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関東大震災下、埼玉県内務部長の発した通牒と本庄町での朝鮮人虐殺の実態その➀

2023-09-10 19:36:31 | 関東大震災

 

 関東大震災下の埼玉県では本庄町での朝鮮人虐殺数が最も多かったが、そのきっかけを作った埼玉県内務部長の発した朝鮮人に関する通牒を以下に紹介しよう。

「庶発第八号

 大正十二年九月二日

                 埼玉県内務部長

郡町村長宛

 不逞鮮人暴動に関する件

        移牒

今回の震災に対し、東京において不逞鮮人盲動有之、又その間過激思想を有する徒らに和し、、もって彼等の目的を達せんとする趣及聞漸次その毒手を振わんとするやの惧れ有之候については、この際町村当局は、在郷軍人分会消防隊青年団等と一致協力して、その警戒に任じ、一朝有事の場合には、速かに適当の方策を講ずる様至急相当御手配相成度、右その筋の来牒により、この段及移牒候也」

 この通牒をきっかけにして、埼玉県下でも朝鮮人の大虐殺が行われたが、なかでも本庄町はその数が突出していた。その実態を知る事が出来るものとして、当時『埼玉新聞』(1923年9月2日~4日)が掲載した、当時本庄町の町会議員であった中島一十郎氏の『本庄の虐殺事件を語る』を以下に紹介したい。

「震災当時わたしは、昭栄製糸の前身の山重製糸に勤め、原料仕入れ主任の仕事をしながら町会に議席を置いていました。震災は大正12年9月1日午前11時58分、地震被害は本庄ではほとんどありませんでしたが、大変なのはその日の夕方からでした。昼の明るいうちから東南の方角に異様な光が見え、暗くなるにつれ、空をこがすほどに赤く燃え、人々は三原山の噴火だろうなどと噂し、隣の深谷市が大火だと消防ポンプが深谷までかけつける始末でした。翌日東京の様子は続々と逃れて来る避難民たちの口から伝えられたのがあの、呪うべきデマでした。朝鮮の独立を願う朝鮮人社会主義者と一緒になって震災に乗じて東京を焼き払い無辜の日本人を大量に殺戮し徒党を組んで沿道を焼き払いながら中仙道を下ってくる、というのです。また彼らは夜陰に乗じて井戸の中に毒薬を投げ入れるというも飛び出しました。これらの噂は根も葉もないデマでしたが、当時の本庄町では郡役所門平文平氏らの幹部などが県庁からの達しだといって消防団在郷軍人分会などにそれを事実として伝え対策に乗り出すよう指示したという事もあり、政府や軍部の一部にはこれを機会に社会主義者独立を願う朝鮮人を一掃すべきだという意見もあったほどで、デマに雷同した町民だけに罪を着せるべきではないと思っています。…

 さて、2日、3日、4日と日が経つにつれ東京の惨状はますます広まり、例のデマもいよいよ真実味を帯び出したわけですが、そこへあの不幸な朝鮮人たちを乗せたトラックがやってきたのです。…… 

 本庄町を通り過ぎたトラックは群馬県高崎市の高崎15連隊へ送られるものだとも長野県へ行くのだともいわれます。そのトラックが今の上里村、当時の神保原村を抜けて群馬県の新町へ入る神流川の岸まで行ったところ、群馬側でその通行を阻止したというのです。……群馬県に入らず本庄に引き返したトラックですが、このトラックの上に乗っていた人たちが再び本庄の町に入って来た時にはもう半分近くは石で打たれたり、鳶口で叩かれたりして血だらけで沿道ではこの車を止めるために色々と妨害もされたそうです。でもとにかくどうにか車が本庄署にたどり着いたのがもう暗くなった頃でした。その頃の本庄署は今の市役所の裏にあって現在の検察庁の建物がそれでした。そして市役所の裏の現在市税務課の入っている建物のあたりに問題の武道場がありました。」その➁へつづく

(2023年9月10日投稿)

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関東大震災下「白色テロ」の原動力を教育に求めた秋田雨雀その➁

