つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

メーデー:安倍自公政権とメディアが仕組んだ新天皇新元号フィーバーに主役奪われた。日本最初のメーデーで歌われた歌詞に深い感慨。今日の労働運動はどれだけ進歩できたのか

2024-04-28 09:37:56 | 労働組合

 2019年5月2日の新聞に、新天皇や新元号などに関するひときわ目立つ派手で大きな写真や大きな見出しの記事に紙面を圧倒的に占められ、そっちに目を引かれて見過ごしそうになるほど目立たない地味で小さな見出しで写真も付けられていない形で「メーデー」の記事が載せられていた。この両者に対する扱いにはメディアの価値観が期せずして表れていると言って良いが、それはメディアの国民主権に対する認識がいかに低いかを示すとともに、国民の認識の実態にシフトしたものであるともいえる。新聞やメディアは、天皇制について自覚の乏しい多くの国民を信じて、安倍自公政権との徹底した対決や問題点の究明をする事より、皇室讃美の記事を報道する事の方が読者や視聴者の関心に答える事になり経営上も利益を上げる事ができる事を戦前の経験や戦後これまでの経験から身に染みて理解しているのでそのようにしたのである。そして、この状況は安倍自公政権にとっては期待通りの極めて喜ばしい状況であるという事だ。全労連は代々木公園に約2万8千人が参加し、「8時間働いて普通に暮らせる賃金・働くルールの確立」「全国一律最低賃金制度と最賃時給1500円の早期実現」などの宣言を採択。小田川議長は「大企業の内部留保が増加している、元号が変われば、富の偏在は改まり、過労死するまでの働き方でも賃金が低下する異常は解消されますか、いずれも答えはノーです」と抗議した。全労協は日比谷公園で約6千人が参加した。

 日本における最初のメーデー世界最初のメーデーは1886年5月1日、米国労働者が8時間労働実現と総同盟罷業を決議)神聖天皇主権大日本帝国政府下の1920年5月2日(当年のみ2日日曜日。当時労働者は日曜日でなければ参加できなかった。)であった。大会の資金幸徳秋水の遺著の印税から提供された。当時、労働運動は1912年8月に作られた「友愛会」が、1919年8月には「大日本労働総同盟友愛会」、1920年10月「日本労働総同盟友愛会」、1921年10月「日本労働総同盟」へと発展し、その中で神戸川崎造船所や八幡製鉄所の争議、東京での普通選挙法デモなどが闘われた。

 日本に初めてメーデーを紹介したのは、1890年、フランスにいた中江兆民門下の酒井雄三郎が、徳富蘇峰の『国民之友』に寄せた「5月1日の社会党運動」であった。日本で最初のデモは、1898年4月10日労働組合期成会が東京遷都30周年を利用し、本石町から上野公園までの800人のデモであった。

 最初のメーデーは東京上野公園で実施されたが、日曜日であったため参加者は1万人となった。治安警察法第17条(ストライキを制限する内容)の撤廃、失業防止(当時戦後恐慌)、最低賃金法の設定、8時間労働制、シベリア出兵の即時撤兵公費教育の実現、言論絶対自由などを決議した。

 そして、この日に歌われた歌が下中弥三郎の作詞である以下のような内容であった。下中は、埼玉師範卒業の小学校教師によって作られた日本最初の教員組合である啓明会(1919年8月)代表であり、この歌は一高寮歌「あ々玉杯に花うけて」の曲にのせて歌われた。

 この世の富も繁栄も   われ等が汗の末になる

 われ等が手をばおく時は 世界も闇となりぬべし

 汗の値の貴さを     いざ遊民に示さばや

 (略)

 あ々メーデーよ、メーデーよ 

 飢餓貧乏の恐怖なき   自治労働の新社会

 建設すべき我々の    志気を天下に示すべき

 一年一度の祝祭よ

 この歌は第2回まで歌われたが、第3回からは大場勇作「聞け万国の労働者」に変わった。

 また、1923年9月の関東大震災後、ファシズムの強まりにより労働運動は抑圧され分裂し、メーデーは1936年の2・26事件以後禁止された。

 労働運動の曲折についてみると、労働総同盟は1924年2月大会で、運動の「方針転換」を宣言。運動の大衆化をめざし、「現実主義」とする立場に立ち、政治的に経済的に改良運動を重視。労働者の要求は、資本家の情態を考慮し、その要求が社会一般から受け入れられるかどうか、工場側が許容できるかどうかを条件に「過大な」要求をかかげる態度を退け交渉において、「相手が常識的である場合に於いては、出来る限り罷業団に於ても温和に……理論整然と交渉すべき」であり、「裏面に於てなされる戦術が、争議の勝敗を決定する重要な役目を持っている」との態度を表明(『労働』大正14年8月15日)。

 「現実主義」は端的に言えば、革命主義に対決する反共主義であった事は歴史がすでに示す通りである。その反共主義は天皇制権力と資本家の反共主義と軌を一にしていた。反共主義の体質は神聖天皇主権下で権力の弾圧を回避できたし、資本家側からも理解を得る事を可能とし、その組織の安定を保つ事ができた。しかし、権力や資本の侵略や反動化には、労働者の日常的利益に対してすら闘わず順応するという論理を内に有していた。現在の「連合」の姿勢に対してどのような評価が多いかによって、これからの労働運動のあり方と労働者の位置づけが決まっていくであろう。日本の労働運動はあれからどれほど進歩できたのだろうか。歴史から何を学ぶべきか?

(2019年5月2日投稿)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 昭和天皇や国会公文書が示す... | トップ | 自公政権は検定を恣意的(歴... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

労働組合」カテゴリの最新記事