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美濃部達吉・天皇機関説と上杉慎吉・天皇主権説の論争(1912年)

2020-12-01 18:04:04 | 皇室

 美濃部と上杉の論争は1912年に始まった。この論争は、大日本帝国憲法について、君主主義的な側面に力点を置き天皇絶対主義的な解釈に立つ上杉と、立憲主義的な側面に力点を置き議会主義的な解釈に立つ美濃部との論争であった。この論争は、それまでの藩閥専制政府に対して政党内閣制の実現を目論む大正デモクラシー運動第1段階の高揚期に展開されたため、天皇制絶対主義勢力VS大正デモクラシー勢力との闘いという性格をももっていた。そして、13年2月に立憲政友会・立憲国民党の両党が第3次桂太郎内閣不信任決議案を提出(尾崎行雄・犬養毅を中心に「閥族(藩閥)打破・憲政擁護」をスローガンに桂内閣攻撃)し、桂内閣が総辞職(大正政変)した事により、美濃部の天皇機関説が政治的勝利を得、大正デモクラシー運動第1段階の思想としてその役割を担う事にもなったのである。

 論争は、上杉が1912年、雑誌『太陽』6月号に『国体に関する異説』を発表し、美濃部の『憲法講話』を攻撃した事に始まった。美濃部の機関説は、天皇の独裁的権能を狭く解釈し、国務大臣の輔弼を広く解釈し、帝国議会の権限を強く解釈し、議会中心の立憲政治を実現しようとするものであった。美濃部は上杉に対してはすでに、「言を国体にかりてひたすらに専制的の思想を鼓吹し、国民の権利を抑えてその絶対の服従を要求し、立憲政治の仮想の下にその実は専制政治を行わんとするの主張」であると批判していたが、上杉はそれに対し、「日本を民主国とし、天皇を人民の使用人視するものである」と美濃部を非難したのである。これに対し美濃部は『上杉博士の「国体に関する異説」を読む』を書き、「天皇を人民の使用人とするものでもなければ、日本が君主国である事を否定して民主国だとしたわけでもない、それは誤解もはなはだしい」と反論。天下を二分する大論争となった。

 美濃部はその後の1935年、「天皇機関説事件」で反撃を受けたが、それは大正デモクラシー勢力の敗退が背景にあった。

 

 


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