1945年9月15日神聖天皇主権大日本帝国政府文部省は「新日本建設の教育方針」を発表し、「今後の教育は益々国体の護持に努むると共に軍国的思想及び施策を払拭し、平和国家の建設を目途とする」とした。それは、皇民化教育の典型であった「御真影」と、それへの拝礼を中心とする「学校祝日儀式」の処遇に現れていた。
「御真影」については、天皇の服装が軍装であるため、1945年12月GHQが回収を指示したが、文部省は新たに「御真影取扱要綱」(1946年4月)や「御真影下賜」基準(1946年12月)などを規定した。新たな「御真影」の下賜対象のトップには「学校」を挙げていた。被占領期間後の1952年、上記の手続きに基づき、文部省の仲介により、秋田市の私立高校へ「下賜」した。しかし、新聞報道で批判が高まったため、文部省はその後の「下賜」仲介を止めた。
「学校祝日儀式」については、1945年11月の「明治節」までは従来と変化はなかったが、45年12月GHQが「国家神道廃止指令」を発令すると、46年2月の「紀元節」以降は「御真影」不在となり、代わりに「宮城遥拝」を行う地域が少なくなかった。46年3月米国教育使節団報告書が「天皇制的学校儀式」を批判すると、46年7月文部省は、祝日儀式の施行内容は「学校長の見識」に委ねるとし、自己の見解表明を回避した。46年10月には、GHQが教育勅語奉読の式目を禁止すると、文部省は「国民学校令施行規則」中の「学校儀式規定」から、「御真影」拝礼、「君が代」斉唱、教育勅語の奉読、校長訓話、式歌斉唱などこれまでの式目を全廃した。しかし、「四大節」に学校儀式を行う規定は残した。
1947年4月「学校教育法」を施行したが、同法施行規則や「学習指導要領(試案)」には「祝日学校儀式規定」を「欠き」、教員組合との労働協約で休日出勤に条件が付されたので、文部省は廃止を公示していないが「祝日学校儀式」は行われなくなった。
しかし、文部省は、象徴天皇制に変容した「国体」の護持に努めていた。天皇はその地位を「主権の存する日本国民の総意に基づく」象徴に変容させ、侵略戦争の責任のすべてを自己の「股肱」であった旧軍人たちに擦り付けた。皇室財産も全面的に放棄し、天皇とその兄弟の家族以外の皇族すべての身分資格を廃止した。平和化と民主化は、権力者昭和天皇にとってその支配を維持するために不可欠な「条件」と意識したのである。そして昭和天皇は1947年2月以降、米軍MPの護衛付きで、明治天皇に倣い、今度は改めて象徴天皇としての「国民の総意」を獲得するために全国巡歴を実施した。
GHQは 米国教育使節団の勧告に沿って日本の教育改革を進めるため、政策決定する合議制機関の設立を指令した。日本政府は、使節団に協力するために組織し、文部省に設置した「日本教育者委員会」を改組し、1946年8月、第1次吉田茂内閣の教育諮問機関として「教育刷新委員会」を設置した。第一特別委員会は「教育の基本理念に関する事項━教育基本法構想の検討」を担当したが、委員には芦田均、天野貞祐(第3次吉田内閣文相時代に修身科復活提案)など「勅語擁護派」が入り、田中耕太郎文相も「勅語擁護」を主張した。これに反発したCI&E(民間情報教育局)の指示で、日本政府は46年10月8日文部次官通牒により、教育基本理念は、教育勅語を唯一の教育の淵源とせず、勅語とともに広く古今東西の倫理・哲学・宗教などに求める事、学校儀式での「奉読」の禁止、勅語謄本自体は神格化しない形で従来通り学校に保管する事などを命じた。しかしGS(民政局)はこれを不満とし、「国会決議」の形で、新憲法の理念に反する教育勅語・詔書類の、「排除」(衆議院)と「無効確認」(参議院)を1948年6月19日に決議させた。1948年6月、文部省は学校から「教育勅語」の謄本回収を命じた。
(2024年4月3日投稿)