2021年4月10日の朝日新聞be記事「はじまりを歩く ……自由に意見を」は、福沢諭吉を取り上げ、慶應義塾福沢研究センターの都倉武之准教授の「福沢は……自分で考え、こうしたいと人に伝え、議論する事で、磨き上げられた良い社会を作り上げていこうとした」という言葉も紹介することによって、福沢を美化した内容にまとめているが、それは彼の一面だけを都合よく取り上げたものであると言ってよい。
私は、「自由に意見を」述べる事ができるという事は、「思想信条の自由を保障される」という事を意味するものと考える。そうであるならば、取り上げるべき人物としては、福沢諭吉はまったく問題外で、取り上げるべきではなく、それよりもむしろ、内山鑑三や山本宣治、そして斎藤隆夫や石橋湛山などではないかと考えるのであるがいかがなものでしょう。
上記の人物についての詳細は別稿に書く事として略記する。内山鑑三は1891年、第一高等学校講師の時に、教育勅語に対する礼拝を拒否した事により、職を追われた。山本宣治は京大学連事件(治安維持法違反)で大学を追われた。1928年の最初の普通選挙で労働農民党代議士として当選し、第56帝国議会で治安維持法改悪に反対して奮闘したため、29年3月、右翼の七生義団員黒田保久二により暗殺された。斎藤隆夫はファシズムに抵抗する議会活動を展開し、1936年の2・26事件直後の帝国議会で「粛軍演説」を行い、40年には日中戦争処理について「反軍演説」を行い議会を除名された。石橋湛山は東洋経済新報で様々な政府批判を行い、敗戦後の56年には自民党総裁・首相となったが、病気により辞職した。日米安保条約改定強行に反対した。
メディアは、この人たちが存在した事実とその生き様をこそ、その重要性を正しく評価し、もっと国民に伝えるべきであると考えるがいかがなものでしょう。メディアは、旧態依然とした人物評価に基づくのではなく、評価の再点検の必要と、それによる視点の転換を必要としているのではないだろうか。