2023-09-06 19:18:23 | 関東大震災

 関東大震災時における朝鮮人らを対象とした大虐殺事件は、第一次世界大戦後、神聖天皇主権大日本帝国における独占資本主義の確立を社会的基盤にして形成された、「神聖天皇主権大日本帝国の労働者階級を中心とする日本人民の諸階級・諸階層と朝鮮人労働者階級を中核とする朝鮮人民との、反日本帝国主義連帯の芽生えを摘み取ろうとした神聖天皇主権大日本帝国政府によって強行されたものである」とされている。

 劇作家・児童文学者であった秋田雨雀(1883~1963)は、関東大震災下に行われた「白色テロ」の原因教育に求め、1923年9月『民族解放の道徳』を読売新聞に発表している。以下に紹介しよう。

㈣「ある外国人が大震後日本人が大震によって何故に民族的という事を考えるのであろう。むしろ自然の圧迫を受けた時には自然に対して人類という事を考えるのは当然でなければなかろうが、といった事を聞いて私は非常に至言だと思った。自然の圧迫に対しては人間は人間としてお互いに手を握り合わなければならないはずである。しかるに事実はそれに反して私達日本人は自然から受けた大きな損害に数倍するほどの惨虐性を同じ人類である処の〇〇(朝鮮)人その他及び同民族に与えている。この不合理は何とした事であろう。この不合理は単に偶然の出来事として看過さるべき不合理ではない。恐らく私達日本人の民族的精神の誤謬が反省されない限り、度々繰り返される不合理であろうと思う」

㈤「しかしこの不合理の生む惨虐性は決して或る少数の人々の力によって生まれたものでもなければ、或る時の偶然の機会で生まれたものでもなく、私達全体のものを包んでいるところの一つの迷信から生まれたものであると思う。或る少数の人々が意識してやったと思われる行為でさえもそれは無意識的にその迷信の魅力に働きかけられている場合が多い。

㈥「民族の持つ惨虐性というようなものは必ずしも今日の日本だけが持っているものでないかも知れない。しかし日本のような戦争によって国家的地位を確立したと思われる国家では、恐らくその惨虐性が道徳の性質を帯びているのを当然の事だといわなければならない。親切、無邪気、相互扶助的な精神さえも、それは全く自己の民族にのみ限られたものであって、一歩利害を異にした民族に対しては、あらゆる惨虐、無残な行為を生んで来る。であるから単に日本ばかりとはいわないが、今日の各国民の持っている民族精神の陰には、今度の日本震災後において日本人の暴露したような醜い惨虐性が含まれている事を知らなければならない。国民道徳と私達の呼んでいるものから民族が解放されて、そこから本当の広い自由な新しい道徳が生まれて来るのでなければ、我々は自然というものに対して安心して対峙して行く事が出来ないばかりでなくて、人類は人類の敵となって絶えず苦しめ合うものである事を覚悟しなければならない。本当に民族を愛するいわゆる「国士」こそは、民族及び人類をこの誤った道徳の中から救い出して、人類共存の生活の方へ導くものでなければならない。そうしてそのために受けるあらゆる苦痛を甘受する人でなければならない。その人達こそ本当に「国士」を愛する人だという事ができる。」

(2023年9月6日投稿)

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関東大震災下「白色テロ」の原動力を教育に求めた秋田雨雀その➀

2023-09-06 18:30:24 | 関東大震災

 関東大震災時における朝鮮人らを対象とした大虐殺事件は、第一次世界大戦後、神聖天皇主権大日本帝国における独占資本主義の確立を社会的基盤にして形成された、「神聖天皇主権大日本帝国の労働者階級を中心とする日本人民の諸階級・諸階層と、朝鮮人労働者階級を中核とする朝鮮人民との反日本帝国主義連帯の芽生えを摘み取ろうとした神聖天皇主権大日本帝国政府によって強行されたものである」といわれている。

 劇作家・児童文学者であった秋田雨雀(1883~1963)は、関東大震災下に行われた「白色テロ」の原因を、教育に求め、1923年9月『民族解放の道徳』を読売新聞に発表している。以下に紹介しよう。

