関東大震災下の埼玉県では本庄町での朝鮮人虐殺数が最も多かったが、そのきっかけを作った埼玉県内務部長の発した朝鮮人に関する通牒を以下に紹介しよう。
「庶発第八号
大正十二年九月二日
埼玉県内務部長
郡町村長宛
不逞鮮人暴動に関する件
移牒
今回の震災に対し、東京において不逞鮮人の盲動有之、又その間過激思想を有する徒らに和し、、もって彼等の目的を達せんとする趣及聞漸次その毒手を振わんとするやの惧れ有之候については、この際町村当局は、在郷軍人分会消防隊青年団等と一致協力して、その警戒に任じ、一朝有事の場合には、速かに適当の方策を講ずる様至急相当御手配相成度、右その筋の来牒により、この段及移牒候也」
この通牒をきっかけにして、埼玉県下でも朝鮮人の大虐殺が行われたが、なかでも本庄町はその数が突出していた。その実態を知る事が出来るものとして、当時『埼玉新聞』(1923年9月2日~4日)が掲載した、当時本庄町の町会議員であった中島一十郎氏の『本庄の虐殺事件を語る』を以下に紹介したい。
「震災当時わたしは、昭栄製糸の前身の山重製糸に勤め、原料仕入れ主任の仕事をしながら町会に議席を置いていました。震災は大正12年9月1日午前11時58分、地震被害は本庄ではほとんどありませんでしたが、大変なのはその日の夕方からでした。昼の明るいうちから東南の方角に異様な光が見え、暗くなるにつれ、空をこがすほどに赤く燃え、人々は三原山の噴火だろうなどと噂し、隣の深谷市が大火だと消防ポンプが深谷までかけつける始末でした。翌日、東京の様子は続々と逃れて来る避難民たちの口から伝えられたのがあの、呪うべきデマでした。朝鮮の独立を願う朝鮮人が社会主義者と一緒になって震災に乗じて東京を焼き払い無辜の日本人を大量に殺戮し徒党を組んで沿道を焼き払いながら中仙道を下ってくる、というのです。また彼らは夜陰に乗じて井戸の中に毒薬を投げ入れるという噂も飛び出しました。これらの噂は根も葉もないデマでしたが、当時の本庄町では郡役所の門平文平氏らの幹部などが県庁からの達しだといって消防団や在郷軍人分会などにそれを事実として伝え、対策に乗り出すよう指示したという事もあり、政府や軍部の一部にはこれを機会に社会主義者と独立を願う朝鮮人を一掃すべきだという意見もあったほどで、デマに雷同した町民だけに罪を着せるべきではないと思っています。…
さて、2日、3日、4日と日が経つにつれ東京の惨状はますます広まり、例のデマもいよいよ真実味を帯び出したわけですが、そこへあの不幸な朝鮮人たちを乗せたトラックがやってきたのです。……
本庄町を通り過ぎたトラックは群馬県高崎市の高崎15連隊へ送られるものだとも長野県へ行くのだともいわれます。そのトラックが今の上里村、当時の神保原村を抜けて群馬県の新町へ入る神流川の岸まで行ったところ、群馬側でその通行を阻止したというのです。……群馬県に入らず本庄に引き返したトラックですが、このトラックの上に乗っていた人たちが再び本庄の町に入って来た時にはもう半分近くは石で打たれたり、鳶口で叩かれたりして血だらけで沿道ではこの車を止めるために色々と妨害もされたそうです。でもとにかくどうにか車が本庄署にたどり着いたのがもう暗くなった頃でした。その頃の本庄署は今の市役所の裏にあって現在の検察庁の建物がそれでした。そして市役所の裏の現在市税務課の入っている建物のあたりに問題の武道場がありました。」その➁へつづく
(2023年9月10日投稿)