と「善意」と「寛容」という言葉を何度も使用しているが、これは、意図的に「へりくだり」前記の国々人々を持ち上げていい気分にさせる話法であるが、狙いは、言いたい事も言いにくくさせる効果を狙ったものであり、国内外の批判を封じ、彼と同じ立場へ抱き込む論法である。これは偽善者、詐欺師の常套手段である。そして、その国々へのお返しとして、「積極的平和主義」なる考えで行動することなのだと自己の政策をアピールしているのである。しかし、中国・韓国に対しては暗に批判し孤立させて、日本に歩み寄らせようとするとともに、安倍政権に批判的な日本国民の政権批判を弱めさせる効果を狙っているのである。捕虜問題の和解と植民地支配の和解とはまったく異なったものであるにもかかわらず同じように扱おうとしており、加害者としての誠意ある対応を放擲している。

しかし、自由も平等も人権も民主主義も保障されていないうえに、何もできていない(原爆被害補償、空襲被害補償、従軍慰安婦問題、核兵器廃絶など)のに、また、まったく矛盾した事をしている(国旗国歌の強制、靖国神社への参拝、米国の核の傘の抑止力、原発再稼働、安保法制改訂、集団的自衛権行使、教育基本法改訂、教科書検定基準改訂、憲法改訂など)のに、耳触りのよい言葉でアピールするのは、狡猾な偽善者、欺瞞的で非情な人間の手法である。それも国民を自分勝手に仲間に抱き込んだ表現で。

 自分自身の「お詫び」「侵略」「反省」の言葉がないのは、冒頭の植民地支配についての認識にうかがえる「他の国もやっていたのに日本だけが悪いのか」という歴史修正主義の認識であるから、必要ないと考え意図的に使用しないのだと思う。戦後生まれの者は謝罪をする必要がないという事を若者にアピールしているけれど、若者に謝罪の意識を持たれると軍事行動である「集団的自衛権」は行使できないからである。しかし、戦後を生きる日本人は多かれ少なかれ、戦中に得た富の分配を受け継承にあずかっているのです。逆にアジアの国々は日本の侵略戦争によって多くの富を失い順調に発展できなかったのです。敗戦後、日本は損害賠償を放棄してもらったし。

 国内の戦後補償も軍人軍属(戦犯も含む)には手厚い(ご褒美の意味である)が、それ以外の国民には受忍論を押し付けている。戦争に反対した平和を主張した人々その事によって命を奪われた人々にはまったく目もくれません。名誉回復も行われていません。この事は安倍政権のアジア太平洋戦争に対する認識を示している。戦争を侵略と認めず正当化(聖戦、自衛戦)しているという事である。また、政府として国民には補償はもちろん謝罪さえしていない。国民は天皇に対する当然の奉公であるから。

沖縄を米軍(米国)の支配下に譲り渡した事、現在も辺野古新基地建設問題はについては、どこで歴史認識を明らかにするのか。

 最後に、日本国憲法という言葉がまったく出てこないですね。これも安倍政権が成立をめざす「自民党憲法改正草案」とはまったく別物ですから、当然です。出す気はさらさらなかったという事です。

安倍政権は政権を担当する資格はない。世界をリードする資格もない。

(2015年8月15日投稿)

 

 

 

 

 

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