㈠「クロポトキンが西ヨーロッパの自由思想を称えて立った当時、クロポトキンはスラブ民族を滅ぼすものであるといって非難された事があった。その当時クロポトキンの答えた短い言葉を私たちは記憶している。『スラブ民族の持っている善良な性質、たとえば寛大、慈悲、人間的でしかし鈍重で質朴なそういう性質を持った民族を迷信と暗黒の中から解決しようとするのが非民族的か、それらの善良な人民を暗黒と迷信の中に屈従させて置こうとする方が民族を愛するものであるか』といった言葉は、今日の日本人の言っている愛国心、非愛国心という言葉を批評する場合にも適切に当てはまると思う。甘粕事件(大杉事件)に関して度々「国士」というような言葉が用いられているのを見て私達は微笑せざるを得なかった。「国士」とは国民の大部分を迷信の中に置いて、その国民の持っているあらゆる善良な思想感情の発達を阻害するものの上にかぶせられた名だとすれば、私達は先ず「国士」という様な言葉を最も恥ずべき名前の一つだと思う。真の意味の「国士」とは民族を一個の人類として自然な明るい道に導いてゆき、民族の上に行われている差別的な生活を打破し、その運動を阻害するものと勇敢に戦ってゆくものこそ、当の「国士」でなければならないはずである。こういう見易い事が、今日の日本人ばかりとはいわない一般の人類に理解されないという事は、今日の人類が全体として迷信の域を脱していないという事を証明するものである」

㈡「大震当時及びその後における日本人の生活行動を見ると日本人が果して新しい時代の教育を受けていたかどうかは疑わしくなる。我々が名付けて教育といったものはそれは本当の教育ではなくて民族の持っている迷信を保存し、民族をそのの中に閉じ込めようとしていた一つの運動に過ぎなかった。その結果がこの大震によってあまりに露骨に表れ過ぎたに過ぎないのだと思う。迷信を土台にした教育者は大震後における民族的な欠陥の暴露、例えば自警団の虐殺事件や甘粕事件やその他の惨虐な行動を見て自分達の教育の正しく効果を奏していた事を喜ばなければならないはずである。恐らくそういう人達はああいう惨虐な行為を生んだ原動力となったところの教育をますます涵養させようとしている事だろうと思う。」

㈢「しかし本当に国民の生活人類の生活と一元のものとして正しい発達を遂げさせようと思う人々にとっては、今日まで日本人の持っていた国民教育、民族精神に大きな欠陥のあるという事を気付き、一日も早くその欠陥から私達自身の生活を解放しなければならないという事を、この際痛切に感じなければならないと思う。もし今日の国民教育或は民族精神というようなものを是認し或は弥縫して行ったならば、恐らく日本人は幾度も幾度も醜い惨虐性を暴露して、民族の持っている最も良い素質さえも失ってしまうであろう。民族の美点を発揮する事は民族を人類の生活から隔離する事でなくて同じ民族の中に行われる迷信や圧迫からその民族を解放して、広い人類の生活の上に働きかけてゆく事でなければならない。」   つづく

(2023年9月6日投稿)

 

 

 

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朝鮮人虐殺慰霊碑建立提言:山崎今朝弥『地震憲兵火事巡査』より

2023-09-03 20:41:03 | 関東大震災

 2023年9月3日朝日新聞「日曜に想う」が、関東大震災朝鮮人虐殺100年に際し、埼玉県本庄市(当時本庄町)の市長らが、当時住民が虐殺した朝鮮人を慰霊するために建てた石碑のある墓地で追悼式を営んだ事を掲載した。山崎今朝弥著『地震憲兵火事巡査』に朝鮮人虐殺慰霊碑建立などの提言主張があるので紹介しよう。

 山崎今朝弥は、明治法律学校(明治大学の前身)卒後、判検事登用試験、弁護士試験ともに合格し、司法官試補となり、検事代理として甲府区裁判所に赴任した。1902年11月には渡米。以下に提言を紹介しよう。

「選外壱等

 われわれは昨年9月の震災を、この一周年に当たり、如何に記念すべきか、という読売新聞の課題に対し、選外壱等に当選さるべきものとして大正13年8月10日書いた原稿。

㈠朝鮮人の殺された至る処に朝鮮人塚を建て、永久に悔悟と謝罪の意を表し、以て日鮮融和の道を開くこと。しからざる限り日鮮親和は到底見込みなし。

㈡司令官本部に宗一大杉事件の事。甘粕正彦憲兵大尉が大杉栄伊藤野枝、大杉の甥宗一(大杉の妹の子)を虐殺、虐殺指示した)地蔵を建立し、永遠に無知と無謀と幼児の冥福を祈り、以て排日問題の根本口実を除去すること。米国排日新聞の日本に対する悪口はことごとくこれに原因すればなり。

㈢セッテンデーもしくは亀戸労働祭を挙行し、亀戸警察軍隊の手に殺された若い労働者の魂を猛烈に祭ること(亀戸事件の事。純労働組合長・平沢計七南葛労働会理事・河合義虎他組合員8名を亀戸署が手引きした習志野騎兵第13連隊が虐殺した)。日本の労働者だからよいようなものの、噴火口を密閉したのみで安泰だと思ってるは馬鹿の骨頂だ。何時か一時に奮然として爆裂するには当然過ぎるほど当然である。」

 上記本庄町での住民による朝鮮人虐殺事件については、『山陽新聞』1923年10月25日「埼玉県の暴行自警団検挙さる 関所を設けて通行人を一々検査」に詳しい。又中島一十郎(当時本庄町町会議員)が『本庄の虐殺事件を語る』(1932年9月2日~4日『埼玉新聞』)で、「本庄町では郡役所の門平文平氏らの幹部などが県庁からの達しだといって消防団や在郷軍人分会などに朝鮮人についての流言蜚語を事実として伝え、対策に乗り出すよう指示した」事が町民らによる虐殺行為を引き起こしたと述べている。

(2023年9月3日投稿)

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関東大震災に渋沢栄一ら支配階級のなかから「天譴論」主張

2023-09-03 15:57:59 | 関東大震災

 関東大震災に関する記事(2023年9月3日付朝刊「日曜に想う」)で、朝日新聞が初めて「天譴論」を紹介した。

 「天譴」とは、「天のとがめ、天罰」との意味であり、「天譴論」とは「大震災が起こったのは天罰である」との意味で、「第一次世界大戦以来臣民(国民)は贅沢に流れ放縦に走り、危険思想の横行を招いている、大震災は臣民の緊張を求める天の戒めだ」とする主張である。震災が起こった直後から、財界の大御所であった渋沢栄一ら為政者支配階級のなかから主張流布された。この主張は、第一次世界大戦後の「成金天下」の状況から疎外された都市と農村の一般民衆の共感を呼んだ。しかしその狙いは、神聖天皇主権大日本帝国政府天皇による、第一次世界大戦以来の民衆の解放を求める動き逆転させる企てであった。それを見抜いた菊池寛は1925年4月「あの地震を天譴と解した人などがいたが、私はあの地震で、天譴などが絶対にない事を知った。もし天譴があるならば、地震前栄耀栄華をしていた連中が、やられそうな筈だが、結果はその正反対であった」(菊池寛「地震の影響」)と書いている。

 「天譴論」を背景に神聖天皇主権大日本帝国政府天皇らの逆転の企ては、臣民(国民)の思想統制のため、1923年11月10日に「国民精神作興に関する詔書」を出し、「輓近(ばんきん)学術益々開け人智日に進む 然れども浮華放縦の習漸く萠(きざ)し軽佻詭激の風も亦生ず 今に及びて時弊(時代の悪習・弊害)を革めすむは或は前緒(前人の遺業)を失墜せむことを恐れる、国家興隆の本は国民精神の剛健に在り 之を涵養し之を振作して以て国本(民本主義に対抗する言葉)を固くせざるべからず、爾臣民其れ之を勉めよ」と命じたのである。また、それより少し前の1923年9月7日には、前年廃案となった過激社会運動取締法案緊急勅令で治安維持令として公布し、1925年には治安維持法として成立させたのである。

勅令「明治憲法における天皇大権に基づき、天皇の命令として国務大臣の輔弼のみにより、議会の審議を経ないで制定される立法の形式で、緊急勅令はその一つ

詔書「明治憲法では、皇室の大事及び天皇大権事項に関して発表される文書。形式により詔書・勅語・勅書の3種類に分かれる。現行憲法では廃止されたが、国会の召集・解散の際のみ、詔書の形式を使う」

(2023年9月3日投稿)

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